ははあ、この桑原旅人くんの言ってるエリートというのは、むかし蓮實重彥がこう言っていたが、たしかにエリートがいなくなったからな。
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蓮實)エリート教育をやったほうが、左翼は強くなるんですよ。エリートのなかに絶対に左翼に行くやつが出るわけですよね。〔・・・〕 ところがいまは、エリート教育をやらないで、マス教育をやって、何が起こるかというと、体制順応というほうに皆行っちゃうけどね。(柄谷行人-蓮實重彦『闘争のエチカ』1988年) |
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旧制高校システムと似たようなものを復活させたらどうなんだろ? |
大正15年(1926年)の日本の人口は、推計で約6,000万人だそうで、ーーいまは教育年齢層の割合はもっと少ないだろうが、妥協してこの二倍ぐらいだったらエリートと呼びうるだろうね。
フランスのグランゼコール準備級(CPGE)は今でもこのくらいの割合なのかな。
私はむかしアランの大ファンでアンリ四世校なんて神話的なリセ名だったが。しかし最近はマクロンのようなおバカがアンリ四世校卒業だから、ひょっとして21世紀はどこもかしこもエリートの死の時代かもしれないがね。
まあ、何はともあれ大学生が多すぎるよ。専門学校にしたほうが、若い人はむしろ学ぶようになるんじゃないかね。
なおここに記したことは現在の大学教育システムにまったく無知な、かつ非エリートの典型によるもので、あくまでテキトーだからあらかじめ断っておくよ、ご容赦を、と。
あゝ元東大総長のこれも付け加えておくよ。
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私が東大に入って一番良かったことは、学校秀才がいかにくだらないかを学べたことです。何でも良くできる人が、本当に伸びたのを見たことがない。そういう人は正誤の判断力には優れていても、何かを創造する力が欠けている気がします。彼らは好奇心だけで何かに集中しない。〔・・・〕 若者全般へのメッセージですが、世間で言われていることの大半は嘘だと思った方が良い。それが嘘だと自分は示し得るという自信を持ってほしい。たとえ今は評価されなくとも、世界には自分を分かってくれる人が絶対にいると信じて、世界に働き掛けていくことが重要だと思います。(蓮實重彦インタビュー、東大新聞 2017年1月1日号) |
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私はむかしは蓮實ファンでね、この手の在庫が引き出しの奥にいくらでもあるよ。
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何かを理解することと「何かを理解したかのような気分」になることとの間には、もとより、超えがたい距離が拡がっております。にもかかわらず、人びとは、 多くの場合、「何かを理解したかのような気分」になることが、何かを理解することのほとんど同義語であるかのように振舞いがちであります。たしかに、そうすることで、ある種の安堵感が人びとのうちに広くゆきわたりはするでしょう。実際、同時代的な感性に多少とも恵まれていさえすれば、誰もが「何かを理解したかのような気分」を共有することぐらいはできるのです。しかも、そのはば広い共有によって、わたくしたちは、ふと、社会が安定したかのような錯覚に陥りがちなのです。 |
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だが、この安堵感の蔓延ぶりは、知性にとって由々しき事態だといわねばなりません。「何かを理解したかのような気分」になるためには、対象を詳細に分析したり記述したりすることなど、いささかも必要とされてはいないからです。とりわけ、その対象がまとっているはずの歴史的な意味を自分のものにしようとする意志を、その安堵感はあっさり遠ざけてしまいます。そのとき誰もが共有することになる「何も問題はない」という印象が、むなしい錯覚でしかないことはいうまでもありません。事実、葛藤が一時的に視界から一掃されたかにみえる時空など、社会にとってはいかにも不自然な虚構にすぎないからです。しかも、その虚構の内部にあっては、「何も問題はない」という印象と「これはいかにも問題だ」という印象とが、同じひとつの「気分」のう ちにわかちがたく結びついてしまうのです。(蓮實重彦の『齟齬の誘惑』序文、1999年) |

