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2026年9月16日水曜日

サウジアラビアとイスラエルはまもなく消滅するかもしれない(ローレンス・ウィルカーソン)

 






動画

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◼️ローレンス・ウィルカーソン:サウジアラビアとイスラエルはまもなく消滅するかもしれない[Lawrence Wilkerson: Saudi Arabia & Israel Could Disappear Soon]2026/09/16



➤要旨


並行図書 / Parallel Library | Alzhacker@Alzhacker 2026/09/16

ローレンス・ウィルカーソン(退役大佐、元米国務長官首席補佐官):


サウジアラビアとイスラエルが消滅する確率は50%である。中東の地政学を支えてきた二つの柱が、同時に国家としての機能を失いつつある。


イエメン北部のフーシ派の戦闘能力は、米軍が直接訓練したサウジ軍を凌駕している。 1989年から90年にかけての結成以来、彼らは高い士気と戦術眼を備えた組織へと成長した。


米国の情報支援や最新鋭のF15戦闘機、JDAM爆弾を提供しても、サウジ軍は地上戦で全く機能しない。フーシ派はサウジの腐敗した政権を相手に、着実に戦果を拡大している。


サウジの軍事力は見かけ倒しであり、腐敗した政権は米国の支援なしには首をつながれているだけの状態だ。彼らは自らの足元にある深刻な脆弱性を、もはや隠しきれなくなっている。


フーシ派が本格的な攻勢に出た場合、サウジが国家として存続する見込みは極めて低い。米国の支援が完全に途絶えれば、その崩壊は時間の問題となる。


イスラエルもまた、7つの前線を抱える異常な戦争状態により内部から崩壊しつつある。ネタニヤフ政権は10月7日の真実を隠蔽しようとしているが、国内の分断は深まる一方だ。


イランはイスラエルの核施設を正確に追尾・破壊する能力をすでに保有している。国土の狭いイスラエルは、イランのような広大な国土を持つ国家よりも核攻撃に対して極めて脆弱である。


ネタニヤフは窮地を脱するために、いわゆるサムソン・オプションと呼ばれる核先制使用に踏み切る可能性がある。彼は自らの政治的命綱を守るために、国家を道連れにすることすら厭わない。


イランが数発の核弾頭で反撃すれば、テルアビブとハイファは一瞬で消滅する。イスラエルが国家として生き残る道は、すでに閉ざされつつある。


中東の二国家の消滅危機は、単なる地域紛争の悪化ではない。


冷戦終結後、ソ連という抑えを失った米国は、世界中に意図的に狂気を醸成する覇権国へと変貌した。欧州ではNATOを拡張してロシアを挑発し、中東ではイランに対する選択的戦争を仕掛けた。


これは制約を失った500ポンドのゴリラが、自らの没落を止めるために世界中を燃やしている構造そのものである。中国が米国のよう捕食的な帝国を望まないのとは対照的に、米国は自らの帝国の維持のために核という最終手段に頼ろうとしている。


トランプ政権の高官たちは、戦争の進展について嘘をつき続けている。彼らはミサイル不足や製油所の事故といった国内の脆弱性を隠蔽し、破綻した政策を正当化している。


米国内のインフラもまた、ネットワーク戦に対して極めて脆弱である。エクソンモービルの製油所で起きた事故は、食料、電力、金融網が狙われた場合、米国社会がいかに簡単に麻痺するかを示している。


核兵器を保有する帝国が、その崩壊を核で止めようとする。それは敗北ではなく、自爆による消滅である。



Lawrence Wilkerson、Glenn Diesen

対談『Lawrence Wilkerson: Saudi Arabia & Israel Could Disappear Soon』(ローレンス・ウィルカーソン:サウジアラビアとイスラエルはまもなく消滅するかもしれない)


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いやあ、興奮しちまうな。


◼️残酷は人類の最も古い祭りの一つ

最も厳しい倫理が支配している、あの小さな、たえず危険にさらされている共同体が戦争状態にあるとき、人間にとってはいかなる享楽が最高のものであるか? [Welcher Genuss ist für Menschen im Kriegszustande jener kleinen, stets gefährdeten Gemeinde, wo die strengste Sittlichkeit waltet, der höchste?] 戦争状態ゆえに、力があふれ、復讐心が強く、敵意をもち、悪意があり、邪推深く、どんなおそろしいことも進んでし、欠乏と倫理によって鍛えられた人々にとって? 残酷の享楽[Der Genuss der Grausamkeitである。残酷である点で工夫に富み、飽くことがないということは、この状態にあるそのような人々の徳にもまた数えられる。共同体は残酷な者の行為で元気を養って、絶え間のない不安と用心の陰鬱さを断然投げすてる。残酷は人類の最も古い祭りの一つであるDie Grausamkeit gehört zur ältesten Festfreude der Menschheit.〔・・・〕

