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2026年9月8日火曜日

差別を学ぶ学校で勝ち抜いてきた者たち


折りに触れて断片的に掲げてきた、主に差別をめぐる言説が「抽斗の奥」にあるんだが、ここでいくらかまとめて掲げとくよ。

みながみなそうだと言うつもりは毛頭ないが、大学教授は、差別を学ぶ学校で勝ち抜いてきた者たちという相(アスペクト)があるんじゃないだろうか。特に教育学者や社会学者などのエライ人にはむかしから悪い臭いを嗅ぐことしきりなんだがね。


◼️同じ一つの物語を共有する教室という差別を学ぶ学校

問題は、十九世紀という時代がその中葉にかけて、原理的には誰もが通過せざるをえない儀式的な場として、教室と呼ばれる権力空間を発明したということにある。〔・・・〕ここでの関心は、誰もが同じ資格でそこに存在していながら、その複数の平等な視線同士のあいだに力学的な葛藤が生じ、きまって優位と劣性という関係がその制度的空間を分割することになるという点だ。つまり、義務教育が制度として確立していらい、教室とは、「多数派が常に正しく、少数派が常に誤っている」という権力関係によって不可視の分割が実践される場の典型として生きられることになるのである。人が、差別をあからさまに学ぶのは、教室にほかならない。(蓮實重彦『凡庸な芸術家の肖像』「ⅩⅤ 教室と呼ばれる儀式空間」1988年)

教室という権力空間を占有する「多数派」が正しいのは、彼らの側に真理があるからではなく、もっぱら、その連中が、同じ一つの物語を共有しているからにすぎない。そして、その物語の中で、新入生は、常に正しからぬ「異物」という機能を演じなければならない。「少数派」が常に誤っているのは説話論的な機能としてそうなのであり、真理と誤謬、善と悪といった倫理的な基準とは何の関係もないことである。同じ言葉を共有しえないもののみが、正しくない。そしてこの事実は、教室という儀式空間がそうであるように、文学が十九世紀の中葉になしとげえた歴史的な発見とるいうべきものだ。


あたかもそれを証拠だてるかのように、フランス語は、それまで存在していなかったある単語をこの時期に捏造する。それは、新入生いじめ  bizutage  の一語である。多くの語彙論的な文献は、その一語が一八三五年を境として記号の圏域に流通し始めることを証言している。(蓮實重彦『凡庸な芸術家の肖像』「ⅩⅥ 説話論的な少数者に何が可能か」1988年)




◼️規則が共有された共同体における異質な者のスケープゴート化

柄谷行人) 欲望とは他人の欲望だ、 つまり他人に承認されたい欲望だというヘーゲルの考えはーージラールはそれを受けついでいるのですがーー、 この他人が自分と同質でなければ成立しない。他人が「他者」であるならば、蓮實さんがいった言葉でいえば「絶対的他者」であるならば、それはありえないはずなのです。いいかえれば、欲望の競合現象が生じるところでは、 「他者」は不在です。


文字通り身分社会であれば、 このような欲望や競合はありえないでしょう。 もし 「消費社会」において、そのような競合現象が露呈してくるとすれば、それは、そこにおいて均質化が生じているということを意味する。 それは、 たとえば現在の小学校や中学校の「いじめ」を例にとっても明らかです。ここでは、異質な者がスケープゴートになる。しかし、本当に異質なのではないのです。異質なものなどないからこそ、異質性が見つけられねばならないのですね、 だから、 いじめている者も、 ふっと気づくといじめられている側に立っている。 この恣意性は、ある意味ですごい。しかし、これこそ共同体の特徴ですね。マスメディア的な領域は都市ではなく、完全に「村」になってします。しかし、それは、外部には通用しないのです。つまり、 「他者」には通用しない。(柄谷行人-蓮實重彦対談集『闘争のエチカ』1988年)

誤解をさけるために捕捉しておきたいことがある。第一に、「共同体」というとき、村とか国家とかいったものだけを表象してはならないということである。規則が共有されているならば、それは共同体である。したがって、自己対話つまり意識も共同体と見なすことができる。(柄谷行人『探求Ⅱ』1989年)


