ボクは何度も言ってるつもりだがな、チョロいラカン注釈書は焚書処分にすべきだよ。特にいまどき欲望を前面に出していたり、欲望と欲動の区別がまともに出来ていない書はね。
ラカンはフロイトに依拠しつつ欲動の身体が核心だと言ってんだから。
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◼️欲動の身体 |
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主体と有機体との関係が、我々の経験の核心である[le rapport du sujet avec l'organe qui est au cœur de notre expérience](Lacan, S11, 04 Mars 1964) |
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このような内部興奮の最大の根源は、いわゆる有機体の欲動[Triebe des Organismus]であり、身体内部[Körperinnern]から派生し、心的装置に伝達されたあらゆる力作用の代表であり、心理学的研究のもっとも重要な、またもっとも暗黒の要素 [dunkelste Element]でもある。 Die ausgiebigsten Quellen solch innerer Erregung sind die sogenannten Triebe des Organismus, die Repräsentanten aller aus dem Körperinnern stammenden, auf den seelischen Apparat übertragenen Kraftwirkungen, selbst das wichtigste wie das dunkelste Element der psychologischen Forschung. (フロイト『快原理の彼岸』第5章、1920年) |
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他にもラカンは次のように連発してるよ。 |
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主体が囚われているのは意識ではない、身体である[Ce n'est pas à sa conscience que le sujet est condamné, c'est à son corps.](Lacan, AE206, 1966) |
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もし存在を基礎づける何かがあるなら、それは間違いなく身体である[Qu'il y ait quelque chose qui fonde l'être, c'est assurément le corps](Lacan, S20, 08 Mai 1973) |
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欲動の現実界がある。私はそれを穴の機能に還元する[il y a un réel pulsionnel … je réduis à la fonction du trou](Lacan, Réponse à une question de Marcel Ritter、Strasbourg le 26 janvier 1975) |
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身体は穴である[(le) corps…C'est un trou](Lacan, conférence du 30 novembre 1974, Nice) |
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私は私の身体で話している。私は知らないままでそうしている。だから私は、私が知っていること以上のことを常に言う[Je parle avec mon corps, et ceci sans le savoir. Je dis donc toujours plus que je n'en sais. ]〔・・・〕 現実界、それは話す身体の神秘、無意識の神秘である[Le réel, dirai-je, c’est le mystère du corps parlant, c’est le mystère de l’inconscient](Lacan, S20, 15 mai 1973) |
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現実界は、フロイトが「無意識」と「欲動」と呼んだものである。この意味で無意識と話す身体はひとつであり、同じ現実界である[le réel à la fois de ce que Freud a appelé « inconscient » et « pulsion ». En ce sens, l'inconscient et le corps parlant sont un seul et même réel. ](Jacques-Alain Miller, HABEAS CORPUS, avril 2016) |
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つまりはリアルなものは欲動の身体だ。 |
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エスの要求によって引き起こされる緊張の背後にあると想定された力を欲動と呼ぶ。欲動は心的生に課される身体的要求である。Die Kräfte, die wir hinter den Bedürfnisspannungen des Es annehmen, heissen wir Triebe.Sie repräsentieren die körperlichen Anforderungen an das Seelenleben.(フロイト『精神分析概説』第2章、1939年) |
他方、欲望は言語だよ。
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◼️欲望の言語 |
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言語に翻弄される動物の特性として、人間の欲望は大他者の欲望であると仮定しなければならない[ il faut poser que, fait d'un animal en proie au langage, le désir de l'homme est le désir de l'Autre. ](Lacan, E628, 1960年) |
