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2015年7月29日水曜日

触れられたくない秘められた部分の〈他者〉の知

外傷性記憶を「語り」に変えてゆくことが治療であるとジャネは考えた。体験は言語で語れる「ストーリー」に変わって初めて生活史の多彩で変化する流れの中に位置を占めることができる。それは少なくない事例においてある程度は達成できる。しかし、完全な達成は理想であって、多くの外傷は「精神的瘢痕治癒」となると私は思う。すなわち、外傷の記憶は意識の辺縁の夢のような部分、あるいは触れられたくない秘められた部分(ホット・スポット)に留まることが多い。たとえば自殺未遂の記憶、一時的精神的失調の記憶は一般に夢のような、半ば人ごとのようなものとして残る。これは生活の邪魔をしない「柔らかな解離」である。私たちはそのようなホット・スポットを意識の辺縁に持っていないであろうか。かつて精神分析は言語化を重視しすぎた。西欧の精神医学は言語化と言語的・意識的自我への統合を究極の目標とする。それは果たして現実的であろうか。

実際、外傷を語るべきか語らざるべきかについてさえ諸家の一致があるわけではない。ホロコーストの記憶を語らなかった家族のほうが長期予後がよいという報告がある。(「トラウマとその治療経験――外傷性障害私見」『徴候・外傷・記憶』p.116)

ーーこの文は(主に)トラウマ治療の話であり、以下の文とは文脈がいささか異なるが敢えて掲げた。

…………

仮定してみよう、私の家族がハンチントン病で、私がその病をもっている可能性がある、と。私はどうするだろう? これは幻想だが、こう言ってみよう、私は医者の親しい友があって彼はあらゆる毒物にアクセスできる。私は彼にハンチントン病のテストを依頼するが私には何も言わないでくれと頼む。彼だけが結果を知っているというわけだ。もし陽性であるのが分かったら、発病直前の一ヶ月か二ヶ月前に、私の食べ物に毒物を入れてほしいと頼むんだ、もちろん私の知らないままにね。

私にとって、これはおそらく完ぺきな幻想的解決だね、私は何も知らない、そしてある時点に、ふだんと同じように幸福に眠り、そのまま目覚めないというわけだ。けれどもこれはラカニアンの観点からは機能しないんだな。ラカンにとっての最も厄介なカテゴリーはたんに知ではなく、〈他者〉の知についての知なんだ。〈他者〉の知がいつもあなたを悩ます、あなたをトラウマ化するのだ

(……)これは、私がマーティン・スコセッシのエイジ・オブ・イノセンス(汚れなき情事)で切り開かれた状況について指摘したのと同じ要点だ。そこでは男は妻を騙しているのだが、彼女はそのことを知らないと思っている。けれど妻は最初から知っていたことに気づくたとき、すべては崩れ落ちる。何も実際は変わらない、あなたが今知ったのは、妻がずっと知っていたことだけなのに、状況はひどく屈辱的なものになってしまう。だからくり返すなら、〈他者〉が何を知っているかを知る、〈他者〉が知っていることを知るとは、ひどく複雑な弁証法的カテゴリーなのだ。(『ジジェク自身によるジジェク』2003 私訳)

ーーとジジェクは言ってるのだけれど、 これは昔のキリスト教の告白もそうだと思うが、精神分析においても「分析家になんでもしゃべってしまう」ということはどうなんだろうね?

ところで遅ればせですが、以前、浅田さんから聞いた話として、精神分析って何でも分析家にしゃべっちゃうわけでしょう、それはよくないんでは、という内容のツイートをしたけれど、先日ご本人と話したら、守秘義務の文脈とは違うとのことなので、訂正して当該ツイートを削除いたします。

浅田さんによれば、職業的守秘義務があるなかで分析家に何でも話すのはオーケーだろうとのこと。

浅田さんとの話では、これだけネットに情報が出る可能性があるなかでも、むしろ無防備に話したり画像を送ったりするくらいの(その相手にどういう信頼を置くかが様々であるわけだけど)ほうが好ましい愚かさである、という話になりました。(千葉雅也)

