ああ、前々回記した「では中井久夫にとってのいじめ外傷の底にある《幼年時代のトラウマ》はどうなのか。私はいくらかの目星をつけていないではないが、ここでの話題ではないので触れないでおく」か。
ま、それほど大したことじゃないよ。何よりもまずそこでも引用したようにプルーストとともに《彼(ヴァレリー)はむしろ過剰な記憶に苛まれた人 hypermnesiqueではなかったかと思われる》(中井久夫「吉田城先生の『「失われた時を求めて」草稿研究』をめぐって」初出2007年『日時計の影』所収)だな。
中井久夫のエッセイ集『記憶の肖像』は半分ぐらいはこのトラウマ的過剰記憶の記述があるよ、もし人が仮にじっくり読めば、だがね。
以下、さわりだぜ。
まず『神戸の光と影』という題名なのに、なぜか京都をめぐる「ヒペルムネジー」(過剰記憶)から始まる1985年に岩波の「へるめす」に発表されたエッセイ冒頭。
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昨日、私は京都から帰って来た。カゼをこじらせ、咽喉を腫らせ、肩をひどく凝らせて。いつも楽に上がれる最寄りの地下鉄の駅の階段がピラミッドのようにそそり立って見えた。 京都は、いつも私を過剰な影響で圧倒しようとする。この三年、身体が急に弱くなったのも京都に往診を繰り返した一カ月の翌月からだった。その病からは二年掛かって回復したが、依然、京都に接近するたびに私には何かの故障が起こる。おそらく初老になって形に現われるようになっただけで、この街との不適合性は私の若い時から存在しつづけていたはずだ。 |
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* 京都の大学に入った私を土地はいち早く結核で迎えた。たまたまヒドラジッドが発明されたためか、あるいは『四季』派の詩人たちほど結核との〝内的親和性〟がなかったせいか、私は速く回 復し、医学部に転じた。ただでさえ就職難の時代であり、一方ここの大学の医学部は編入試験を認めていたからである。 興味深かったのは、京都という小宇宙の持つワナ的構造であった。「京都にはいれば、すべては永久に残る、但し、化石化の危険があるな」と私は当時から今日まで思い続けている。 茶や花や本願寺だけではない。天皇家や、その他の格式ある家々だけではない。私を大いに驚かせたのは、大正以来のアナーキストが黒旗のもとに今なお集会を開く話であった。トロツキーの文献を丹念に読むグループがあることであった。まだ左翼が戦闘的な一枚岩を誇称していた時代の話である。民主主義科学者協会も京都支部の、少なくとも歴史部会のみは存在して、最近でも、数年前に会報を見た。なお、友人によれば、足利家の子孫は、細川家の京都屋敷の中央に住み、細川家の当主は京都に立ち寄る毎に伺候する習慣である。六百年前の将軍と管領の間柄は不変である。古今伝授のようなさらに古いものが行われていても不思議でない。ベルグソンもハイデガーも、そしてユングも、もうこの街に入っているから、たとえ世界のどこで忘れられても、この街のどこかの家に集まるグループによって読み続けられるであろう。たとえば坂田塾という有名な、塾員になることの難しい学塾があって、坂田氏のベルグソンなどの講筵に接した人で、その後、大学教授になった者が多い。医学部の教授も含めてである。 |
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もっとも、京都大学が、 "京都の大学"として京都人に観念されているかどうかは疑わしい。京都人の"わが大学病院"とは京都府立医大病院であって京大病院でないことは周知である。実際、京都大学は、京都大学人の観念に反して京都人にとっては東京文化の支店であり、大学の歴史もそれを支持する。京都大学教授が多く住むので有名な北白川の友人の家のばあやは京都人だったが、何げなく「会社の人」という表現を使った。何のことかわからなかった私に、彼女は、明治大正に土地会社が京大のために開発したのが北白川の住宅地であり、彼女ら地元の人間は、だから「会社の人」と正当にも呼んでいるのだと説明した。「この街の人になるには七代を要する」とも教えられた。京都人になることが、それほどの価値のあることか否かは知らないが、私には、この街で行うことはすべて挫折を約束されていた。私は初め内的に反抗し、ついで二度脱出を試みた。一度は大阪に、二度目は東京に。そして二度目に脱出は成功した。 |
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もっとも私が、依然、京都との「接触の病い」から本復していないことは冒頭に述べた通りである。京都に数時間留まることは、ほとんどプルースト的な、しかしはるかに悪魔的な記憶のパンドラの箱を開けることである。それは、精神病理学で「ヒペルムネジー」(過剰記憶)といわれるものであり、たまたま私には、年齢に従って衰えるはずのこの能力が依然あるために、数ヵ月分の健康が一日で破壊されるのであろう。 |
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(中井久夫「神戸の光と影」初出「へるめす」1985年5月号『記憶の肖像』所収) |
で、なんだい、《京都に数時間留まることは、ほとんどプルースト的な、しかしはるかに悪魔的な記憶のパンドラの箱を開けることである》とは?