……………


◼️民主主義は差別主義(異質な者の排除)

アテネの民主主義は成員の「同質性」に基づいている。それは異質な者を排除する。その象徴的な例が民主派によるソクラテスの処刑である。〔・・・〕

ソクラテスを告訴し有罪にしたのは(アテネの)民主政であった。

ソクラテスが人々の目に、アテネの社会規範に対して最も挑戦的な存在として映ったのは、告訴にあった理由(ポリスの神々をみとめないこと等)からではない。根本的な理由は、彼がアテネにおいて、公人として生きることの価値を否定したことである。(柄谷行人『哲学の起源』2012年)


民主主義に属しているものは、必然的に、まず第ーには同質性であり、第二にはーー必要な場合には-ー異質な者の排除または殲滅である。[…]民主主義が政治上どのような力をふるうかは、それが異質な者や平等でない者、即ち同質性を脅かす者を排除したり、隔離したりすることができることのうちに示されている。

Zur Demokratie gehört also notwendig erstens Homogenität und zweitens - nötigenfalls -die Ausscheidung oder Vernichtung des Heterogenen.[…]  Die politische Kraft einer Demokratie zeigt sich darin, daß sie das Fremde und Ungleiche, die Homogenität Bedrohende zu beseitigen oder fernzuhalten weiß.

(カール・シュミット『現代議会主義の精神史的地位』1923年版)



………………


◼️差別は純粋に権力欲の問題ーー差別された者が差別者になる機微

非常に多くのものが権力欲の道具になりうる。教育も治療も介護も布教もーー。〔・・・〕個人、家庭から国家、国際社会まで、人類は権力欲をコントロールする道筋を見いだしているとはいいがたい。 差別は純粋に権力欲の問題である。より下位のものがいることを確認するのは自らが支配の梯子を登るよりも楽であり容易であり、また競争とちがって結果が裏目に出ることがない。差別された者、抑圧されている者が差別者になる機微の一つでもある。〔・・・〕


些細な特徴や癖からはじまって、いわれのない穢れや美醜や何ということはない行動や一寸した癖が問題になる。これは周囲の差別意識に訴える力がある。何の意味であっても「自分より下」の者がいることはリーダーになりたくてなれない人間の権力への飢餓感を多少軽くする。(中井久夫「いじめの政治学」1997年 『アリアドネからの糸』所収 )


◼️権力の手段としての研究

人間には権力欲と知識欲とがある。どちらも飽くことをしらない点では似ている。権力欲はサル、いやそれ以前からであろう。知識欲は人間で発達した。しかし、古いだけに権力欲のほうが強い。権力欲が知識欲を犯し、道具にしているのが社会の現状でもある。そうである限り、大学も知の場ではない。教育だけでなく、研究も、今や外国の評価機関による論文評価をもとにした数字が教授選考の時に真っ先に問題となる。 企業と同じく、外国人に採点していただいているのである。しかし、これは権力の手段としての研究である。 そろいう世界になじまない知的少数者のために私は、あなたがたのほうがまともなのだというメッセージを書きたい。また親にも識者にも考えていただき、せめてそういう子をそっと見守ってほしい。(中井久夫「君たちに伝えたいこと」2000年、朝日新聞)

うっかりすると知識欲は権力欲の手段になりさがってしまう。権力欲はサルやその他の動物にも立派にある。知識欲は動物にはないとはいわないけれど、人間が人間であるもとはこちらだろう。ただ、新しいだけ知識はひ弱く、権力欲は古いだけしぶとい。基本的な三大欲望という睡眠欲、食欲、性欲だって、権力欲の手段になりさがることが少なくない。


そうなると何がどう変わるか。三大欲望は満たされるとおのずとそれ以上求めなくなり、おだやかな満ち足りた感じに変わる。ところが権力欲だけは満たされれば満たされるほど渇く。そしてその手段になった他の欲望は楽しさ、満足感がみごとに消え失せる。