《職業的守秘義務があるなかで分析家に何でも話すのはオーケーだろう》(浅田彰)とあるが、 たとえ守秘義務があって口外しないのが確かであろうと、〈他者〉の知があなたをトラウマ化することはないんだろうか? 屈辱的な心持に襲われるなどということは。

被分析者や教育分析を受けたような人で、かつての分析者に陰性転移してしまうなんてことはないんだろうか? どこか「その人を憎んでいる」などということは? どうもいまさらだが、わたくしには疑わしいね。

邪推すれば、ああ、あそこにあるのも陰性転移、別のあそこにも、と思わないでいられない例があるな。

私の身辺にある人間がいる。私はその人を憎んでいる。だからその人が何かの不幸にもで遭えば、私の中には烈しい喜びの気持が動く。ところが私の徳義心は、私自身のそういう気持を肯定しようとしない。私はあえて呪いの願望を外に出すことをしかねている。

さて偶然その人の身の上に何か悪いことが起こったとき、私はそれに対する私の充足感を抑えつけ、相手を気の毒に思うことを口にも出すし、自分の気持にも強制するであろう。誰にもこんな経験はあるにちがいない。

ところがその当の人間が不正を犯してそれ相当の罰をこうむるというようなことでも起ると、そのときこそ私は、彼が正当にも罰をこうむったことに対する私の充足感を自由に外に出すことができる。そして、彼に対して愛憎を持っていない多くの人々と自分もこの点では同意見だとはっきり口外する。

しかし私の充足感はほかの人たちのそれよりも一段と強いものであることを、私は自分自身のうえに観察しうる。私の充足感は、情念動出を内心の検閲によってそれまでは妨げられていたが、今や事情が一変してもはやそれを妨げられることのなくなった私の憎悪心という源泉からエネルギーの補助を受けているのである。

こういう事情は、反感をいだかれている人物であるとか、世間から好かれていない少数党に属する人間であるとかがなんらかの罪を己が身の上に招くようなときには普通世間でよく見られるところのものである。こういう場合、彼らの受ける罰は彼らの罪に釣り合わないのが普通で、むしろ彼らに対して向けられていたが外に出ることのなかった悪意プラス罪というものに釣り合うのである。

処罰者たちはこの場合明らかに一個の不正を犯す。彼らはしかし自分たちが不正を犯しているということを認め知ることができない。なぜならかれらは、永いこと一所懸命に守ってきた抑制が今こそ排除されて、彼らの心の中には充足感が生まれてきて、そのために眼が眩んでしまっているからである。こういう場合、情動はその性質からすれば正当なものであるが、その度合からすれば正当なものではない。そして第一の点では安心してしまっている自己批評が、第二の点の検討を無視してしまうのはじつに易々たることなのである。扉がいったん開かれてしまえば、もともと入場を許可しようと思っていた以上の人間がどやどやと入りこんでくるのである。

神経症患者における、情動を湧起せしめうる動因(きっかけ)が質的には正常だが量的には異常な結果を生むという神経症的性格の著しい特色は、それがそもそも心理学的に説明されうるかぎりではこのようにして説明されるのである。しかしその量的過剰は、それまでは抑制されて無意識のままにとどまっていた情動源泉に発している。そしてこれらの源泉は現実的動因(きっかけ)と連想的結合関係を結びうるものであり、また、その情動表出には、何の要求をも持たないところの、天下御免の情動源泉が望みどおりの途を拓いてくれるのである。

抑制を加える心的検問所と抑制を受ける心的な力とのあいだにはいつも必ずしも相互的妨害の関係が存するばかりではないということにわれわれは気づかされるわけである。抑制する検問所と抑制される検問所とが協同作業をして、相互に強化しあい、その結果ある病的な現象を生じせしめるというようないくつかの場合も同様注目に値する。 ……(フロイト『夢判断』高橋義孝訳 文庫 下 P219-221)