同じ1985年のエッセイにはこうある。
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龍安寺にて 中井久夫 |
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私は龍安寺の湯どうふ屋で人と会っていた。座敷はひっそりとして他に人はいなかった。この寺が最近植えた枝垂れ桜の木立ちが雨に濡れて色がひときわ鮮やかになった。まわりに緋ちりめんの幔幕を張りめぐらしたようであった。 どうして私はここにいるのだろう。ここを選んだのは他でもない。私はここが湯どうふ屋でなくて無住の寺だった時、半年下宿していたのである。三十年前のことであった。 私は医学部一年生だった。 解剖学の実習は夜遅くまでかかった。帰ってから自炊の生活だった。みたところは立派なお寺で、額がかかった門をはいると、少し下りになる。苔の間の石段を降りきると、入口には大きな木鐸が下がっている。土間にはいるとまず眼に入るのは、寸心・西田幾多郎の書を表装した衝立である。しかし、九室のうち、住めるのは三室ぐらいだったろう。茶室などは床が落ちていた。無住だと荒れるからというのが、五十円で貸す動機だった。 高校の恩師が、 京大の禅の集まりの事務所になっているここを紹介して下さったのである。 秋から冬をとおして翌春までのことであった。暖房はおろか、障子の外は外気だった。寒気は骨にしみた。電気はあったが、ガスはむろん、水道もない。水はそばの谷川から覚で引いてくるのであった。川は庭の苔の間を流れてすぐ下の池に注いでいる。床下にも少し流れこんでいる気配であった。筧は一月になると凍ってしまった。 |
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私が生きのびられたのは、同居のY氏のおかげである。禅宗の大学で大学院生だった氏は、修行 者としておのれをきびしく律しながら、ユーモアを失わなかった。漬物を漬け、たきぎや炭の心配をしたのも氏であり、あっという間にお茶を沸かしてどうですかと自室に誘ってくれたのも氏であった。ちなみに、当時は茶ひとつ沸かすのがおおごとだった。まず七輪に火を起こさねばならなかった。魔法瓶というものは、あったはずだが高嶺の花だったのだろう、誰も持っていなかった。私の作ったのはサバの味噌漬ぐらいであったか。私はまったくのお荷物だったにちがいない。 しかし、氏は顔に決して出さなかった。それぞれの部屋で氏は禅書を読み、私はラウバーの解剖書を読んだ。氏の部屋は簡素で端正だった。私の部屋は乱雑だった。私には氏は少し怖い存在だったが、氏の眼にはこういう人間もいるのかというぐらいにだらしない別世界人に映っていただろう。 今私と対座しているのは氏ではないけれども、私には氏の面影がありありと映っていた。その剃り上げた小さな頭も、きびきびした身のこなしも。 氏が京大人文研究所長に就任されたのを新聞記事でみたところであった。私がついに無縁であったりんとした禅の世界からゆとりを以て俗世界を眺めて面白がってさえおられたような氏の片言隻句やかすかな微笑を思い出した。 |
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年齢が自己を語る私の口を幾分軽くしていた。多少のビールもまた。当時の私は家族の重荷と個人的挫折とに参りかけていた。私はほうぼうの人に迷惑をかけながら、なりふり構わずこの時期を生きた。しかし直接に迷惑をこうむった方以外には、とてもそうは見えなかったろう。自分でも外見はふつうの青年に見える自分を不思議に思ったことがあった。今の私には、年齢と職業のゆえに、はれやかな表情の人、時めいてみえる人が密かにどのような苦痛と重圧を味わっているかをあまりにもよく知っている。しかし、逆に初老の私の中に二十一歳の青年がひそかに蘇り、中間の三十年が夢のごとくに思われ、遥かな過去が身近かに漂うかのごとき一刻もありうる。図が地となり、地が図となる逆転の一刻である。その間、日本にも世界にもどれだけ多くのことがあっただろう。今から同じ長さの時間を歩くことはまずないだろう。 給仕の人に尋ねた。ここが寺であったことは全く知らなかった。そのひとにとっては、ここは初めから湯どうふ屋であったのだ。 |
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(一九八五年) |
で、次も1985年のエッセイだ。「母の心のしこり」の話の箇所の前後のみを引用する。
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過ぎた桜の花 中井久夫 |
