スポーツ選手のDVの話が一部で賑わっているようだな、よくないよ、アレは実に。
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行動には、能動感はもちろん、精神統一感、自己統一感、心身統一感、自己の単一感、唯一無二感がある。さらに、逆説的なことであるが、行動化は、暴力的・破壊的なものであっても、その最中には、因果関係の上に立っているという感覚を与える。自分は、かくかくの理由でこの相手を殴っているのだ、殺すのだ、戦争を開始するのだ、など。時代小説を読んでも、このモードの変化とそれに伴うカタルシスは理解できる。読者、観客の場合は同一化である。ボクサーや球団やサッカーチームとの同一化が起こり、同じ効果をもたらすのは日常の体験である。この同一化の最中には日常の心配や葛藤は一時棚上げされる。その限りであるが精神衛生によいのである。〔・・・〕 |
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DVにおいても、暴力は脳/精神の低い水準での統一感を取り戻してくれる。この統一感は、しかし、その時かぎりであり、それも始まりのときにもっとも高く、次第に減る。戦争の高揚感は一ヶ月で消える。暴力は、終えた後に自己評価向上がない。真の満足感がないのである。したがって、暴力は嗜癖化する。最初は思い余ってとか論戦に敗れてというそれなりの理由があっても、次第次第に些細な契機、ついにはいいがかりをつけてまでふるうようになる。また、同じ効果を得るために次第に大量の暴力を用いなければならなくなる。すなわち、同程度の統一感に達するための暴力量は無限に増大する。さらに、嗜癖にはこれでよいという上限がない。嗜癖は、睡眠欲や食欲・性欲と異なり、満たされれば自ずと止むという性質がなく、ますます渇きが増大する。 |
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(中井久夫「「踏み越え」について」初出2003年『徴候・記憶・外傷』所収) |
とはいえーー、である。・・・イヤイヤ、ここで元東大総長の言葉を掲げたら嫌われるだろうなァ。特にツイッター村のすこぶる民主主義的な言論界では。
ここではあくまで「一般論」として掲げるよ。繰り返し強調しておくが、DVを肯定する気は微塵もないからな。
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スポーツはそもそも反民主主義です。神様に愛されたものたちだけが、活躍できるという恩寵にみちた世界です。その活力を社会が吸い取れなかったら、社会が滅びる。文化もそうでしょう。社会がそうしたものを組み込めなくなっている危うい時に、われわれがスポーツを批評する意味はそこにある。(蓮實重彦『スポーツ批評宣言あるいは運動の擁護』2004年) |
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スポーツには、嘘としか思えない驚きの瞬間が訪れる。また、人はその驚きを求めて、スポーツを見る。 文化として始まったものが野蛮さにあられもなく席巻される瞬間を楽しむのです。優れた選手とは、文化として始まったものを、いきなり自然によって蹂躙してしまう野蛮な存在にほかなりません。ロナウドの足捌きを見てみるがいい。あれが文化として継承可能な運動とはとても思えません。 あれこそ係累なしの、孤独で一代かぎりの獰猛さにほかなりません。プレーのスタイルも水準も違いますが、日本に三浦知良の後継者が存在しないのも、同じ理由によります。 不意に文化を蹂躙する野蛮なパフォーマンスを演じること。 それを、運動することの「知性」と呼ぶことにしましょう。 これは、「知識人的」であることとはいっさい無縁のものですが、それを周囲に組織する能力を、運動することの「想像力」と呼ぶことにしましょう。 「知性」と「想像力」とが一つになったとき――ごく稀なできごとなのですが――そこには動くことの「美しさ」が顕現します。だから、「美しい」選手がいるのではない。選手が「美しさ」を体現してしまう瞬間があるというだけなのです。 二〇〇二年のワールドカップにおける数少ない出場試合におけるジダンの動きは、一瞬たりとも「美しく」なかった。だが、その直前のチャンピオンズ・リーグでの彼の動きは、信じがたいほど「美し」かった。デイヴィッド・ベッカムだって、ピッチに立っているあらゆる瞬間に「美しい」わけではない。ワールドカップの対ブラジル戦で、自陣深くでボールを奪われた瞬間の彼は、むしろ「醜さ」を体現していたとさえいえます。その「醜さ」を一瞬にして忘れさせてくれたのは、その直後に奪ったボールを受けたブラジルのロナウジーニョの弾むようなドリブルによる中央突破にほかなりません。(蓮實重彦『スポーツ批評宣言』2004年) |
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何が「運動」を「美しさ」へと変化させるのでしょうか。それは、潜在的なものが顕在化する一瞬に立ち会い、その予期せぬ変化を誰もが自分の肌で感じるということなのです。〔・・・〕 野球はきわめて詳細な人工的な規則があるでしょう。それに対して、サッカーの90%が動物でもできるものだと思っています(笑)。かろうじて「人間」的なルールはオフサイドをめぐるものだけであり、あとはいかにも動物的なスポーツです。(蓮實重彦『スポーツ批評宣言』2004年) |
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(中田英寿がエースだった頃の記者会見で、なぜ中田が不機嫌そうに記者に答えるかについて) 理由は簡単です。人類は「運動」が嫌いなのであり、とりわけ日本のジャーナリストたちは、無意識のうちに「運動」が嫌いな人類の代表として振る舞ってしまうからです。こうして彼らは、「運動」好きの選手たちを、「運動」嫌いな人類の側に何とか引き寄せようとする。結果は数字になるけれども、「運動」は数字にならないからです。(蓮實重彦『スポーツ批評宣言』2004年) |
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やあ、でもしょうがないよ、特に民主主義マインドが極まったツイッター村の方々が「運動」を嫌うのは。 |
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ある意味で、民主主義的社会において最も容易に維持され発展させられることがある。…それは、強者を破滅しようとすること、強者の勇気をなくそうとすること、強者の悪い時間や疲労を利用しようとすること、強者の誇らしい安心感を落ち着きのなさや良心の痛みに変えようとすること、すなわち、いかに高貴な本能を毒と病気にするかを知ることである。 In einem gewissen Sinne kann dieselbe sich am leichtesten in einer demokratischen Gesellschaft erhalten und entwickeln:…Daß es die Starken zerbrechen will, daß es ihren Muth entmuthigen, ihre schlechten Stunden und Müdigkeiten ausnützen, ihre stolze Sicherheit in Unruhe und Gewissensnoth verkehren will, daß es die vornehmen Instinkte giftig und krank zu machen versteht](ニーチェ『力への意志』草稿、 Herbst 1887 - Anfang 1888) |
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より弱い者はより強い者に対して群れる[Das Schwächere drängt sich zum Stärkeren](ニーチェ『力への意志』草稿、 1882 - Frühjahr 1887) |
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強者の独立に対する群れの本能[der Instinkt der Heerde gegen die Starken Unabhängigen]…例外に対する凡庸の本能[der Instinkt der Mittelmäßigen gegen die Ausnahmen](ニーチェ『力への意志』草稿、 Herbst 1887 - Anfang 1888 ) |
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最も強い者は、最もしっかりと縛られ、監督され、鎖につながれ、監視されなければならない。これが群れの本能である[Die Stärksten müssen am festesten gebunden, beaufsichtigt, in Ketten gelegt und überwacht werden: so will es der Instinkt der Heerde.](ニーチェ『力への意志』草稿、 Herbst 1887 - Anfang 1888) |