このブログを検索

2015年8月20日木曜日

ペーペルコルンとその飲み仲間たち

数日前高原地方の旅行から帰って来た妻の友人が、新鮮でよく育ったアスパラガスと西洋種のサクランボを大量に土産として持って来てくれてーー当地の平地ではアスパラガスは育たずつまり通常は食べる習慣はなく、西洋種のサクランボとともに輸出用か避暑地などのレストラン用であるーー、このところ茹でたりサラダにしたり、天ぷらにしたりリゾットやスープにしたりして毎食のように食していた。アスパラガスには白ワインがあう、ワインも何本か開けた。

としているうちにまた足首が腫れだした。右膝の外側も赤い斑点がでている。また尿酸値が高くなったようだ。アスパラガスとはプリン体が多いのか、と調べてみれば、それなりの注意食品のようだ。

二年ほどまえにひどい痛風の発作に襲われてーーその症状がでる直前、それまではあまりにも安価ながら鮮度に不安があって避けていた小粒の赤貝(たぶん? いずれにしろ味はひどく似ている)をいくらか火で炙ったり天ぷらにするという食べ方を見出し、毎食のように二、三週間つづけて食していたーーその痛風の痛みで五米さきのトイレにもいけない日が三日ばかり続いて以降、摂生したりもういいだろうと思って思い切って飲み食いしてまた痛みや腫れが復活したりーーそれでもいささか用心はしているので最初のようなひどい痛みには至っていないーーということをくり返している。

とはいえ--。ああ酒を思い切って飲みたい、ああカロリーの高い美味なものをたらふく食いたい、一瓶のブドウ酒、穀物の純粋なエキス、――それを十分に汲みつくし、十二分に味わいたい! 

というわけでーーなにが「というわけ」なのかは判然としないがーー、『魔の山』でも写経しておくことにする。

ーー《「わめきなさい、わめきなさい、マダム!」と彼はいった。「きいきいと生気にあふれたひびきが、喉のずっと奥からーー。まあ飲みなさい、英気を養った上で改めてーー」》

◆トーマス・マン『魔の山」(岩波文庫 下 P378~)

……ペーペルコルンは額の唐草模様を引きあげて、集った客の一人一人をうすい色の目でいんぎんに注意ぶかく見つめながら挨拶した。全部で十二人が席につき、ハンス・カストルプは王者ふうの主人役ペーペルコルンとクラウディア・ショーシャのあいだに坐った。トゥエンティー・ワンを数回やろうというので、トランプと数取りがならべられ、ペーペルコルンは呼びよせた小人の給仕女にいつものものものしい手ぶりで、1806年のシャブリ産の白ブドウ酒を一まず三本と、甘いものは乾した熱帯果実と小菓子で有りあわせのものをのこらず持ってくるようにと命じた。それらの結構な品々が運ばれてきたのをペーペルコルンが両手をもみ合わせて迎えた様子は、いかにも楽しそうで、その楽しい気持をものものしい尻切れとんぼの言葉でいいあらわそうとしたが、人物の持つ全体的な説得力の点では、それだけで十分の効果があった。ペーペルコルンは、左右の二人の前膊へ手をのせ、爪が槍のように尖っている人差指を立て、ふくらみのある緑色のグラスにつがれたブドウ酒の美しい黄金色、マラガ産のブトウの粒に吹きだしている果糖、塩と罌粟がはいっているB字形ビスケットの一種を絶美と呼び、みんなにもその品々にたいしてよく注意するようにと全体的な説得力でうながした。そういう大げさな言葉にたいして反対したい気持がみんなのこころに頭をもたげかけても、ものものしい文化的な手ぶりのために途中で押さえつけられてしまった。(……)