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すなわちーー、 |
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大他者は言語自体である [grand A…c'est que le langage comme tel](J.-A. MILLER, Le Partenaire-Symptôme, 14/1/98) |
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欲望は言語に結びついている。欲望は象徴界の効果である[le désir: il tient au langage. C'est … un effet du symbolique.](J.-A. MILLER "Le Point : Lacan, professeur de désir" 06/06/2013) |
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象徴界は言語である[Le Symbolique, c'est le langage](Lacan, S25, 10 Janvier 1978) |
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つまり欲望は言語に由来する。 |
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欲望は大他者に由来する、そして享楽はモノの側にある[ le désir vient de l'Autre, et la jouissance est du côté de la Chose](Lacan, E853, 1964年) |
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享楽はモノの側にあるとあるが、もちろん享楽は欲動であり、身体だ。 |
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現実界は、象徴界と想像界を見せかけの地位に押しやる。そしてこの現実界はドイツ語のモノdas Dingによって示される。この語をラカンは欲動として示した[le réel repousse le symbolique et l'imaginaire dans le statut de semblant, ce réel alors apparaît indexé par le mot allemand, …indexé par le mot de das Ding, la chose. Référence par quoi Lacan indiquait la pulsion. ](J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 19/1/2011) |
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欲動は、ラカンが享楽の名を与えたものである[pulsions …à quoi Lacan a donné le nom de jouissance.](J. -A. MILLER, - L'ÊTRE ET L'UN - 11/05/2011) …………… |
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ラカンは、享楽によって身体を定義するようになる [Lacan en viendra à définir le corps par la jouissance](J.-A. MILLER, L'Être et l 'Un, 25/05/2011) |
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要するに人はみな欲動の身体を欲望の言語で防衛してんだよ。 |
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欲望は防衛である。享楽へと到る限界を超えることに対する防衛である[le désir est une défense, défense d'outre-passer une limite dans la jouissance.]( Lacan, SUBVERSION DU SUJET, E825,1960) |
だいたい哲学好き、というかカタそうなフロイト・ラカン研究者は危ないよ。
ドゥルーズはこう言ってるがね、
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(プルーストの)『見出された時』の大きなテーマは、真理の探求が、無意志的なものに固有の冒険だということである。思考は、思考を強制させるもの、思考に暴力をふるう何かがなければ、成立しない。思考より重要なことは、《思考させる》ものがあるということである。哲学者よりも詩人が重要である。 |
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Le grand thème du Temps retrouvé est celui-ci: la recherche de la vérité est l'aventure propre de l'involontaire. La pensée n'est rien sans quelque chose qui force à penser, qui fait violence à la pensée. Plus important que la pensée, il y a ce qui « donne à penser» ; plus important que le philosophe, le poète. |
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〔・・・〕 |
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恋する者の沈黙した解釈の前では、おしゃべりの友人同士のコミュニケーションはなきに等しい。哲学は、そのすべての方法と積極的意志があっても、芸術作品の秘密な圧力の前では無意味である。 |