仙人になれというのではない。けれども、知的好奇心は、勉強や学問が権力欲の手段となると同時に見事に消え失せる。知識をふやそうとしても、楽しさも満足感もないのだから、炎天下のアスファルトの道を歩くように辛いだけになって心身の健康をこわしかねない。知的好奇心だけは「よい学校」に入る手段にしてしまわないことだ。でないと、かりに「よい学校」に入っても面白くもなんともない。教授になっても多分そうだろう。(中井久夫「秘密結社員みたいに、こっそり」『二十一世紀に希望を持つための読書案内』(筑摩書房、2000年12月)への寄稿)



…………



◼️「今=ここに生きる」日本的ムラ社会における村八分

日本社会には、そのあらゆる水準に於いて、過去は水に流し、未来はその時の風向きに任せ、現在に生きる強い傾向がある。現在の出来事の意味は、過去の歴史および未来の目標との関係に於いて定義されるのではなく、歴史や目標から独立に、それ自身として決定される。


日本が四季のはっきりした自然と周囲を海に囲まれた島国であることから、人々は物事を広い空間や時間概念で捉えることは苦手、不慣れだ。それ故、日本人は自分の身の回りに枠を設け、「今=ここに生きる」の精神、考え方で生きる事を常とする。この身の回りに枠を設ける生き方は、国や個人の文化を創り出す土壌になる。〔・・・〕


社会的環境の典型は、 水田稲作のムラである。 労働集約的な農業はムラ人の密接な協力を必要とし、協力は、共通の地方神信仰やムラ人相互の関係を束縛する習慣とその制度化を前提とする。この前提、またはムラ人の行動様式の枠組は、容易に揺らがない。それを揺さぶる個人または少数集団がムラの内部からあらわれれば、ムラの多数派は強制的説得で対応し、 それでも意見の統一が得られなければ、 「村八分」で対応する。いずれにしても結果は意見と行動の全会一致であり、ムラ全体の安定である。


これをムラの成員個人の例からみれば、大枠は動かない所与である。個人の注意は部分の改善に集中する他はないだろう。誰もが自家の畑を耕す。 その自己中心主義は、ムラ人相互の取り引きでは、等価交換の原則によって統御される。 ムラの外部の人間に対しては、その場の力関係以外に規則がなく、自己中心主義は露骨にあらわれる。 このような社会的空間の全体よりもその細部に向う関心がながい間に内面化すれば、習いは性となり、細部尊重主義は文化のあらゆる領域において展開されるだろう。(加藤周一『日本文化における時間と空間』2007年)




◼️蛸壺組織における裸の王様

自由が狭められているということを抽象的にでなく、感覚的に測る尺度は、その社会に何とはなしにタブーが増えていくことです。集団がたこつぼ型であればあるほど、その集団に言ってはいけないとか、やってはいけないとかいう、特有のタブーが必ずある。


ところが、職場に埋没していくにしたがって、こういうタブーをだんだん自覚しなくなる。自覚しなくなると、本人には主観的には結構自由感がある。これが危険なんだ。誰も王様は裸だとは言わないし、また言わないのを別に異様に思わない雰囲気がいつの間にか作り出される。…自分の価値観だと思いこんでいるものでも、本当に自分のものなのかどうかをよく吟味する必要がある。


自分の価値観だと称しているものが、実は時代の一般的雰囲気なり、仲間集団に漠然と通用している考え方なりとズルズルべったりに続いている場合が多い。だから精神の秩序の内部で、自分と環境との関係を断ち切らないと自立性がでてこない。


人間は社会的存在だから、実質的な社会関係の中で他人と切れるわけにはいかない。…またそれがすべて好ましいとも言えない。だから、自分の属している集団なり環境なりと断ち切るというのは、どこまでも精神の内部秩序の問題です。(「丸山眞男氏を囲んで」1966年)




◼️入学試験は典型的な差別のシステム

酒井直樹)差別はいろいろな形で存在しています。民族差別、人種差別、性差別についてはこれまで話になりましたが、それ以外の差別があります。家族内の人間と家族外の人間は当然差別されるし、会社内の人間と会社外の人間、さらには、会社や役所の上役と平の人は差別されます。入学試験、あれは典型的な差別のシステムです。ではこれらの差別のうちの何が問題になるのでしょうか。柄谷さんがいわれた形式的な平等にこれらの差別のうちの何が抵触し、何が抵触しないのでしょうか。家族の内外、会社の上下間、さらに入学試験の点数による差別でも、そこに、人種、民族、国民、身分、出自、性などの要素が絡まない限り、一般に差別として問題にされることはないでしょう。なぜ、ことさら、ある種の差別のみ取り上げて、それを弾劾しなければならないのでしょうか。(討論「ポストコロニアルの思想とは何か」鵜飼哲・酒井直樹・鄭暎恵・冨山一郎・村井紀・柄谷行人ーー『批評空間』11-1996)



