成島柳北の派生物メモ。というか逆に、このところ柳北をめぐってのメモをしたのは、荷風の日記の「柳北」頻出のせいである。
以下、まず永井荷風の『断腸亭日乗』からの抜粋だが、句読点などに統一がないのは、わたくしの手元には、岩波文庫版の『断腸亭日乗』(上・下)摘録しかないので、そこから省かれている日記は、インターネット上から拾ったため(おそらく、それらの多くは、『断腸亭日乗』全巻『荷風全集』第19巻~第24巻(岩波書店)からだろうが、そこでは句点は使われていないようだ)。
以下、まず永井荷風の『断腸亭日乗』からの抜粋だが、句読点などに統一がないのは、わたくしの手元には、岩波文庫版の『断腸亭日乗』(上・下)摘録しかないので、そこから省かれている日記は、インターネット上から拾ったため(おそらく、それらの多くは、『断腸亭日乗』全巻『荷風全集』第19巻~第24巻(岩波書店)からだろうが、そこでは句点は使われていないようだ)。
…………
七月十四日。晴れて暑し。午後曾て高木氏より聞きたる大島氏来り訪はる。二十五六に見ゆ。成嶋柳北の孫なり。神戸市成嶋氏の家には柳北が安政頃より易簀の時まで書きつヾけし日誌在りと云ふ。晩間鷲津貞二郎来訪。
十月廿日。午前大嶋隆一氏祖父柳北成嶋先生手沢の日誌書簡を古き革包に収め、来り訪はる。日誌は嘉永六年に始り明治十七年に終る。大嶋氏去りし後、直に日誌を読みて覚えず日暮に至る。銀座に行きて夕餉を食し帰宅後また日誌を繙き深更に及ぶ。霜露漸く寒く月明昼のごとし。
十月卅一日。病稍良し。終日柳北の硯北日録を筆写す。晡下太訝に飰す。帝国劇場作者林矢嶋?の二氏に逢ふ。食後木挽町に往き初日の景況を見る。偶然巌谷先生父子に逢ふ。小波先生廿八日布哇に向ひ横浜を出港せられしが、乗船浅瀬に乗り上げ、一時上陸帰宅せられ、十一月四日再渡航の由なり。帰途太訝の婢お久に逢ふ。此日晴れて風寒し。
十二月二十五日。晏起の後掃塵盥漱を終れば既に午なり。日暮成弥邦枝二氏来る。邦枝氏七世白猿の尺牘を示さる。太訝の婢お慶来る。昨夜深更聖上崩御の公報出て、銀座通の商舗今朝より休業。太訝は夕刻より戸を閉したるにより、お慶邦枝子に逢はむとて来りしなりという。余昨夜より家を出でず、また新聞を見ざるを以て、ここに始めて諒闇の事を知る。山形ホテル食堂に到り葡萄酒を酌み晩餐をなす。枕上柳北の『新誌』第二編を読む。この日改元。
十二月三十一日。天気好晴。竟日柳北の『日誌』を写す。黄昏太訝に往き夕餉を食し、歌舞伎座に行くに、一番目狂言の稽古まさに終らむとす。少時松莚子と語りて後、中幕『和蘭陀船』の稽古を見る。中幕は松嶋屋父子の出し物なり。再び成弥と太訝に一茶す。始めて福沢大四郎氏に逢ふ。沢村田之助、弟源平、生田葵山、邦枝完二、日高浩、巖谷撫象、三田英児、谷岡某ら来り会す。年既に尽く。午前一時諸氏と共に銀座に出るに、商舗夜市の燈火煌々昼の如し。散歩の男女肩を摩し踵を接す。妓山勇市川登茂江らに逢ふ。尾張町四辻にて諸氏に別れ谷岡氏と電車を同じくして帰る。筆硯を洗ひ書室の塵を掃つて後、眠らむとれば、崖下の人家既に鶏鳴を聞く。
