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@RichterBot(シュナーベルの演奏するベートーヴェンのピアノソナタ第五番ハ短調の録音*を聴いて)
文字通りこの注目すべき解釈に唖然となった。
曲が突如としてほとんど触れられるほどに生き生きと躍動したからだ。見事だ!
*http://p.tl/Q-iK (スヴャトスラフ・リヒテル)
ーーここにはグールドがいる、それよりもなによりも、なぜか「分裂病的」な演奏という言葉が口から洩れそうになる。一楽章はグールドの演奏以上にグールドっぽい、ーーという言い方は語弊があるが、なんというのか、グールドの演奏のわたくしが好むエッセンスのようなものがある。他方、グールド自身のop 10の一楽章は急かされたような気分になって、わたくしの好むグールドはわずかしかないーー、もっとも、二楽章は、グールドの演奏をシュナーベルのものより断然好むが。
ベートーヴェンの作品のレコード録音では、和声の肉付きの薄いシュナーベルのような音の響きを追求した。それに対して、レコーディング・エンジニアはこんな応答をしている。「長距離電話で聞けば、そんなふうになりますよ。」(……)音楽によって他人とそして彼自身と遠くから接触をはかろうとするのが彼の物理学と形而上学なのだ。演奏している、誰を呼んでいるのかはわからない。自分自身の内部で誰が呼んでいるのかもわからない。ふたつの遠隔地のあいだの単なる空気の振動、ただ迷っているということのほかにはなにもわからないふたりの存在を結びつけ、かすかなざわめきを発する線。
彼がシュナーベルのうちに愛したのは、「ピアノに本来そなわる諸要素を無意識のうちにほぼ完全に否定しようとする意志」なのだという。ピアノはグールドの無意識だったのだろうか。やがてすっかり放棄してしまうときがやってくる。「ほとんどピアノは弾かない。一時間か二時間か、それも月に一度、接触をもつためだ。だがときにピアノに触る必要が出てくる。そうしないとちゃんと眠れなくなるのだ。」(ミシェル・シュナデール『グールド 孤独のアリア』千葉文夫訳)
リヒテルbotというのは、いろいろなことを教えてくれる。少年時、リヒテルの平均律一巻を愛したのだがーーグールドのもの以上にーー、第二巻には失望した。それについてもリヒテルが次ぎのように告白している。
@RichterBot: かなりうまくいった第一巻とは逆に、この第二巻の録音は屑だらけだ、それも何たることか、嬰へ短調や変ロ短調のようなもっとも重要な前奏曲とフーガ(たぶん全曲中でもっとも並外れた作品であり、第一巻のロ短調にもまったく劣らないと私は考えている)にそれがあるのだ。リヒテル
というわけで嬰へ短調 BWV883や変ロ短調BWV891を聴きなおしてみたのだが(これはかなり前のことだが)、BWV883、つまり14番は昔聴きすぎたので(あるいはなんとか弾きこなそうとしたので)、ここではBWV891をレコード録音版ではなく、のちにしばしば聴くようになったヴィデオ映像のグールド(フーガ)をまず挙げる。
少年時、グールドとリヒテル、それにグルダの三種類のレコードをもっていた。この演奏にかんしては、かつてはグルダのものをもっともよく聴いた。
順不同だが、グルダのプレリュード。
BWV891が好きなのだろう、最近はまったく異なったタイプの演奏家Edwin Fischerをも好んで聴く。
とはいえフッシャーは、シュワルツコップを伴奏するシューベルト『糸を紡ぐグレートヒェン』がなんといってもすばらしい。
グールドは誰か歌手を褒めるときには、シュワルツコップを引き合いに出す。
I'M A STREISAND freak and make no bones about it. With the possible exception of Elizabeth Schwarzkopf, no vocalist has brought me greater pleasure or more insight into the interpreter's art.(Streisand as Schwarzkopf)
『糸を紡ぐグレートヒェン』は、もちろんゲーテの『ファウスト』からだが、ここではロラン・バルトを引用しておこう。
歴史的に見れば、不在のディスクールは女性によって語りつがれてきている。「女」は家にこもり、「男」は狩をし、旅をする。女は貞節であり(女は待つ)、男は不実である(世間を渡り、女を漁る)。不在に形を与え、不在の物語を練り上げるのは女である。女にはその暇があるからだ。女は機を織り、歌をうたう。「糸紡ぎの歌」、「機織りの歌」は、不動を語り(「紡ぎ車」のごろごろという音によって)、同時に不在を語っているのだ(はるかな旅のリズム、海原の山なす波)。そこで、女ではなくて男が他者の不在を語るとなると、そこでは必ず女性的なところがあらわれることになる。待ちつづけ、そのことで苦しんでいる男は、驚くほど女性的になるのだ。男が女性的になるのは、性的倒錯者だからでなく、恋をしているあらである。(神話とユートピア、その起源は女性的なところをそなえた人びとのものであったし、未来もそうした人びとのものとなるだろう。)(ロラン・バルト『恋愛のディスクール』p23)