当面これくらいにしとこう。


おっとこれも付け加えておくよ、私はニーチェほど鼻が利くわけではまったくないが、最近、多くの人と同様に、教育の上塗りによって隠れている粗悪の血の悪臭を嗅いでしまったのでね。



最後に、わたしの天性のもうひとつの特徴をここで暗示することを許していただけるだろうか? これがあるために、わたしは人との交際において少なからず難渋するのである。すなわち、わたしには、潔癖の本能がまったく不気味なほど鋭敏に備わっているのである。それゆえ、わたしは、どんな人と会っても、その人の魂の近辺――とでもいおうか?――もしくは、その人の魂の最奥のもの、「内臓」とでもいうべきものを、生理的に知覚しーーかぎわけるのである……so daß ich die Nähe oder – was sage ich? – das Innerlichste, die »Eingeweide« jeder Seele physiologisch wahrnehme – rieche...


わたしは、この鋭敏さを心理的触覚として、あらゆる秘密を探りあて、握ってしまう。その天性の底に、多くの汚れがひそんでいる人は少なくない。おそらく粗悪な血のせいだろうが、それが教育の上塗りによって隠れているIch habe an dieser Reizbarkeit psychologische Fühlhörner, mit denen ich jedes Geheimnis betaste und in die Hand bekomme: der viele verborgene Schmutz auf dem Grunde mancher Natur, vielleicht in schlechtem Blut bedingt, aber durch Erziehung übertüncht, wird mir fast bei der ersten Berührung schon bewußt.

そういうものが、わたしには、ほとんど一度会っただけで、わかってしまうのだ。わたしの観察に誤りがないなら、わたしの潔癖性に不快の念を与えるように生れついた者たちの方でも、わたしが嘔吐感を催しそうになってがまんしていることを感づくらしい。だからとって、その連中の香りがよくなってくるわけではないのだが……(ニーチェ『この人を見よ』「なぜ私はこんなに賢いのだろうか」第8節、1888年)



…………


❖附記


なおフロイトにおいては、人はみな粗悪な血の悪臭を抱えている。



常に残滓現象[Resterscheinungen]がある。つまり部分的な置き残し[partielles Zurückbleibenがある。寛大な保護者が時に吝嗇な様子を見せてわれわれを驚かしたり、ふだんは好意的に過ぎるくらいの人物が、突然敵意ある行動をとったりするならば、これらの「残滓現象」は、疾病発生に関する研究にとっては測り知れぬほど貴重なものである。この現象は、賞讃に値するほどのすぐれて好意的な彼らの性格が、実は敵意の代償や過剰代償にもとづくものであること、しかもそれが期待されたほど徹底的に、全面的に成功していたのではなかったことを示しているのである。リビドー発達についてわれわれが初期に用いた記述の仕方によれば、最初の口唇期は次のサディステック肛門期にとってかわり、これはまたファルス的性器期にとってかわるとされていたが、その後の研究はこれに矛盾するものではなく、それに訂正をつけ加えて、これらの移行は突然にではなく徐々に行なわれるもので、したがっていつでも以前のリビドー組織体が新しいリビドー組織体と並んで存続しつづける、そして正常なリビドー発達においてさえもその変化は完全に起こるものではなく、最終的に形成されおわったものの中にも、なお以前のリビドー固着の残滓[Reste der früheren Libidofixierungenが保たれていることもありうる。

精神分析とはまったく別種の領域においても、これと同一の現象が観察される。とっくに克服されたと称されている人類の誤信や迷信にしても、どれ一つとして今日われわれのあいだ、文明国民の比較的下層階級とか、いや、文明社会の最上層においてさえもその残滓が存続をつづけていないものはない。一度生まれ出たものは執拗に自己を主張するのである。われわれはときによっては、原始時代のドラゴン[Drachen der Urzeit は本当に死滅してしまったのだろうかと疑うことさえできよう。