昭和二年
正月元日。……燈下柳北の『硯北日録』万延元年の巻を写して深更に及べり。
正月六日。……柳北先生の『硯北日録』七巻を写し終わりぬ。余すところ『投閑日録』『日毎之塵』その他十数巻あり。卒業の日なほ遠しといふべし。
正月七日。……燈下柳北『硯北日録』の註釈をつくりて深更に及ぶ。
四月十二日。午前大島隆一君来訪せらる。大島君は柳北の孫なり。同君の語る所を聞くに今年の春神戸なる成嶋朝一氏病みて歿せしにその遺族文集に通ぜられるを以て柳北の書幅遺稿書簡など既に売払ひしやの形跡ありといふ。また成嶋氏累世の文集錦江の『芙蓉楼集』東岳の某集等大嶋氏かつて目にせし事あり。それらも今は如何なりしや知らず。目下手紙にて問合中なりといふ。……
昭和三年
正月二日 晏起既に午に近し、先考の忌日なれば拝墓に徃かむとするに、晴れたる空薄く曇りて小雨降り来りしかば、いかゞせむと幾度か窓より空打仰ぐほどに、雲脚とぎれて日の光照りわたりぬ、まづ壺中庵に立寄り、お歌を伴ひ自働車を倩ひて雑司ヶ谷墓地に徃き、先考の墓を拝して後柳北先生の墓前にも香華を手向け、歩みて音羽に出で関口の公園に入る、園内寂然として遊歩の人もなく唯水声の鞺鞳たうたうたるを聞くのみ、堰口の橋を渡り水流に沿ひて駒留橋に到る、杖を留めて前方の岨崖を望めば老松古竹宛然一幅の画図をなす、此の地風景昭和三年に在つて猶斯くの如し、徃昔の好景蓋し察するに余りあり、早稲田電車終点より車に乗り飯田橋に抵り、歩みて神楽阪を登る、日既に来れ商舗の燈火燦然として松飾の間より輝き出るや、春着の妓女三々五々相携へて来徃するを看る、外套の夜色遽に新年の景況を添へたるが如き思あり、田原屋に入りて晩餐をなし、初更壺中庵に帰りて宿す、
二月廿二日 朝曇りしが次第に晴れわたりて風あたゝかなり、成嶋柳北の書簡航薇日記獄中詩稾その他凡て大嶋氏より借りたりし文書を整理し使の者に持たせて同氏の手許に返送す、午後日高君来訪、銀座に出て酒肆太牙に登りて笑語半日を消す、風月堂に立寄り晩餐を食して帰る、
四月十日 春雨霏々たり、無産党員上原某面会強要のことにつき万一の備をなさむとて、電話にて平井弁護士を招ぐ、平石今日は浦和にて用事ありてこれより停車場に赴かむとする処なりとの事に、明日を待ちて面談せむことを約す、余窃に思ふに、この度無産党員のわが家に来襲せしは過般改造社春陽堂両店より受取りたる一円本印税巨額に達したるを探知し、脅迫して之を強奪せむと欲するものなるべし、事件は猶甚しく切迫せざるを以て未警察署には訴出でざるなり、縦へ訴出づるも今日は警察署は果して能く此等不逞結社の暴行を制圧すべき力あるや否や疑なきを得ず、震災後わが現代の社会を見るに其の表面のみ纔に小康を保つに過ぎず、政府の威信は政党政治のために全く地に堕ち、公明正大の言論は曾て行はれたることなく暴行常に勝利を博するなり、当今の世は幕府瓦解の時代と殆ど異ることなきが如し、乱世に在つて身を全くするは名心を棄て跡を晦ますより外に道なし、戊辰