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2015年12月23日水曜日

アメリカ憲法? コミュニストが作ったんだろ

以下、ジジェク、2012をまずは私訳して掲げる。「人権語りのふたつの誤り」とでも題することができる断章である。

人権の話題を扱うとき、イデオロギー批判は二つの(逆方向の)間違いを犯しがちだ。最初の方ははっきりしている。ある領野の症状=徴候的点(過剰、自己批判、対立)は、必然的に生じるものではなく、単なるアクシデント、経験的不完全さに還元されてしまう。普遍的人権概念は、実際のところは特定の文化的価値の限定された一組(ヨーロッパの個人主義など)を特権化する。その意味は、それらの普遍性はまがい物である。

しかしながら、逆方向の間違いもある。全ての領野はその症状=徴候へ崩壊されてしまうというものだ。ーー「ブルジョア的」自由と平等は、直にかつまた唯一の資本家イデオロギーの仮面、支配と搾取の仮装であり、「普遍的人権」は、直にかつまた唯一の、帝国主義的植民地主義者の介入を正当化する手段だ等々。

最初の間違いは、イデオロギー批評の常道の部分であるが、二番目の間違いは、ふつう等閑視されておりいっそう危険だ。「形式的自由」の正統マルクス主義の批評概念は、はるかに洗練されたものだ。そう、「ブルジョア的自由」はたんに形式的なものだ。しかしそれ自体として、実際の自由の顕れの唯一の形式(あるいは潜在的な場)である。要するに、人が「形式的」自由を早まって廃止してしまえば、実際の自由(の可能性)まで失ってしまう。あるいはもっと実践的にいえば、そのまさに抽象性のなかに、形式的自由は実際の不自由を不明瞭にするだけでなく、同時に実際の不自由の批評的分析の空間を開くのだ。

さらに状況を複雑化することは、世界資本主義における空白の空間の増加は、それ自体がまた、資本主義はもはや自由と民主主義の普遍的市民秩序を許容しないことの証拠であることだ。資本主義はますます排除と支配を求めている。中国の天安門事件の弾圧はここでは典型的である。野蛮な軍事介入によって制圧されたものは、自由民主的な資本家秩序への素速い入場の見通しではなく、より民主的でより正義の社会の純粋にユートピア的可能性だった。

1990年以降の野蛮な資本主義の爆発は、非民主主義の「党」のルールの再強調と手に手を取り合って進んだ。思い起こそう、初期の近代イギリスの古典的マルクス主義者のテーゼを。すなわち、政治権力を貴族制に委ねたのはブルジョア自身の利害であり、自身の経済的権力を保つためだった。たぶん似たようなことが今日の中国でも起こっている。新興の資本主義者の利害において、政治権力を共産党に委ねているのだ。(ジジェク、LESS THAN NOTHING、私訳)

ーーこの文は、かなり以前に読んで、どこかで似たような話を読んだ覚えがあるな、と思いつつ、ほうってあった。昨晩たまたま柄谷行人の「形式的民主主義」をめぐる語りに遭遇したので、ここに並べて備忘録としておく。

討論「ポストコロニアルの思想とは何か」(鵜飼哲・酒井直樹・鄭暎恵・冨山一郎・村井紀・柄谷行人ーー『批評空間』Ⅱ 11-1996)からである。

柄谷)……ブルジョワ革命は単純にいうと、自由・平等・友愛というスローガンに集約されるけれども、革命後のブルジョワジーは平等をたんに形式的にとどめて、それ以上はやらなかった。そこで、内容的な「平等」を実現すべく社会主義が現われる。しかし、これは、初期マルクスの場合でも、ブルジョワ革命の徹底化として考えられていたことを忘れてはならない。産業資本主義が興っても、ブルジョワ革命的なものがほとんど実現されていない国はたくさんあったわけです。そういうところで「社会主義」が実行されれば、「自由」がないどころか、「平等」までなくなる。つまり、ブルジョワ的なものをたんに否定してしまえば、それ以前よりひどいものになってしまう。

ブルジョワ革命、あるいはブルジョワ的思想は、具体的なブルジョワジーとは違います。ただ、それはきわめて形式的なものです。たとえば、ブルジョワ的思想家として、ぼくはカントを考えていますが、彼のいう実践理性はまったく形式的です。だから、ヘーゲルはカントの思考が形式的であり、内容をもたないことを批判した。しかし、内容をもたないからこそ、この形式はいつも革命的なものとなりうるのです。逆に、ヘーゲルは保守的になってしまう。つまり、国家や民族などといった内容が支配的になる。

たとえば、「人間は平等である」ということは形式的です。その中に、具体的な内容はない。しかし、六〇年代のアメリカの市民権運動のころに行われた世論調査で、合州国憲法を市民に見せて回って、調査員が誰がこれを書いたと思うかと尋ねたところ、コミュニストだろうと言った人が多かったらしい(笑)。この憲法を書いた連中は、その時点では、「人間」の中に黒人をいれていなかったはずです。しかし、それが形式的であるために、どのような内容をももちうるのです。要するに、ブルジョワ的憲法を本気で徹底化したらどうなるか。人種差別などありえない。男女差別ありえない。同性愛者差別なんてありえない。現在の運動は、まさに人間の自由・平等という「形式」の具体化であり、またこの「形式」を徹底的に活用するほかないと思います。(……)

……この間、衛星放送でアメリカの大統領候補ドールの演説を聞いていたら、アメリカは偉大だとしゃべっているんですけど、何が偉大かというと、われわれはもともとみんなよそから来たにもかかわらず、アメリカはわれわれを市民として受け入れているからだ、その意味において世界に例のない偉大な国だと言っている。彼は、ナショナリズムをいうとこに、民族の伝統とかいうことはいわない。社会契約を実行しているのはわれわれだけだという。もちろん、それは形式であって、「契約」してみたところ、実際はスラム街に住むということになる(笑)。内容は伴なっていない。にもかかわらず、われわれは社会契約としてのネーションなのだということを誇る。フランス人もそう思っていると思う。