経験的自己のあり方は感覚によって違う。(……)視覚は、(成人の場合)頭部の15センチ後ろから見るような映像として視覚世界を把握している。ここは身体外の空間であって虚点である。(……)「聴覚的自極」となると、それは両耳を繋ぐ直線の中心にあるようであるが、視覚的自極ほどはっきりしない。(……)
おそらく、聴覚主体は一つの虚点であって、四方から聴覚対象がこれを包むという形ではないだろうか。(中井久夫「発達的記憶論」『徴候・記憶・外傷』所収 p56ー57)
ここに書かれているのは、視覚主体も聴覚主体も虚点ではないだろうか、ということだが、視覚主体は明らかに身体外にある、という点に絞って注目してみよう。
われわれが何かを見つめているとき、実は見られているような感覚に襲われる場合があるというのは、サルトルのまなざし論、それを受けて発展させたラカンのまなざし論で、比較的よく知られている(参照)。
ほかにもラカン派なら次ぎのように言う。
鍵穴を覗き込む窃視者は、自分自身の見る行為に没頭しているが、やがて突然背後の小枝のそよぎに、あるいは足音とそれに続く静寂に驚かされる。ここで窃視者の視線は、彼を対象として、傷つきうる身体として奈落に突き落とす眼差しによって中断される。(コプチェク『女なんていないと想像してごらん』)
ラカンの公式:どの絵にも死角(盲点)があり、私が見つめている絵は、この点から、まなざしを返す(私を見詰め返す)。この背景に対して、われわれは、フロイトの欲動の再帰的特性におけるラカンの命題を、「se faire …」(視線の欲動は見る欲動ではない、見る欲望と対称的に己れが見られるなどの欲動である)という立場として読むべきだ。ラカンはここで人間の条件の最も基本的な「気取り、劇場性」theatricalityを指摘しているのではないか?われわれの基礎となる(生の)闘争は、観察することではなく、舞台の場面の部分になること、まなざしに自身を曝すこと、――現実の人物の確としたまなざしではなく、存在しない純然たる〈大他者〉の〈まなざし〉に曝されることではないか。(ジジェク、LESS THAN NOTHING)
ラカン派はこのように言うが、それより以前に視覚そのものが身体外部の虚点(頭部の15センチ後ろ)にあるのだとすれば、見ること自体が、見られているという感覚を「構造的に」もたらすということは言えないのだろうか。
とはいえ片目で覗くなら、この虚点の位置はどうなるのだろう。
(マルセル・デュシャン遺作) |
ーーたまたま中井久夫の文に当ったので、ここではたんなる「思いつき」の備忘だけではある。とはいえいまわたくしは何か馬鹿げたことを書いていないだろうか・・・
(同遺作内部) |