Es gibt fast immer Resterscheinungen, ein partielles Zurückbleiben. Wenn der freigebige Mäzen uns durch einen vereinzelten Zug von Knauserei überrascht, der sonst Übergute sich plötzlich in einer feindseligen Handlung gehenläßt, so sind diese »Resterscheinungen«unschätzbar für die genetische Forschung. Sie zeigen uns, daß jene lobenswerten und wertvollen Eigenschaften auf Kompensation und Überkompensation beruhen, die, wie zu erwarten stand, nicht durchaus, nicht nach dem vollen Betrag gelungen sind. Wenn unsere erste Beschreibung der Libidoentwicklung gelautet hat, eine ursprüngliche, orale Phase mache der sadistisch-analen und diese der phallisch-genitalen Platz, so hat spätere Forschung dem nicht etwa widersprochen, sondern zur Korrektur hinzugefügt, daß diese Ersetzungen nicht plötzlich, sondern allmählich erfolgen, so daß jederzeit Stücke der früheren Organisation neben der neueren fortbestehen, und daß selbst bei normaler Entwicklung die Umwandlung nie vollständig geschieht, so daß noch in der endgültigen Gestaltung Reste der früheren Libidofixierungen erhalten bleiben können.

Auf ganz anderen Gebieten sehen wir das nämliche. Keiner der angeblich überwundenen Irr- und Aberglauben der Menschheit, von dem nicht Reste heute unter uns fortleben, in den tieferen Schichten der Kulturvölker oder selbst in den obersten Schichten der Kulturgesellschaft. Was einmal zu Leben gekommen ist, weiß sich zäh zu behaupten. Manchmal könnte man zweifeln, ob die Drachen der Urzeit wirklich ausgestorben sind.

(フロイト『終りある分析と終りなき分析』第3章、1937年)


フロイトにとってこのリビドー固着の残滓(エスへの置き残し)が本来の無意識である。

自我はエスから発達している。エスの内容の一部分は、自我に取り入れられ、前意識状態に格上げされる。エスの他の部分は、この翻訳に影響されず、本来の無意識としてエスに置き残されるdas Ich aus dem Es entwickelt. Dann wird ein Teil der Inhalte des Es vom Ich aufgenommen und auf den vorbewußten Zustand gehoben, ein anderer Teil wird von dieser Übersetzung nicht betroffen und bleibt als das eigentliche Unbewußte im Es zurück. ](フロイト『モーセと一神教』3.1.5 Schwierigkeiten, 1939年)


そしてこの固着が現代ラカン派においての臨床の基盤である。

固着は、フロイトが原症状と考えたものである[Fixations, which Freud considered to be primal symptoms,](Paul Verhaeghe and Declercq, Lacan's goal of analysis: Le Sinthome or the feminine way, 2002

分析経験の基盤は厳密にフロイトが「固着 Fixierung」と呼んだものである[fondée dans l'expérience analytique, et précisément dans ce que Freud appelait Fixierung, la fixation. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 30/03/2011)

精神分析における主要な現実界の顕れは、固着としての症状である[l'avènement du réel majeur de la psychanalyse, c'est Le symptôme, comme fixion,](Colette Soler, Avènements du réel, 2017)


ラカンのリアルな症状としての対象aはこの固着の残滓なのである。

残滓がある。分裂の意味における残存物である。この残滓が対象aである[il y a un reste, au sens de la division, un résidu.  Ce reste, …c'est le petit(a).  (Lacan, S10, 21 Novembre  1962)

症状は、対象aのポジションに結びついている[le symptôme,… lier la position  de petit(a)   ( Lacan, S10, 12 Juin 1963)

対象aはリビドーの固着点に現れる[petit(a) …apparaît que les points de fixation de la libido (Lacan, S10, 26 Juin 1963)

対象aは現実界の審級にある[(a) est de l'ordre du réel.   Lacan, S13, 05 Janvier 1966