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彼は座って煙草をふかし続け、爪先をぶらぶら揺らしていた。そして他の人たちが話をしている最中も、自分が話をしている最中も、いつどこででもそうしていたように、他人の内面の透明な動きを想像しようと努め、ちょうど肘掛け椅子に座るように話相手の中に慎重に腰をおろして、その人のひじが自分の肘掛けになるように、自分の魂が他人の魂の中に入り込むようにした。(ナボコフ『賜物』) |
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私は悟ったのだ、この世の幸福とは観察すること、スパイすること、監視すること、自己と他者を穿鑿することであり、大きな、いくらかガラス玉に似た、少し充血した、まばたきをせぬ目と化してしまうことなのだと。誓って言うが、それこそが幸福というものなのである。(ナボコフ『目』) |
あらためてつくづくそう思うが、ツイッターというのは実に幸福にさせてくれるね、他人のツイートを「ナボコフ的に」眺めている範囲でだが。
「ロラン・バルト的に」と言ってもよい。
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報告された快楽から、どのようにして快楽を汲み取るのか…。どのようにして批評を読むのか。唯一の手段はこうだ。私は、今、第二段階の読者なのだから、位置を移さなければならない。批評の快楽の聞き手になる代わりにーー楽しみ損なうのは確実だからーー、それの覗き手[voyeur]になることができる。こっそり他人の快楽を観察するのだ。私は倒錯する[ j'entre dans la perversion] 。すると、注釈は、テクストにみえ、フィクションにみえ、ひびの入った皮膜 [une enveloppe fissurée] にみえてくる。作家の倒錯(彼の快楽は機能を持たない)、批評家の、その読者の、二重、三重の倒錯、以下、無限。 Comment prendre plaisir à un plaisir rapporté… ? Comment lire la critique ? Un seul moyen : puisque je suis ici un lecteur au second degré, il me faut déplacer ma position : ce plaisir critique, au lieu d'accepter d'en être le confi-dent — moyen sûr pour le manquer —, je puis m'en faire le voyeur : j'observe clan-destinement le plaisir de l'autre, j'entre dans la perversion; le commentaire devient alors à mes yeux un texte, une fiction, une enveloppe fissurée. Perversité de l'écrivain (son plaisir d'écrire est sans fonction), double et triple perversité du critique et de son lecteur, à Tinfini. |
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(ロラン・バルト『テクストの快楽』1973年) |
ナボコフ的、バルト的というなら、「プルースト的」と言ってもよい。
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われわれの友人は、各自に多くの欠点をもっているから、そんな友人を愛しつづけるにはーーその才能、その善意、そのやさしい気立てを考えてーーその欠点をあきらめるようにするか、またはむしろ、積極的にわれわれの善意を出しきってその欠点をのんでしまうようにつとめなくてはならない。不幸にも、友人の欠点を見まいとするわれわれの親切な根気は、相手が盲目のために、それとも相手が他人を盲目だと思いこんでいるために、あくまでその欠点をすてないので、その頑固さにうちまかされてしまう[Malheureusement notre complaisante obstination à ne pas voir le défaut de notre ami est surpassée par celle qu'il met à s'y adonner à cause de son aveuglement ou de celui qu'il prête aux autres]。相手は、なかなか自分の欠点に気がつかず、また自分では他人に欠点を気づかれないと思いこんでいるのだ。他人のきげんをそこなう危険は、何よりも物事がそのまま通ったか気づかれなかったかを見わけることの困難から生じるのだから、われわれは用心して、すくなくとも自己のことはけっして語らないがいいだろう、なぜなら、自己の問題では、他人の見解とわれわれ自身のそれとがけっして一致しないことは確実だといえるからだ。 |