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Les communications de l'amitié bavarde ne sont rien, face aux interprétations silencieuses d'un amant. La philosophie, avec toute sa méthode et sa bonne volonté, n'est rien face aux pressions secrètes de l'œuvre d'art. |
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(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』「思考のイマージュ」第2版、1970年) |
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女に惚れるのも詩人の練習だよ。哲学研究者は惚れ方が足りないんじゃないかね。 |
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で、《詩は身体の共鳴が表現される[la poésie, la résonance du corps s'exprime]》(Lacan, S24, 19 Avril 1977) |
もっとも意味過剰の詩を読んでも欲動の身体の訓練にはならないがね。ーー《詩は意味の効果だけでなく、穴の効果である[la poésie qui est effet de sens, mais aussi bien effet de trou].》 (Lacan, S24, 17 Mai 1977)
先に示したように《身体は穴である[(le) corps…C'est un trou]》(Lacan, conférence du 30 novembre 1974, Nice)
芥川はこう言っている、《僕等は、――少くとも僕は紅毛人の書いた詩文の意味だけは理解出来ないことはない。が、僕等の祖先の書いた詩文――たとへば凡兆の「木の股のあでやかなりし柳かな」に対するほど、一字一音の末に到るまで舌舐めずりをすることは出来ないのである。》(芥川龍之介「文芸的な、余りに文芸的な」)。これも身体の効果の話をしてんだよ。
意味過剰な詩だったら映画や音楽のほうがずっといいよ。
映画ってのは物語過剰の映画でも、ときにとんでもない断片があるからな、侮れないね。
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| Alain Robbe-Grillet, L'Immortelle |
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あゝなんたるケラク(jouissance)! |
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果実が溶けて快楽(けらく)となるように、 形の息絶える口の中で その不在を甘さに変へるやうに、 私はここにわが未来の煙を吸ひ 空は燃え尽きた魂に歌ひかける、 岸辺の変るざわめきを。 |
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Comme le fruit se fond en jouissance, Comme en délice il change son absence Dans une bouche où sa forme se meurt, Je hume ici ma future fumée, Et le ciel chante à l’âme consumée Le changement des rives en rumeur. |
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ーーヴァレリー「海辺の墓地( Le Cimetière marin)」第五節(中井久夫訳) あゝ「わずかに濡れた夏の匂い」がレミニサンスするよ。 |
俊はこう歌ったがね、《コトバとコトバの隙間が神の隠れ家》(谷川俊太郎「おやすみ神たち」)
もちろん神は女の別名だよ、《問題となっている女なるものは、神の別の名である。[La femme dont il s'agit est un autre nom de Dieu]》 (Lacan, S23, 18 Novembre 1975)
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実際、神はタタルんだよ、ーー《神の外立[ l'ex-sistence de Dieu]》 (Lacan, S22, 08 Avril 1975) |
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後代の人々の考へに能はぬ事は、神が忽然幽界(かくりよ)から物を人間の前に表す事である。〔・・・〕 たゝると言ふ語は、記紀既に祟の字を宛てゝゐるから奈良朝に既に神の咎め・神の禍など言ふ意義が含まれて来てゐたものと見える。其にも拘らず、古いものから平安の初めにかけて、後代とは大分違うた用語例を持つてゐる。最古い意義は神意が現れると言ふところにある。〔・・・〕 たゝりはたつのありと複合した形で、後世風にはたてりと言ふところである。「祟りて言ふ」は「立有而言ふ」と言ふ事になる。神現れて言ふが内化した神意現れて言ふとの意で、実は「言ふ」のでなく、「しゞま」の「ほ」を示すのであつた。〔・・・〕 此序に言ふべきは、たゝふと言ふ語である。讃ふの意義を持つて来る道筋には、円満を予祝する表現をすると言ふ内容があつたのだとばかりもきめられない事である。「たつ」が語原として語根「ふ」をとつて、「たゝふ」と言ふ語が出来、「神意が現れる」「神意を現す様にする」「予祝する」など言ふ風に意義が転化して行つたものとも見られる。さう見ると、此から述べる「ほむ」と均しく、「たゝふ」が讃美の義を持つて来た道筋が知れる。だから、必しも「湛ふ」から来たものとは言へないのである。(折口信夫『「ほ」・「うら」から「ほかひ」へ』生前未発表) |
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あるいはーー、 |
