少なくともSNSの時代の民主主義というのは、日本に限らず、「高何とかさん」の類が選ばれるオクロス制度だよ、こんなのいまさらの話だと思うがね。もっとも日本が世界各国に比べて衆愚度がよりいっそう酷いなら、その分析は必要かも知れないが。
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◼️「ハイパーメディア社会における自己・視線・権力」浅田彰/大澤真幸/柄谷行人 /黒崎政男、1995年 |
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柄谷――「朝まで生テレビ」にしても何にしても,TV でディスカッションをしながら,その内容に関して視聴者からファックスで意見を聞いたり世論調査をしたりするけれど,それは非常に曖昧かつ流動的で,誰かが強力にしゃべると,サーッとそちらに変わったりして,一定しないんですね. 黒崎――だから,直接民主主義というのを,どの時点でやるのか,ニュースを流す前にやるのか,後にやるのか,それだけで結果が全然違ってくる. 柄谷――自己というものを持つには,一定程度の時間が必要なんですよ.そのことは,ヒュームも言っているし,ニーチェも実はそれをひそかに引用していると思う. つまり,自己というのは一つの政府(ガヴァメント)だ,多数の自己の間での代表だ,とその意味で,自己というものがすでに代表制でしょう.そうすると,そのような自己から成り立つ政府形態というものを考えるときに,それを直接民主主義でやるというのはおかしいんです.全国民がボタンを押して絶えず現在での意見で政策を決めるようになれば,政策の一貫性なんてなくなるんですよ. |
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大澤――いままでは,そういう問題が単純に技術的な問題で隠されていたわけでしょう.たとえば,国民の意志なんてものがどうして存在できるかと言えば,しょっちゅう確認できないからなんです.何年かに一度,選挙をやって,ようやく確認できるというような段階だから,国民の意志というふうに束ねて存在できるわけですね. それを本当にリアルタイムで確認できるようになったとたんに,「国民の意志」と呼ぶにたるような統一性は,あっというまに分解してしまう.そうなれば,そもそも,民主主義的な意志の集計によって,「何を」決定しているのかも判らなくなってしまうわけです. 黒崎――そうなると,完全にバークレー的な状況ですよね.一瞬一瞬,私も別な自己であり,政府も別な政府であり,ただ命名によって一貫性を保持しているだけだ,と. 浅田彰)ルソーが一般意志というけれど,具体的なモデルとしては小さい共同体を考えているわけで,それを無視して直接民主主義を乱暴に拡大すると,ファシズムと限りなく近いものになってしまうわけです. たとえば,リンツで「アルス・エレクトロニカ」というのをやっているんだけれど,あそこはヒトラーが生まれた所だから,ヒトラーが演説した広場があって,前回は,そこに巨大なスクリーンを立てて,インタラクティヴなゲームをやったんですね.みんなに赤と緑の反射板を持たせて,全員でTVゲームをやったりね. そこで,市長の人気投票とか,直接民主主義制のゲームもやったんですが,まさに柄谷さんがおっしゃったような感じで,みんながそのつど結果を見て補正するから,およそ一定しないわけです.(「ハイパーメディア社会における自己・視線・権力」浅田彰/大澤真幸/柄谷行人 /黒崎政男、InterCommunication No.12 1995年) |
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民主とは「根拠の乏しい臆説にほかならぬオピニオンをまとめたものによって右往左往させられるオクロス(衆愚)の政治」のことだととっくに判明している。(西部邁「公共的実践の本源的課題」実践政策学・創刊号(第 1 巻 1 号)2015年、PDF) |
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古井由吉)デマゴギーというのは僕らにとっての宿命というくらいに僕は思ってるんです。つまりデモクラシーという社会を選んだんだ。それには付き物なんですよ。有効な発言もデマゴギーぎりぎりのところでなされるわけでしょう。 そうすると、デマゴギーか有効な発言かを見分けるのは、こっちにかかってくるんだけれど、これはなかなか難しい。つまり、だれのためかっていうことだ。マスのためだとしたらデマゴギーは有効なんですね。デマゴギーはその先のことなんて考えないからね。 それにしても、政治家もオピニオンリーダーたちも、マスイメージにたいして語るんですね。民主主義の本来だったら、パブリックなものに語らなきゃいけない。ところが日本では、パブリックという観念が発達してないでしょう。(古井由吉『西部邁発言①「文学」対論』より) |
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人がデマゴギーと呼ぶところのものは、決してありもしない嘘出鱈目ではなく、物語への忠実さからくる本当らしさへの執着にほかならぬ〔・・・〕。人は、事実を歪曲して伝えることで他人を煽動しはしない。ほとんど本当に近い嘘を配置することで、人は多くの読者を獲得する。というのも、人が信じるものは語られた事実ではなく、本当らしい語り方にほかならぬからである。デマゴギーとは、物語への恐れを共有しあう話者と聴き手の間に成立する臆病で防禦的なコミュニケーションなのだ。ブルジョワジーと呼ばれる階級がその秩序の維持のためにもっとも必要としているのは、この種のコミュニケーションが不断に成立していることである。(蓮實重彦『凡庸な芸術家の肖像』1988年) |
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いまのところは日本の首相である「高何とかさん」の淫らなまでの卑猥さが喚起している雰囲気としての人気がそうであるように、あたりに氾濫しているのは、性別、年齢、階級にかかわりなく、これという意識もないままひたすら孤立を避けて、ごく曖昧な集団に一体化しようとする同調意識の自堕落な共有でしかない。(蓮實重彥「些事にこだわり」30 『ちくま』2026年3月号) |
もしよければ、「マルキストの選挙観点」も参照されたし。
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いや上にも柄谷がいるから、そこからーー前後関係を省略してーー、短く二文だけ掲げておこう。 |
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普通選挙とは、国家機構(軍・官僚)がすでに決定していることに「公共的合意」を与えるための手の込んだ儀式でしかない。(柄谷行人『トランスクリティーク』第二部・第1章「移動と批判」2001年) |
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不思議なのは、われわれがそうと知りつつ、このゲームをつづけていることだ。あたかも選択の自由があるかのようにふるまいながら、(「言論の自由」を守るふりをして発せられる)隠された命令によって行動や思考を指図されることを黙って受け入れるばかりか、命令されることを要求すらしている。〔・・・〕この意味で民主主義においては一般市民の誰もが、いわば王である。とはいえ、それは立憲民主主義の王、形式だけの意思決定を下す君主であって、行政官から渡された法案に署名するだけの役目しか担っていない。(ジジェク『ポストモダンの共産主義』2009年) |