の変に当り鴻儒息軒先生は市中を捨てゝ郊外の農家にかくれ、成嶌柳北はいまだ帰商の許を幕府より得ること能はざりし時毎夜本邸に帰らず巧に其の所在をくらましたり、余の如きは一介の戯作者に過ぎずその身分その地位前賢と比較すべきものにあらざるや言ふを俟たず、然るにたまたま売文の資を得るや兇悪なる結社の党人日々来つて之を奪ひ去らんとす、世道人心の敗頽は幕府衰亡の際より更に一層甚しきものありと謂ふべきなり、余は既にこの度の事起ざる以前より世の有様を見て文筆を棄てむと決心し居れるなり、幸にお歌三番町に引移り待合を開店せむとす、これ余が隠家には最適したる処なるべし、晡時家を出でお歌を訪ふ、夕餉の膳に近鄰の仕出屋山本といふ家より烏賊と独活の甘煮鮪のぬたを取寄す、山の手の物としてはその味賞すべし、十一時家に帰る、雨歇みしかど空猶墨の如し、
昭和四年
正月二日 空隈なく霽れわたりしが夜来の替えいよいよ烈しく、寒気骨に徹す、午前机に向ふ、午下寒風を冒して雑司ヶ谷墓地に徃き先考の墓を拝す、墓前の蠟梅今猶枯れず花正に盛なり、音羽の通衢つうく電車徃復す、去年の秋頃開通せしものなるべし、去年此の日お歌を伴ひ拝墓の後関口の公園を歩み、牛込にて夕餉を食して帰りしが、今日は風あまりに烈しければ柳北八雲二先生の墓にも詣でず、車を倩ひて三番町に立寄り夕餉を食し、風の少しく鎮まるを待ち家に帰る、夜はわづかに初更を過ぎたるばかりなれど寒気忍びがたきを以つて直に寝につきぬ、
昭和十二年
十一月初三。……この日また奇怪なる葉書に接したり。成嶋武夫といふ人柳北先生が曾孫の由にて、去昭和二年余が大島隆一氏より借覧せし柳北先生の日誌その他の文章を返済せよといふなり。余はその当時既にこれを大島氏に返付したるに、大島氏は右成島武夫に対して文書は今以て永井方にある由いひをるとなり。二氏に対して各手紙を郵送す。
昭和十八年
二月十日。晴。午後大島隆一氏来話。成島柳北に関する著述の序を需めらる。
昭和二十年。
ーー従弟の杵屋五叟の熱海の疎開先(木戸別邸)を頼って寄寓するが、そのときの日記にも次ぎのように現われる。
昭和二十年九月五日。秋霖の天気午に近くして初て霽る、木戸氏の留守宅頗廣大なり、鑛泉を引きたる廣き浴室もあり、書齋は西洋づくりにて活版の書冊多し、偶然架上に柳北全集のあるを見出し驚喜して巻中の航薇日誌を讀む、餘今黄薇の地を去り東行して熱海に来る、熱海は柳北が晩年病を養ひし處ならずや、餘弱冠のころより柳北先生の人物と文章とを景慕して措く能はざるもの、今その遊跡の同じきを知り歓喜の情更に深きを覚ゆ。
「大島隆一(成島柳北の外孫)が荷風の知遇を得たのは、偏奇館に程近い南葵文庫の司書をつとめていた高木文の仲介によるもので、大島が最初に偏奇館の主と対面したのは大正15年7月14日」(前田愛『成島柳北』)
杵屋五叟(大島隆一)は、永井家の家系図をみると、荷風の父の弟の大島久満次の息子となっている。
とすれば、すなわち大島隆一氏が成島柳北の外孫とすれば、大島久満次の配偶者が柳北の娘だということか?