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他人の生活の真相、つまり見かけの世界のうらにある真の実在の世界を発見するときのおどろきは、見かけはなんの変哲もない家を、その内部にはいってしらべてみると、財宝や、盗賊の使う鉄梃〔かなてこ〕や、屍体に満ちている、といったときのおどろきに劣らないとすれば、われわれが他人のさまざまにいった言葉からつくりあげたわれわれ自身の像にくらべて、他人がわれわれのいないところでわれわれについてしゃべっている言葉から、他人がわれわれについて、またわれわれの生活について、どんなにちがった像を心に抱いているかを知るときも、またわれわれのおどろきは大きい。そんなわけで、われわれが自分のことについて語るたびに、こちらは、あたりさわりのない控目な言葉をつかい、相手は表面はうやうやしく、いかにもごもっともという顔をしてきいてかえるのだが、やがてその控目な言葉が、ひどく腹立たしげな、またはひどく上調子な、いずれにしてもはなはだこちらには不都合な解釈を生んだということは、われわれの経験からでも確実だといってよい。一番危険率がすくない場合でも、自己についてわれわれがもっている観念とわれわれが口にする言葉とのあいだにあるもどかしい食違によって、相手をいらいらさせるのであって、そうした食違は、人が自分について語るその話を概してこっけいに感じさせるもので、音楽の愛好家を装う男が、自分の好きなアリアをうたおうとして、その節まわしのあやしさを、さかんな身ぶりと、一方的な感嘆のようすとで補いながら、しきりに試みるあのおぼつかないうたいぶりに似ているだろう。なお自己と自己の欠点とを語ろうとするわるい習慣に、それと一体をなすものとして、自分がもっているものとまったくよく似た欠点が他人にあるのを指摘するあのもう一つのわるい習慣をつけくわえなくてはならない。 |
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ところで、自己を語る一つの遠まわしの方法であるかのように、人が語るのはつねにそうした他人の欠点で、それは罪がゆるされるよろこびに告白するよろこびを加えるものなのだ。それにまた、われわれの性格を示す特徴につねに注意を向けているわれわれは、ほかの何にも増して、その点の注意を他人のなかに向けるように思われる[c'est toujours de ces défauts-là qu'on parle, comme si c'était une manière de parler de soi détournée, et qui joint au plaisir de s'absoudre celui d'avouer. D'ailleurs il semble que notre attention toujours attirée sur ce qui nous caractérise le remarque plus que toute autre chose chez les autres.]。 |
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近視の男は他人の近視のことをこういう、「だってあれはほとんど目があけられないくらいですよ。」胸部疾患の人間は、この上もなく頑丈な人間の健康な肺臓にも種々の疑念をもつし、不潔な男は、他人がお湯や水を浴びないことばかりを口にするし、悪臭を放つ人間は、誰でもいやな匂がすると言いはる、だまされた亭主は、いたるところにだまされた亭主たちを、浮気な女房はいたるところに浮気な女房たちを、スノッブはいたるところにスノッブたちを見出す。それからまた、各自の悪徳は、それぞれの職業とおなじように、専門の知識を要求し、それをひろくきわめさせる、各自はそんな知識を得々と人まえで弁じたてずにはいられない。倒錯者は倒錯者たちを嗅ぎだし、社交界に招かれたデザイナーは、まだこちらと話をまじえないのに、もうこちらの服地に目をつけ、その指は生地のよしあしをさわってみたくていらいらしているし、歯科医を訪ねて、しばらく話をまじえたのちに、こちらについて忌憚のない意見をきいてみると、彼はこちらの虫歯の数をいうだろう。彼にはこれよりも重大に見えることはないのだが、そういう彼自身の虫歯に気がついたこちらにとっては、これほどこっけいなことはない。そして、われわれが他人を盲目だと思うのは、われわれが自分のことを話しているときばかりではない。われわれはいつも他人が盲目であるかのようにふるまっている[Et ce n'est pas seulement quand nous parlons de nous que nous croyons les autres aveugles ; nous agissons comme s'ils l'étaient]。 |
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われわれには、一人一人に、特別の神がついていて、その神が、われわれの欠点にかくれ蓑をかけてわれわれからかくし、他人には見えないという保証をしてくれているのであって、同様に、その神は、からだを洗わない人々にたいして、耳にためた垢の筋や、腋の下から発する汗の匂に、目をとじ鼻腔をふさがせ、誰もそれと気づかないであろう社交界へ、それぞれその垢の筋や汗の匂をもちこんでも平気だという確信をあたえるのだ。そしてイミテーションの真珠を身につけたり、贈物にしたりする人は、それがほんものに見られるだろうと想像するのである。 |
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(プルースト「花咲く乙女たちのかげに」井上究一郎訳) |