「世界史」に先行している、あの広大な「風習の倫理」の時期に、現在われわれが同感することをほとんど不可能にする……この主要歴史においては、痛みは徳として、残酷は徳として、偽装は徳として、復讐は徳として、理性の否定は徳として、これと反対に、満足は危険として、知識欲は危険として、平和は危険として、同情は危険として、同情されることは侮辱として、仕事は侮辱として、狂気は神性として、変化は非倫理的で破滅をはらんだものとして、通用していた! ――諸君はお考えになるか、これらすべてのものは変わった、人類はその故にその性格を取りかえたに違いないと? おお、人間通の諸君よ、互いをもっとよくお知りなさい!Oh, ihr Menschenkenner, lernt euch besser kennen! ](ニーチェ『曙光』18番、1881年)


◼️戦争という祭

戦争は不可欠[Der Krieg unentbehrlich


人類が戦争することを忘れてしまった時に、人類からなお多くのことを(あるいは、その時はじめて多くのことを)期待するなどということは、むなしい夢想であり、おめでたい話だ[eitel Schwärmerei und Schönseelentum]。あの野営をするときの荒々しいエネルギー、あの深い非個人的な憎悪、良心の苛責をともなわないあの殺人の冷血[jene Mörder-Kaltblütigkeit mit gutem Gewissen]、敵を絶滅しようというあの共通な組織的熱情、大きな損失や自分ならびに親しい人々の生死などを問題にしないあの誇らかな無関心、あの重苦しい地震のような魂の震憾などを、すべての大きな戦争があたえるほど強く確実に、だらけた民族にあたえられそうな方法は、さしあたり、ほかには見つからない。

もちろん、ここで氾濫する河川は、石やあらゆる種類の汚物を押し流して、微妙な文化の沃野を荒すけれど、後日、事情が好転すれば、この河川の力によって、精神の仕事場の歯車が新しい力でまわされることになる。文化は激情や悪徳や悪事をどうしても欠くことはできないのだ[Die Kultur kann die Leidenschaften, Laster und Bosheiten durchaus nicht entbehren]。


帝政時代のローマ人がいくらか戦争に倦いてきたとき、彼らは、狩猟や剣士の試合やキリスト教徒の迫害によって、新しい力を獲得しようとこころみたものだった。大体においてやはり戦争を放棄したように見える現在のイギリス人は、あの消滅してゆく活力をあらたにつくり出すために、別の手段を取っている。 あの危険な探険旅行とか遠洋航海とか登山とかは、科学上の目的からくわだてられるものと言われているが、その実、あらゆる種類の冒険や危険から、余分の力を持って帰ろうというのだ。

人間はまだまだ戦争の代用物[Surrogate des Kriegesをいろいろ考え出すことだろうが、現今のヨーロッパ人のように高度の文化を持った、したがって必然的に無気力な人類は、文化の手段のために、自分たちの文化と自分たちの存在そのものを失わないためには、戦争どころか、最も大きい、最もおそろしい戦争――すなわち、野蛮状態への一時的復帰を[zeitweiliger Rückfälle in die Barbare]ーー必要とするということがむしろこの代用物によって、かえってはっきりわかるようになることだろう。(ニーチェ『人間的な、あまりに人間的な』上  477番、1878年)


で、みなさんも戦争の代用物として「残酷の享楽」やってるだろ、例えばツイッター(X)で? 人によれば殆ど毎日?


◼️戦争の代用物としての言葉と眼差しによる拷問

人はよく頽廃の時代はより寛容であり、より信心ぶかく強健だった古い時代に対比すれば今日では残酷性が非常に少なくなっている、と口真似式に言いたがる。しかし、言葉と眼差しによる危害や拷問は、頽廃の時代において最高度に練り上げられる。

nur so viel gebe ich zu, dass jetzt die Grausamkeit sich verfeinert, und dass ihre älteren Formen von nun an wider den Geschmack gehen; aber die Verwundung und Folterung durch Wort und Blick erreicht in Zeiten der Corruption ihre höchste Ausbildung](ニーチェ『悦ばしき知』23番、1882年)


そんなチョロい代用品やっておらずに本物の祭りやれよ。別に戦争の祭りじゃなくていいからさ。

自我に課せられるあらゆる断念や制限にあてはまることであるが、その禁制は周期的に打破されるのが常である。つまりそれは祭の制度に示されているとおりである。祭は、もともと法律で定められた放逸にほかならず、祭の快活な性格はこの解放に負っている。


ローマ人のサトゥルヌス神の祭や現代のカーニバルは、その本質的な特徴という点では、原始人の祭と一致していて、平生は神聖視されている禁令を犯して、ありとあらゆる放縦に終わるのが常である。


Bei allen Verzichten und Einschränkungen, die dem Ich auferlegt werden, ist der periodische Durchbruch der Verbote Regel, wie ja die Institution der Feste zeigt, die ursprünglich nichts anderes sind als vom Gesetz gebotene Exzesse und dieser Befreiung auch ihren heiteren Charakter verdanken.


