マリラ・ジョナス(Maryla Jonas, 1911~1959年)
ライナーノーツによると、彼女は、1920年、9歳でデビューし、1926年頃からは全ヨーロッパでリサイタルを開くようになります。しかし1939年、ナチス・ドイツのポーランド侵攻によって、演奏活動は中断、彼女は強制収容所に収監されてしまいます。7か月以上収監された後、マリラ・ジョナスの演奏を聴いたことがあるドイツ人高官の手助けを得て脱走、徒歩で数か月かけてベルリンのブラジル大使館まで逃亡し、ブラジルへ亡命します。その後、アルトゥール・ルービンシュタインに見出され、1946年にアメリカでのデビューを果たします。このリサイタルを聴いたニューヨーク・タイムズの評論家が彼女を絶賛し、次第に人気がでるようになりますが、厳しい収容所生活のせいもあり、1959年にわずか48年の生涯を閉じてしまいます。
ーーと読めば、強い祖国への思いとトラウマの記憶が綯い交ぜになった驚くべきインティメイトかつ哀切なーー敢えて言えば、ラカンのExtimité(最も親密なものは外部にある)、これを反転させれば《音が遠くからやってくればくるほど、音は近くからわたしに触れる》(シュネデール)であり、そのExtimitéのようなーー演奏だとしたくなるところだ(もちろん、このような心理的な聴き方は非難されるのはよく知っているが、ここでは敢えてそう記しておく)。まずは一曲目のOp. 68 No. 3の冒頭近くのくり返し箇所のピアニッシモの消え入るような音にわたくしはくらくらとなる。
……ある臨界線以上の強度の事件あるいはその記憶は強度が変わらない。情況によっては逆耐性さえ生じうる。すなわち、暴露されるごとに心的装置は脆弱となり、傷はますます深く、こじれる。素質による程度の差はあるかもしれないが、どのような人でも、残虐ないじめや拷問、反復する性虐待を受ければ外傷的記憶が生じる。(中井久夫「トラウマとその治療経験」『徴候・記憶・外傷』所収 P.109)
ショパンのマズルカといえば、かつてはショパンの絶筆であるMazurka op.68 n°4(ヘ短調)とMazurka op.33 n°4(ロ短調)のニ曲のミケランジェリの演奏が、彼の名演のなかでもことさら「すごい」演奏と言われたし、やはりこれは何度聴いてもすばらしいには相違ない。だが、今のわたくしにはジョナスのいくつかのマズルカの断片がかけがえのないものにきこえてくる。
このニ曲は(ふしぎにも?)上のジョナスのマズルカ集には入っていない。
◆Chopin - 6 Mazurkas - Michelangeli Brescia 1967
ミケランジェリの名演とは、この六曲のマズルカのなかの冒頭の曲と最後の曲である。
◆Maryla Jonas plays Chopin Mazurka op. 68 no. 4 (1948)
ーーなどといくらかマズルカを聴いていたら、
Alfred Cortot's unpublished, unknown and special records. Recorded late 1950s (unconfirmed).
Are these records true or false ?
とあるものに行き当たってので、ここにマズルカ21曲の再生リストを貼りつけておく。
◆Alfred Cortot - Chopin Mazurka, Op. 68 No. 3 → No. 4 ……
(マズルカには)、私の考えるショパンの最高のものがあり、それに加えるに、いつもの彼に感じられる完璧さへの消耗性の努力とはちがう、もっと自然に流れるものへの信頼によりながら、創造が営まれているという安らかさがある。(吉田秀和『私の好きな曲』)
…………
最近知ったピアニストでひどく驚いたのが、強制収容所で苦しんだMaryla JonasとElly Neyーーいわゆる総統(ヒトラー)のピアニストーーであるのが奇妙だ・・・
◆Elly Ney plays Schumann Variations Posthumes (Op. Posthume, Appendix to Op. 13)
ーー最後の曲(10.25前後から)がことさらすばらしい
※たとえば、Sviatoslav Richter plays Schumann Symphonic Etudes, Op.13とききくらべてみるとよい。
--などというのは偶然ではあるに決まっているが、あの時代に育った芸術家、あるいはあの時代の雰囲気・人間模様にどこか惹かれてしまうところがあるのを否定するつもりはない。もちろん上のコルトーもカザルスとの決裂で知られている。