「わめきなさい、わめきなさい、マダム!」と彼はいった。「きいきいと生気にあふれたひびきが、喉のずっと奥からーー。まあ飲みなさい、英気を養った上で改めてーー」。そして、ペーペルコルンはシュテイール夫人のグラスにブドウ酒をつぎ、彼の隣りの二人と彼自身のグラスへもつぎ、あたらしく三瓶を取りよせ、ヴェーザルと蛋白喪失でぼけこんだマグヌス夫人は英気を養う必要がだれよりもあったので、ときにこの二人とグラスをかち合わせた。ほんとうにすばらしい味のブドウ酒にみんなの顔はたちまちに赤く、真赤になり、ドクトル陳富の顔だけが依然として黄色く、その黄色い顔に鼠のような目が真黒く糸のように光っていたが、このシナ人はくすくす笑いながらたいへん高額の金を賭けて、あつかましいほど勝ちつづけた。(……)マグヌス夫人は、気分がわるくなった。彼女は失神しそうになったが、部屋へ帰ることをかたくなにこばんで、額へぬらしたナプキンをのせてもらい、長椅子に寝かせてもらうだけにして、しばらく休養してからふたたび仲間入りをした。

ペーペルコルンはマグヌス夫人のふがいなさを栄養不良のせいにして、そういう意味のことを、ものものしい尻切れとんぼの言葉と直立させた人差指とでほのめかした。人生の要求をみたすためには食べなくてはならない、十分に食べなくてはならない、と彼はほのめかし、みんなのために精力をつけるお八つを注文した。肉、冷肉、タング、鵞鳥の胸肉、ビフテキ、ハムとソーセージーーという栄養満点のご馳走がいく皿も、小さな球形のバター、赤大根、オランダ芹をあしらわれて、百花咲きみだれる花壇そっくりであった。みんなは夕食をすませたばかりであったし、その夕食の充実した内容については改めていうまでもなかったが、だれも運ばれてきたご馳走にうきうきと手を出した。しかし、ペーペルコルン氏はすこし食べてからそのご馳走を「食わせもの」だといい、――支配者的な、はらはらさせる気まぐれな怒り方をしてきめつけた。いや、だれかがおそるおそるご馳走をかばおうとしたとき、ペーペルコルンは激怒して、魁偉な顔がふくれあがった。彼はテーブルの上を拳固でどすんと打ち、すべてをあさましい屑ばかりだときめつけたが、――彼はけっきょく施主で主人役であって、彼のふるまいのご馳走を批評する権利があったから、みんなは当惑した顔で黙りこんだ。

もっとも、彼の立腹は気まぐれな感じではあったが、彼にはそれがすばらしく似あい、ことにハンス・カストルプはそれをみとめないではいられなかった。その立腹はペーペルコルンを決して醜くも小さくも見せずに、気まぐれな感じのために、むしろ大きく、王者らしく感じさせ、それをブドウ酒の飲みすぎと結びつけて考えようなどとする大それた者はなく、だれも小さくなり、肉のご馳走を一口も食べようとしなくなった。ショーシャ夫人が旅のつれをなだめにかかった。彼女は、テーブルクロースの上を打ったままでそこにのせられていたがっしりした、船長そっくりの手をさすり、それではなにかほかのものを注文したらいかがと、ごきげんを取るようにいった。よろしかったら、そして、コック長がまだなにか調理してくれるといったら、なにか温かい料理を注文したらいかがと。「あんた」とペーペルコルンはいった、「――結構」。そして、彼はクラウディアの手に接吻し、激怒からきわめて自然に、威厳をすこしもそこなうことなく、平静にもどった。彼は自分とみんなのためにオムレツを取りたいといった、――人生の要求をみたすために各人に上等のオムレツを。その注文と一しょに調理場へ百フランの紙幣を持たせてやり、調理場の人々に時間外の仕事をしてもらう労をねぎらった。

カナリヤ色のオムレツが緑の野菜を点々とのぞかせ、卵とバターのふくやかな温かい匂いを湯気と一しょに室内に持ちこみながら、いく皿も運ばれてきたとき、ペーペルコルンのごきげんはすっかり直った。一同はペーペルコルンから、尻切れとんぼの言葉と暗示力に富む文化的な手ぶりで、神の賜ものをこころして、いや、こころをこめて賞味するようにと、食べ方を注文され監督されながら、彼と一しょに食べた。彼はオランダ産のジンを一まわりつがせて、ネズのほのかな香りと穀物の健康な香りがする透明なジンを、こころをこめて敬虔に賞味するようにとうながした。