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〔・・・〕 春はいよいよ近づいて来た。看護する者は妹と私。父はすでに入院していた。妹が外出した後、母は、自分の手で触れられる胃の大きな腫瘍を指して「これさえなくなったら」と言った。私は思わず「おかあちゃん、こころにもしこりがあるだろうね」と言った。それから二時間、母の苦労話を聞いた。私は母に秘密を守ると誓った。翌日、母は、「あと十日は水も飲まないし、御飯もたべなくて大丈夫。十日たったら、食べるし飲むよ」と宣言して、そのまま飲みも食べもしなくなった。われわれは母の気がふれたのかと思った。母は急速に弱っていった。そして、十日目の未明に母は死んだ。 その枕頭には箸を一本立てた飲茶碗と水が供えられていた。母の言ったとおりだった。彼女の最後のユーモアであったか。母は、私がその日から新しい勤め先に勤務を始めることを知っていた。それまで一月の休暇を私が取っていたことも。 |
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戦後着物を作らなかった母は棺の中で若い日の着物を着せられていっそ花やいで見えた。私は「あまりパーフェクト・ゲームをされると残された者がまいるよ」と思った。私の休暇の終わりに合わせて母は食を断って逝ったのかも、そんなことをしかねない母であった。そうとしたら計算は母らしくあまりに正確だった。母の最後に近い言葉は「○○さんの桜は咲いたかな」だった。 筋向かいのひっそりとして毎年桜だけが爛漫たる家のことであった。目の前になくても生き生きと思い浮べることのできる人だった。 母を荼毘に付して、一家は名古屋に向かった。近江の春の彼方に湖北の雪の峰々がゆっくりと形を変えていった。名古屋の仮住いは、山崎川という、桜に覆われた川を渡る。その華やかさが非現実のごとく鮮やかに目にしみた。 |
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(一九八五年) |
ここまで読んでわからない人はいないと思うが、不感症の人もいるだろうから、後年書かれた文を附記しておくよ。
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「治療文化論」は時々引用された。なぜか必ず奈良盆地についての三ページであった。〔・・・〕あの一節には私をなかだちとして何かが働いているのであろうか。たとえば、私の祖父――丘浅次郎の生物学によって自らをつくり、老子から魯迅までを愛読し、顕微鏡のぞきと書、彫刻、絵画、写真、釣りに日を送り迎えた好事家、自らと村のためにと財を蕩尽した旧村長の、一族にはエゴイストと不評の祖父。あるいその娘の母――いくらか傷害を持ち、末期の一カ月を除いて幸せとはいえぬ生涯を送り、百科事典を愛読してよく六十四歳の生涯を閉じた母の力が……。(中井久夫『治療文化論』「あとがき」1990年) |
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父母の結婚は見合いであるが、お互いに失望を生んだ。父親と母親は文化が違いすぎた。そこに私が生まれてきたのだが、祖父母は、父の付け焼き刃の大正デモクラシーが大嫌いで、早熟の気味があった私に家の将来を托すると父の前で公言して、父親と私の間までが微妙になった。 〔・・・〕 私が東大から名市大に移る時、一カ月赴任を遅らせて末期の胃癌だった母をみとった。うっかり、四月から出る予定といっただめであろう、その一〇日前、「一〇日後、食べる」と言って、食も水も断った。一〇日目、棺の前に箸一本をさしたご飯が供えられた。私にこれ以上の迷惑をかけたくないという母の意志を秘めた最後のユーモアであった。(中井久夫「私が私になる以前のこと」2000年『時のしずく』所収) |
以上。
❖附記
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なお中井久夫は自らの幼児型記憶を「思い出すままにほとんどすべてを列挙する」として次の10項目を掲げている。 |