(成島柳北関係系図) |
だがインターネット上には、大島久満次の妻が梅子であるという記述には行き当たらない。森繁久彌が柳北の姪孫だなどという記述には行き当るが、それも憶測の範囲を出ないらしい((成島柳北関係系図)に記されている柳北研究家前田愛による)。
ここで上には掲げなかったふたつの日記の記述(昭和二年正月十一日と昭和二十年三月十日)を並べてみよう。
昭和二年正月十一日。夜来の雨午後に至りて歇む、麹坊の妓電話をかけ来りしかば日暮湘南亭に赴き夕餉をともにす、一浴して後帰途余あまりに月よかりしかば銀座に出て太牙楼に登る、邦枝氏と会ふべきことを約したればなり、婢百合子とて近き頃まで牛込の妓なりし者とて、先夜おはなし申せし大島さま今宵折好く階下に来りて待ちたまへりと告ぐ、是先年亡せたまへる大島叔父の遺子にて及予が従弟に当るべき人なり、叔母君と二人にて今は千駄ヶ谷あたりに澄みたまへる由曾て北堂より聞きし事ありかど、予は旧邸売却の後は親戚のものとは全く音信を通ぜざるを以て今日まで相見るの機なかりしなり、人の語る所によれば大島叔父の遺子は杵屋五三の門弟にて三絃をよくすと云ふ、白皙長身、鼈甲の眼鏡をかけ毛皮襟付の二重廻に白足袋をはきたる風采宛あたかも長唄の師匠の如し、中村成弥とは既に相識れりと云ふ、折好く成弥も来合せたりしかば共に階下の酒場に行き初対面の挨拶して後語り興じぬ、酒肆太牙は予に執りては寔これ奇遇の地と云ふべきなり、過日は今村白瀧君の如き旧友と邂逅し、今宵は偶然未知の族人と款語するを得たり、銀座の酒肆喧騒囂そうきょう厭ふべしと雖いえども猶全く棄つべきにあらず、
昭和二十年三月十日。町會の男來り、罹災のお方は焚出しがありますから仲の町の國民學校にお集り下さいと呼び歩む。行きて見るに向側なる齒科醫師岩本氏その家人と共に在るに逢ふ。握飯一個を食ひ茶を喫するほどに旭日輝きそめしが、寒風は昨夜に劣らず、今日も亦肌を切るが如し。予は一まづ代々木なる從弟杵屋五叟の家に至り身の處置を謀らんと、三河臺電車停留塲に至りしが、電車の運轉する樣子もなし。六本木の交番にてきくに靑山一丁目より澁谷驛までは電車ありとの事に、其の言ふが如く澁谷に行きしが、省線の札賣塲は雜沓して近寄ること能はず。寒風に吹きさらされて路上に立つてバスの來るを待つこと半時間あまり。午前十時過漸くにして五叟の家に辿りつきぬ。
昭和二年の記述には《是先年亡せたまへる大島叔父の遺子にて及予が従弟に当るべき人なり》となっている(荷風の叔父大島久満次は、1918年(大正7年)4月27日)に亡くなっている)。しかも《人の語る所によれば大島叔父の遺子は杵屋五三の門弟にて三絃をよくすと云ふ》とあるように、この人物が大島隆一(杵屋五叟)であろう。そして昭和二十年の記述は《從弟杵屋五叟》とあるように、空襲罹災時に頼ったのも、同じ大島隆一氏である。
ところで、大島一雄なる方の次男は、荷風の養子になっている。それは次ぎの叙述によれば、昭和十九年のことらしい。
荷風が亡くなったのは、昭和34年4月30日のことである。一人暮らしの独居死であった。独居死をしたことについては、当時の新聞で読んだのかははっきりしないが、私の記憶の中にもある。
永井さんが荷風の養子になったのは、昭和19年、11歳、荷風が64歳のときである。永井さんの実父大嶋一雄は、杵屋五叟という名をもつ長唄人。荷風のいとこで、親戚を嫌っていた荷風が唯一親しくしていた一雄と荷風が永井さんを養子としたのである。養子といっても、永井さんは実父母と生活を共にし、荷風が戦災に会い、一雄さん一家の家に住んだとき以外、一緒に住んだことはない。
昭和30年頃、荷風と一雄が仲違いをしたことから、荷風は永井さんとの養子縁組の解消をしようとした。一雄は、荷風のわがままと考えていたようだが、永井さんは、11歳のときに、永井姓を名乗らされ、10年以上使ってきた姓をまた変えることになとして、養子縁組を解消することを断り、解消の話は亡くなった。(書評:『父 荷風』 永井永光)