プルーストがここで言っているのは、他者省察だけでなく自己省察でもあって、それは例えば次の文にも現れている。
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人は自分に似ているものをいやがるのがならわしであって、外部から見たわれわれ自身の欠点は、われわれをやりきれなくする。自分の欠点を正直にさらけだす年齢を過ぎて、たとえば、この上なく燃え上がる瞬間でもつめたい顔をするようになった人は、もしも誰かほかのもっと若い人かもっと正直な人かもっとまぬけな人が、おなじ欠点をさらけだしたとすると、こんどはその欠点を、以前にも増してどんなにかひどく忌みきらうことであろう! |
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Habituellement, on déteste ce qui nous est semblable, et nos propres défauts vus du dehors nous exaspèrent. Combien plus encore quand quelqu'un qui a passé l'âge où on les exprime naïvement et qui, par exemple, s'est fait dans les moments les plus brûlants un visage de glace, exècre-t-il les mêmes défauts, si c'est un autre, plus jeune, ou plus naïf, ou plus sot, qui les exprime ! |
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(プルースト「囚われの女」) |
まあ結局、人は、自分の「メタ私」[参照]は見えないんだろうよ、他者の「メタ私」以上に。
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他者の「メタ私」は、また、それについての私の知あるいは無知は相対的なものであり、私の「メタ私」についての知あるいは無知とまったく同一のーーと私はあえていうーー水準のものである。しばしば、私の「メタ私」は、他者の「メタ私」よりもわからないのではないか。そうしてそのことがしばしば当人を生かしているのではないか。 |
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(中井久夫「世界における徴候と索引」1990年) |
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最も重要なのは、「自分をほじくり返す」ことなんだがね、 |
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他人のなすあらゆる行為に際して自らつぎのように問うて見る習慣を持て。「この人はなにをこの行為の目的としているか」と。ただしまず君自身から始め、第一番に自分を取調べるがいい。(マルクス・アウレーリウス『自省録』神谷美恵子訳) |
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私といふ作家はその全作品を通じて、自分をあばくことで他をもほじくり返し、その生涯のあいだ、わき見もしないで自分をしらべ、もっとも身近かな一人の人間を見つづけてきたのである。(室生犀星「杏っ子」後書、1957年) |
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でもなかなか出来ないよ、これは。ーー《万人はいくらか自分につごうのよい自己像に頼って生きている Human being cannot endure very much reality》(中井久夫超訳エリオット「四つの四重奏」) 文学や哲学やってる者でも、あるいは心理学や精神分析やってる者でも、少なくともツイッターで観察する限りで、人はみな似たようなもんだよ。 なんたって「自分をほじくり返す」のはひどく疲れるからな。
ま、もちろんツイッターだけでなく、私が今こうやって書いているブログ記事でも似たようなもんだがーーこの記事自体、私の盲目ぶりを晒してる筈だよーー、とはいえツイートというのはそれが一層露骨に顕るように見えるんだが、あれはどんな具合なんだろ? ツイッター装置の心理的メカニズムは研究に値するよ。誰かやってくれないかね。 ツイッター装置の特徴はまずはすぐさま反応があることだな、リツイートやファボなのの。また逆に、いつも多量に反応がある人でも、時にほとんど反応のないツイートをした場合、「あれ、どうしたんだろ?」ということがすぐわかる装置だ。ひょっとしてこのあたりに自らの盲目ぶりをいっそう促す機能があるんじゃないか? ーーいま私はテキトーに言ってるからな。 何はともあれツイッターは、冒頭のナボコフ曰くの《私は悟ったのだ、この世の幸福とは観察すること、スパイすること、監視すること、自己と他者を穿鑿することであり、大きな、いくらかガラス玉に似た、少し充血した、まばたきをせぬ目と化してしまうことなのだと。誓って言うが、それこそが幸福というものなのである》という幸福を与えてくれるよ、スパイするとね。 |