ハンス・カストルプはタバコを吸った。ショーシャ夫人も、疾駆するトロイカの絵でかざられたロシア製のラックぬりのシガレットケースから吸口のついたシガレットを取りだして吸った、彼女はそのシガレットケースを取りやすいようにテーブルの上においていた。ペーペルコルンは、左右の二人がタバコの楽しみを味わうのを咎めようとしなかったが、彼自身はタバコを吸わなかったし、日ごろも吸ったことがなかった。彼の言葉から察しると、彼の考えではタバコを吸うことはすでに洗練されすぎた享楽の一つであり、タバコを常飲することは、生のもっとも素朴な賜もの、私たちが感情の全力をこめても十分に享楽しきれない生の賜ものと生の要求の尊さをそこなうことになる、というにあるらしかった。「若い方」、ペーペルコルンはうすい色の眼差と文化的な手ぶりとでハンス・カストルプ青年の注意を引きつけて、いった、「若い方、――素朴なもの! 神聖なもの! 結構、あなたは私のいうことがおわかりです。一瓶のブドウ酒、湯気の立つ卵料理、穀物の純粋なエキス、――私たちはこれをまず初めに生かし、味わいましょう、それを十分に汲みつくし、十二分に味わい、それから初めてーー。だんぜん、あなた。決着。私はさまざまな人間を知ってきました、男と女を、コカイン常用者、ハシーシ常用者、モルヒネ中毒者をーー。結構、あなた! 完全! かれらの好きなように! 私たちは裁くなかれです。しかし、それらに閃光させるべきもの、素朴なもの、偉大なもの、神の直接の賜ものにたいして、その人々はすべてーー。決着、あなた。有罪。唾棄。かれらはみんなそれをおろそかにしました! あなたはなんというお名前であっても、若い方、――結構、私はお名前を存じていましたが、そのをまた忘れてしまいました、――コカインそのもお、阿片そのもの、悪習そのものがいけないのではないのです。ゆるすべからざる罪、それはーー」(……)

「完全! すばらしい!」とペーペルコルンはさけんで、体を起こした。組みあわせてた両手は解かれ、はなれ合い、上げられ、ひろげられ、異教徒が祈るときのように手の平がそとへむけられた。ついいままでゴシック的な苦悩の色にみたされていた魁偉な顔は、豊満に明るくかがやき、みだらな笑窪までが頬にふいにあふれた。「時きたれり!」そして、彼はメニューをわたしてもらい、つまみが高く額にとどく角製のふちの鼻眼鏡をかけ、マム会社の「赤リボンのキワメテ辛口」のシャンペンを三本とパンケーキを注文した。この円錐形の小さなすばらしいケーキは、最高の品質のビスケットふうのもので、色をつけた砂糖が表面にかけられ、柔かいチョコレートとフシダシウ・クリームとがはいっていたが、それがレースで美しく縁どった紙ナプキンにのせて持ってこられた。シュテール夫人はそれを食べながら指を一本一本なめた。(……)ペーペルコルンは、爪が槍のように尖っている手で文化的な手ぶりをしてバッカス祭をリードし、酒食の供給と補給にこころをくばった。彼はシャンペンのあとに濃いモッカコーヒーを注文したが、そのコーヒーも「パン」つづきであり、また、婦人たちのためには、アンズ・ブランデー、シャルトルーズ、クレーム・ドゥ・バニーユ、マラスキーノなどの甘口のリキュールが運ばれた。あとで魚肉の酢づけとビールも注文され、ようやく茶になって、緑茶とカミツレ茶が持ってこられたが、これは、シャンペンやリキュールを飲みつづけることを、そしてまた、ペーペルコルンにならった強いブドウ酒に戻ることを断念した人々のためであった。ペーペルコルンのブドウ酒の遍歴は、十二時をまわってからショーシャ夫人とハンス・カストルプとを相手に泡だつ種類のおだやかなスイス産の赤ブドウ酒を飲むところまできていて、彼はそのスイス産のブトウ酒を、ほんとうに渇しているように一杯、また一杯と喉へ流しこんだ。……