とはいえ、荷風はすでに昭和一六年に次ぎのように従弟杵屋五艘に遺書を送っている。
昭和一六年。
一月十日。陰。午後南総隠士来話。昏暮小野すみといふ婦人来話。旧臘北越糸魚川より小説の草稿を送り来りしものなり。在京中は故大槻如電の孫某氏の家心やすき由にて厄介になれるなりといふ。南総氏と共に銀座に飰はんして浅草に至る。雨降り来りしが帰るころには雲間に月を見たり。南風吹きて暖なり。深夜遺書をしたためて従弟杵屋五艘の許に送る。左の如し。
一拙老死去の節ハ従弟大嶋加寿夫子孫ノ中適当ナル者ヲ選ミ拙者ノ家督ヲ相続セシムルコト。ソノ手続ソノ他万事ハ従弟大嶋加寿夫ニ一任可致いたすべし事。
一拙老死去ノ節葬式執行不致候。
一墓石建立致スマジキ事。
一拙老生前所持ノ動産不動産ノ処分ハ左ノ如シ。
一遺産ハ何処ヘモ寄付スルコト無用也。
一蔵書画ハ売却スベシ。図書館等ヘハ寄付スベカラズ。
一住宅ハ取壊スベシ。
一住宅取払後麻布市市兵衛町一ノ六地面ノ処分ハ大嶋加寿夫ノ任意タルベキ事。
西暦千九百四十年十二月廿五日夜半認之これをしたたむ。
日本昭和十五年十二月廿五日
荷風散人永井荘吉
従弟 杵屋五艘事
大嶋加寿不殿
ところで、次のような文がある、《著者(永井永光)は荷風の従弟で長唄三味線方の杵屋五叟(大島一雄)の次男として生まれた》と。
著者は荷風の従弟で長唄三味線方の杵屋五叟(大島一雄)の次男として生まれた。荷風の父久一郎と五叟の父久満次が兄弟で、久満次は大島家に養子に入り、一雄をもうけた。久満次もまた官吏で、台湾民政長官を経て神奈川県知事になるという高官だったという。
荷風と五叟には26歳の年齢のひらきがあったものの、役人が多く真面目な永井家のなかで「遊び人」同士ということで、二人はウマがあった。五叟は荷風を「先生」と呼んで尊敬し、荷風も麻布偏奇館が戦災で焼失したとき、代々木に住んでいた大島家を頼る。(書評:永井永光『父 荷風』)
とすれば、大島隆一と大島一雄は同一人物のようにみえる。
いずれにせよ、「断腸亭日乗Wiki」なるものにある《大嶋隆一。成島柳北の外孫。荷風先生の叔父。大島一雄の父》なる叙述は間違いではないか。この叙述だと、大島一雄氏が、大島隆一氏の子どもということになり、永井永光氏が語ったとされる叙述とは相矛盾する。かつまた大島隆一氏は、荷風の叔父ではなく、従弟であることは上で見た。
…………
永井家の系譜を眺めているなか、高見順が、荷風の従弟であることに気づいた。いや、そうであるという朧な記憶がなかったわけではないが(たぶん吉行淳之介のエッセイか?)、ほとんど失念していた。
次ぎの文は岩波文庫版の断腸亭からは省かれている(「荷風と高見順」より)。
昭和十一年九月五日
八月末の日記にしるせし高見氏のことにつき、その後 また聞くところあり。氏は近年執筆せし短編小説を集め起承転々と題し、今年7月改造社より単行本としを公にしたり。書中私生児と題する一小編は氏の出生実 歴を述べたるものにて、実父阪本翁一家の秘密はこれが為悉く余に暴露せられたりと云ふ。気の毒のことなり。阪本翁は余が父の実弟にて・・・儒教を奉じて好 んで国家教育のことを説く。されど閨門治まらず遂に私生児を挙ぐるにいたりしも恬として恥じるところなく、貴族院の議場にて常に仁義道徳を説く。余は生来 潔癖ありて、斯くの如き表裏ある生活を好まざるを以て三四十年来叔姪の礼をなさず、・・・・偶然高見氏のことを聞き、叔父の迷惑を思ひ、痛快の念禁ずべか らずなり。
「青空文庫」の2016年は、谷崎潤一郎、江戸川乱歩、梅崎春生、高見順が登場するようだ。高見順の小説は、かつて(二十歳前後)、『いやな感じ』というかなり長い小説をのみ読んだことがあり(わたくしは小説読みではなく、たとえば太宰も芥川もほとんど読んでいない。なぜ高見順のその本を手にとったのか、実家にあったのか、それとも古本屋で手に入れたのだったか、これも失念している)、なかなか面白かったという印象のみ記憶にある。