Die Saturnalien der Römer und unser heutiger Karneval treffen in diesem wesentlichen Zug mit den Festen der Primitiven zusammen, die in Ausschweifungen jeder Art mit Übertretung der sonst heiligsten Gebote auszugehen pflegen. 

(フロイト『集団心理学と自我の分析』第11章、1921年)



最悪なのは「インターネットの書き込み」という代用品だよ。


日常生活は安定した定常状態だろうか。大きい逸脱ではないが、あるゆらぎがあってはじめて、ほぼ健康な日常生活といえるのではないだろうか。あまりに「判でついたような」生活は、どうも健康といえないようである。聖職といわれる仕事に従事している人が、時に、使い込みや痴漢行為など、全く引き合わない犯罪を起こすのは、無理がかかっているからではないだろうか。言語研究家の外山滋比古氏は、ある女性教師が退職後、道端の蜜柑をちぎって食べてスカッとしたというのは理解できると随筆に書いておられる。外に見えない場合、家庭や職場でわずらわしい正義の人になり、DVや硬直的な子ども教育や部下いじめなどで、周囲に被害を及しているおそれがある。


四季や祭りや家庭の祝いや供養などが、自然なゆらぎをもたらしていたのかもしれない。家族の位置がはっきりしていて、その役を演じているというのも重要だったかもしれない。踏み越えは、通過儀式という形で、社会的に導かれて与えられるということがあった。そういうものの比重が下がってきたということもあるだろう。もっとも、過去をすべて美化するつもりはない。〔・・・〕


私たちの中には破壊性がある。自己破壊性と他者破壊性は時に紙一重である。それは、天秤の左右の皿かもしれない。先の引き合わない犯罪者のなかにもそれが働いているが、できすぎた模範患者が回復の最終段階で自殺する時、ひょっとしたら、と思う。再発の直前、本当に治ったような気がするのも、これかもしれない。私たちは、自分の中の破壊性を何とか手なずけなければならない。かつては、そのために多くの社会的捌け口があった。今、その相当部分はインターネットの書き込みに集中しているのではないだろうか。(中井久夫「「踏み越え」について」初出2003年『徴候・記憶・外傷』所収)


せめて盆踊りのたぐいに参加してさ、その後「愛宕の山」に行くんだよ。そうすればインターネットの書き込み」なんていうチョロい「言葉と眼差しによる拷問」なんてバカらしくなるよ。


踊を見に往っても好いかと、お母様に聞くと、早く戻るなら、往っても好いということであった。そこで草履を穿いて駈け出した。 


これまでも度々見に往ったことがある。もっと小さい時にはお母様が連れて行って見せて下すった。踊るものは、表向は町のものばかりというのであるが、皆頭巾で顔を隠して踊るのであるから、侍の子が沢山踊りに行く。中には男で女装したのもある。女で男装したのもある。頭巾を着ないものは百眼というものを掛けている。西洋でする Carneval は一月で、季節は違うが、人間は自然に同じような事を工夫し出すものである。西洋にも、収穫の時の踊は別にあるが、その方には仮面を被ることはないようである。


大勢が輪になって踊る。覆面をして踊りに来て、立って見ているものもある。見ていて、気に入った踊手のいる処へ、いつでも割り込むことが出来るのである。 僕は踊を見ているうちに、覆面の連中の話をするのがふいと耳に入った。識りあいの男二人と見える。「あんたあゆうべ愛宕の山へ行きんさったろうがの」「譃を言いんさんな」「いいや。何でも行きんさったちゅう事じゃ」 


こういうような問答をしていると、今一人の男が側から口を出した。「あそこにゃあ、朝行って見ると、いろいろな物が落ちておるげな」 

跡は笑声になった。僕は穢い物に障ったような心持がして、踊を見るのを止めて、内へ帰った。(森鴎外『ヰタ・セクスアリス』1909年)


ーー《これまでのところ、人間の最高の祝祭は生殖と死であるに違いない![So weit soll es kommen, daß die obersten Feste des Menschen die Zeugung und der Tod sind!  ]》(ニーチェ遺稿、1882 - Frühjahr 1887