ボルドーに着いてみると全くの混乱状態だった。(……)噂が乱れ飛んだ。ナチの機甲部隊がそこまで来ているという人があるかと思うと、空襲があるという人もいた。アラベドラはわれわれのために船室を獲得する工作をはじめた。私はからだの具合が悪くて動けなかった。私の旧友で同僚だったアルフレド・コルトーがこの市にいることを伝え聞いて、彼はコルトーに会いにいった。コルトーがフランス政府に有力な関係をもっていることを知って、アラベドラはコルトーにわれわれのために力添えをしてくれるように頼んだ。しかしコルトーは自分にはなにもできないと答えた。アラベドラが私の具合がひどく悪いと言うと、コルトーはそっけなく、「よろしく言ってくれたまえ、元気になるように願っているとね」と言った。コルトーは会いにもきてくれなかった。そのとき彼の行動が理解できなかった。しかし、まもなく、コルトーが公然たるナチの協力者になったときに、なぜ彼が私にこんな仕打ちをしたか、悲しいかな、わかった。恐ろしいことだ、人は恐怖や野心でとんでもないことをしでかす……。(パブロ・カザルス『喜びと悲しみ』p.213)
◆Cortot, Casals, Thibaud Trio Mendelssohn d mvt 2(1927)
ロマン主義的なるものとはこの世のなかでもっとも心温まるものであり、民衆の内面の感情の深処から生まれた、もっとも好ましいもの自体ではないでしょうか?疑う余地はありません。それはこの瞬間までは新鮮ではちきれんばかりに健康な果実ですけれども、並みはずれて潰れやすく腐りやすい果実なのです。適切な時に味わうならば、正真正銘の清涼感を与えてくれますが、時を逸してしまうと、これを味わう人類に腐敗と死を蔓延させる果実となるのです。ロマン主義的なるものは魂の奇跡です―― 最高の魂の奇跡となるのは、良心なき美を目にし、この美の祝福に浴したときでありましょうが、ロマン主義的なるものは、責任をもって問題と取り組もうとする生に対する善意の立場からすれば、至当な根拠から疑惑の目で見られるようになり、良心の究極の判決に従って行う自己克服の対象となってまいります。(トーマス・マンーー1924 ニーチェ記念講演)
(わかってくれ、きみとはもう一緒に演奏できないことを)--とカザルスはコルトーに言っているのかどうかは知るところではない。
音楽を聞くには隠れなければならないと思うことがある。音楽は手袋の内と外をひっくり返すようにわたしを裏返してしまう。音楽が触れ合いの言葉、共同体の言葉となる。そんな時代がかつてあったし、いまも人によってはそんな場合があるのはもちろん知っているが、わたしの場合は、ほかの人々と一緒に音楽は聞けない。誰かと一緒に音楽を演奏するとなれば話は別だ。室内楽ならば、あらゆる意味で相手に合わせなければならない。二重奏のソナタや三重奏なら一緒に演奏することができる。それだけの謙虚な気持ちと少しばかりの愛があれば十分だ。あるいは深い知識があって、憎しみがなければできる。(シュネデール)
いや二人は実は戦前の1934年を最後にしてではなく、二十数年後(1958)に二重奏をやっている(Cortot Last Concert: Cortot & Casals Beethoven Sonata op.69)。
音楽は一見いかに論理的・倫理的な厳密なものであるにせよ、妖怪たちの世界に属している、と私にはむしろ思われる。この妖怪の世界そのものが理性と人間の尊厳という面で絶対的に信頼できると、私はきっぱりと誓言したくはない。にもかかわらず私は音楽が好きでたまらない。それは、残念と思われるにせよ、喜ばしいと思われるにせよ、人間の本性から切り離すことができない諸矛盾のひとつである。(トーマス・マン『ファウスト博士』)
音楽は、それ自体の歴史的傾向に反抗せずに盲目的、無抵抗に服従し、世界理性ではない世界精神に身を委ねる。このことによって音楽の無邪気さは、あらゆる芸術の歴史が準備に取りかかっている破局を早めようとする。音楽は歴史をそれなりに認めている。歴史は音楽を廃棄したがる。しかしながら、まさにこのこと事体が死のみそぎを受けた音楽をもう一度正当化し、存続する逆説的チャンスを音楽に与える。(アドルノ『新音楽の哲学』)
さて最後にわれわれの世代の映画ファンならーーいやわたくしのように格別の映画ファンでなくても多くの人びとが魅せられたであろう映像を貼りつけておこう。
◆cavani: il portiere di notte(愛の嵐、リリアーナ・カヴァーニ、シャーロット・ランプリング)