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(1)「誰かの背に背負われて、青空を背景に、白い花を見上げている」 これはそういう写真がないし、話題になったこともない。もっとも、「誰か」は祖父であるがこれは後の推定である。白い花は「アカシア」であると知っていて、それは聖心女学院小林分校への道のアカシア(正確にはニセアカシア)の並木道であるが、いずれも映像ではなく後から加わった命題記憶である。私は六〇年後に行ってみた。わずかに一〇メートルほどのあいだ、ニセアカシアの老木が残っていた。 (2)「母親がガラスの器にイチジクの実を入れてほの暗い廊下を向こうから歩いてくる」 イチジクは映像の中にはない。裏庭にイチジクの木が何本も生えていたのは言語(命題)記録である。 (3)「ハコベの生えているところで太陽に向かって祖父と深呼吸をしている。祖父が「新鮮な空気を吸う」と言い、私が真似をしている」 記憶には、裏庭にはハコベが生えていたという映像がある。他にいろいろのものがつけ加わっているが、それらは命題記憶だけで、映像を欠いている。 |
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(4)「窓から田んぼをへだてて向こうを走る自動車を眺めて数えている」 これは武庫川の堤であるというのは、消去法によって生まれた結論であると思われる。「田んぼ」には視覚的に初めから焦点が合っておらず、したがって季節は不明である。 (5)「応接セットがあってカンバスで覆われたまま、二つ横並びにしてある。そのあいだのひじかけにオモチャの機関銃を据えて撃つマネをしている。「わあ、かなわん。降参」と母方の祖父が言っている」 声ははっきりしない。応接セットであるというのも命題記憶である。並んだ椅子の肘かけだけが視覚映像である。機関銃を祖父からおみやげに貰ったというのも、命題記憶であろうと思われる。 (6)「ベランダのようなところから川の流れをみている。向こうに民家、その向こうに山」 これは宝塚遊園地の建物(大劇場か)にあった武庫川に臨む「納涼台」という屋外で軽食を食べさせるところから武庫川を眺めているのであろう。この時かどうか、ここの(と思う)「キツネウドン」の味を覚えている。 |
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(7)「人間が細く映る鏡や太って映る鏡に自分を映している」 これも宝塚の建物の中であると推定できる。 (8)「天井に鈴蘭灯が揺れている。天井は白い。鈴蘭灯はくもりガラスで、縁は金色」 これは阪急電車の車内に立っていて、大人の乗客のあいだから見上げた天井であろう。「阪急電車」というのは消去法である。 (9)「雑然とした茶褐色の家並みの間の道でおばさんが「ぼっちゃん、じろーじゃ」と言っている。私は「ちがう、じどうしゃ」と言い返す」 これは、命題記憶によって、母親の郷里の村のメインロードであり、おばさんが「森本さん」という人だと知っているが、映像の中には手掛かりはない、こういって私をからかって笑っている場面であることは確かである。 (10)「どこかの階段。木がまだ新しい。陽が照っている」 これは時も場所も状況も全然見当がつかない(この背後には大きな家族問題が隠れているかもしれない)。そういう記憶映像がいくつかある。朝日新聞が東京-ロンドン間を飛行させた「神風号」のニュース映画を観に行ったはずなのに、覚えているのはパラシュート降下する人の映像で「神風号は落ちたはずはないのに」と思ったとか。 |
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(中井久夫「発達的記憶論」2002年『徴候・記憶・外傷』所収) |
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つまり異物の記憶である。 |
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一般記憶すなわち命題記憶などは文脈組織体という深い海に浮かぶ船、その中を泳ぐ魚にすぎないかもしれない。ところが、外傷性記憶とは、文脈組織体の中に組み込まれない異物であるから外傷性記憶なのである。幼児型記憶もまたーー。(中井久夫「外傷性記憶とその治療―― 一つの方針」2000年『徴候・記憶・外傷』所収) |
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外傷性フラッシュバックと幼児型記憶との類似性は明白である。双方共に、主として鮮明な静止的視覚映像である。文脈を持たない。時間がたっても、その内容も、意味や重要性も変動しない。鮮明であるにもかかわらず、言語で表現しにくく、絵にも描きにくい。夢の中にもそのまま出てくる。要するに、時間による変化も、夢作業による加工もない。したがって、語りとしての自己史に統合されない「異物」である。(中井久夫「発達的記憶論」初出2002年『徴候・記憶・外傷』所収) |
異物の記憶については前々回、比較的詳しく記した▶︎参照