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私は此章で、まれびとは古くは、神を斥す語であつて、とこよから時を定めて來り訪ふことがあると思はれて居たことを説かうとするのである。〔・・・〕 にほどりの葛飾早稻をにへすとも、彼の可愛しきを外に立てめやも誰ぞ。 此家の戸押ふる。にふなみに、我が夫を行りて、齋ふ此戸を 此二首の東歌(萬葉集卷十四)は、東國の「刈り上げ祭り」の夜の樣を傳へてゐるのである。にへは神及び神なる人の天子の食物の總稱なる「贄」と一つ語であつて、刈り上げの穀物を供ずる所作をこめて表す方に分化してゐる。… にへする夜の物忌みに、家人は出拂うて、特定の女だけが殘つて居る。處女であることも、主婦であることもあつたであらう。家人の外に避けて居るのは、神の來訪あるが爲である。 「戸おそふる」と言ひ、「外に立つ」(トに立つ)と謠うたのは、戸を叩いて其來訪を告げた印象が、深く記憶せられて居たからである。とふはこたふの對で、言ひかけるであり、たづぬはさぐるを原義として居る。人の家を訪問する義を持つた語としては、おとなふ・おとづるがある。音を語根とした「音を立てる」を本義とする語が、戸の音にばかり聯想が偏倚して、訪問する義を持つ樣になつたのは、長い民間傳承を背景に持つて居たからである。祭りの夜に神の來て、ほと〳〵と叩くおとなひに、豐かな期待を下に抱きながら、恐怖と畏敬とに縮みあがつた邑落幾代の生活が、産んだ語であつた。だから、訪問する義の語自體が、神を外にして出來なかつたことが知れるのである。(折口信夫「國文學の發生(第三稿)まれびとの意義」初出1929年) |
タタル女はまれびとに決まってるからな。
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ひとりの女は異者(まれびと)である[une femme, …, c'est une étrangeté. ](Lacan, S25, 11 Avril 1978) |
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異者がいる。異者とは、厳密にフロイトの意味での不気味なものである[Il est étrange… étrange au sens proprement freudien : unheimlich] (Lacan, S22, 19 Novembre 1974) |
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不気味なものは秘密の慣れ親しんだものであり、一度抑圧をへてそこから回帰したものである[Es mag zutreffen, daß das Unheimliche das Heimliche-Heimische ist, das eine Verdrängung erfahren hat und aus ihr wiedergekehrt ist,](フロイト『不気味なもの Das Unheimliche』第3章、1919年) |
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不気味なものは、抑圧の過程によって異者化されている[dies Unheimliche ist …das ihm nur durch den Prozeß der Verdrängung entfremdet worden ist.](フロイト『不気味なもの』第2章、1919年) |
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で、究極の不気味なものはーー |
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女性器は不気味なものである。しかしこの不気味なものは、人がみなかつて最初はそこにいたことのある場所への、人の子の故郷への入口である。 das weibliche Genitale sei ihnen etwas Unheimliches. Dieses Unheimliche ist aber der Eingang zur alten Heimat des Menschenkindes, zur Örtlichkeit, in der jeder einmal und zuerst geweilt hat. 「愛は郷愁だ」とジョークは言う。そして夢の中で「これは自分の知っている場所だ、昔一度ここにいたことがある」と思うような場所とか風景などがあったならば、それはかならず女性器、あるいは母胎であるとみなしてよい。»Liebe ist Heimweh«, behauptet ein Scherzwort, und wenn der Träumer von einer Örtlichkeit oder Landschaft noch im Traume denkt: Das ist mir bekannt, da war ich schon einmal, so darf die Deutung dafür das Genitale oder den Leib der Mutter einsetzen. (フロイト『不気味なもの Das Unheimliche』第2章、1919年) |
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これ自体、折口は似たようなこと言ってんだよな、 |
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すさのをのみことが、青山を枯山なす迄慕ひ歎き、いなひのみことが、波の穂を踏んで渡られた「妣が国」は、われ〳〵の祖たちの恋慕した魂のふる郷であつたのであらう。いざなみのみこと・たまよりひめの還りいます国なるからの名と言ふのは、世々の語部の解釈で、誠は、かの本つ国に関する万人共通の憧れ心をこめた語なのであつた 而も、其国土を、父の国と喚ばなかつたには、訣があると思ふ。第一の想像は、母権時代の俤を見せて居るものと見る。即、母の家に別れて来た若者たちの、此島国を北へ〳〵移つて行くに連れて、愈強くなつて来た懐郷心とするのである。(折口信夫「妣国へ・常世へ 」初出:1920(大正9)年5月) |
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……「妣が国」と言ふ語が、古代日本人の頭に深く印象した。妣は祀られた母と言ふ義である。(折口信夫「最古日本の女性生活の根柢」『古代研究 民俗学篇第一』1929年) |
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ーー《匕は、妣(女)の原字で、もと、細いすき間をはさみこむ陰門をもった女や牝(めす)を示したもの。》(漢字源) |
というわけだが、女のタタリは美人である必要はまったくないからな、いやむしろ標準的な美人はタタラないよ、《すべての女は美しい。「美人」は美しくない。「普通の女」にこそ「いい女」がいる》(荒木経惟)
タタルのは「しゞま」の「ほ」だな、あるいは突然振り向いた女の舌だよ
柿の木の杖をつき
坂を上つて行く
女の旅人突然後を向き
なめらかな舌を出した正午
ーー西脇順三郎「鹿門」
