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2015年12月22日火曜日

文学の中心のありか

やはり文学を志す人間がすべて小説家たらんというのは、はっきりいって、おかしいわけよ。中心はどこかにあるはずだ。(「群像」2004年8月号平出隆対談)

とツイッターの古井由吉botで拾って、素朴に問いを発するとすれば、「文学」ってのはいったいなんなのだろうね、このbot を遡ると古井由吉はいろんなことを言っているのだが、たとえばこうある。

文学の中心は芝居と法なのかもしれないね。宗教、哲学、政治も含んだ広い意味の法。そのわきで活躍するのが小説とか。詩は、本来芝居の一部だったわけですね。芝居から独立して、ちぎれていった部分が詩なんです。(「群像」2004年8月号平出隆対談)

・これも不幸というか宿命なんですけれども、近代及び現代の作家が小説を書くとき、ただの物語にならないんですよ。どうしても認識論が伴うんです。これで人は苦労している。だから、小説が小説にならないともいえる。(「群像」2004年8月号平出隆対談)

認識論などという言葉も出てくる。

・でも、認識論含みじゃないと、やっぱり読者には読めないんじゃないかという気がするんですね。もちろん、認識論に社会全体として定まったものがあったら、殊さらやる必要はないわけで、それは本来小説の舞台となるはずです。(「群像」2004年8月号平出隆対談)

あるいはごく最近の大江健三郎との対談でも、こうある。

自分のことは自分が一番よく知っている、というのが私小説の出発点でしょう? しかし、自分のことこそ自分でわからない、ということもある。さらに、書き表す自分と、書き表される自分との分離。これを突き詰めると、難しい認識論、自己認識論に至ります。(「新潮」2015年10月号大江健三郎対談)

「書き表す自分と、書き表される自分との分離」というのは、哲学的にいえば「超越論的」にかかわってくるだろうし、精神分析的には「言表行為と言表内容の分離」にかかわってくる。

だがここではあまりややこしいことをいわずに、小説家古井由吉のまだ若い頃の名高い作品(のとても魅力的な箇所)と、精神科医の中井久夫のエッセイの一部を並べてみよう。わたくしにはどちらが魅力的だとも言いがたいし、どちらが「文学的」だともいいがたい。すくなくとも古井由吉と同様に、中井久夫は現代でも活躍する最もすぐれた「文学者」のひとりだとわたくしは思っている。

片隅に電話台の置いてある真四角の踊り場から向きを変えて階段を昇っていくと、杳子の姉の一家の住まう階下の雰囲気からいきなり隔てられて、彼はふと場所の意識を眩まされ、まるで初めて来た家ではなくて勝手を知った家の、幾度となく通いなれた階段をたどっているような気がした。階段を昇りきったところで左手の扉をゆっくり明けると、薄暗がりの中から、階下よりも濃密なにおいが彼の顔を柔かくなぜた。かなり広い洋間の、両側の窓が厚地のカーテンに覆われ、その一方のカーテンが三分の一ほど引かれて白いレースを透して曇り日の光を暗がりに流していた。その薄明かりのひろがりの縁で、杳子はこちらに横顔を向けてテーブルに頬杖をついていた。白っぽい寝間着姿だった。その上から赤いカーディガンを肩に羽織っている。戸口に立つ彼の気配を感じると、杳子は頭を掌の中に埋めたまま、彼のほうを向いて笑った。湯から上がりたてのような、ふっくらと白い顔だった。

「どうしたの」という言葉が二人の口から同時に洩れた。だがどちらも答えを求める気はすこしもなく、いつもの続きのように自然にテーブルに向かいあって坐り、目だけを動かして、お互いの軀を物珍しげに眺めあった。

テーブルからすこし遠めに置いた椅子に杳子は尻をあずけるようにのせ、腰から上をぬうっと前へ伸ばして、テーブルに肘だけでもたれかかっていた。いつだか病気の頃の姉について彼女の語ったとおりの恰好だった。しかし杳子の軀は固さに苦しんでいる様子も、重さに苦しんでいる様子もなく、どことなく自足した感じで重みを椅子とテーブルに分けていた。水色のネグリジェがたしかに薄汚れている。薄い布地が軀の円みにびったりとついた肌着を透かしていたが、その肌気も純白ではなかった。ゆったり開いた襟からのぞく肌も、気のせいか、いつもより濃く濁った光を漂わせている。だが不潔な感じも、淫らな感じもなく、杳子にも彼にも馴れ親しんだ穏和しい動物を、二人して眺めているような気持だった。

「大変な恰好じゃないか」
「このままで待っているって、ゆうべ、言ったでしょう」
「いつから、そんな恰好をしてるんだい」
「寝間着を脱がなくなってから、今日で三日目。肌とキレの温かさがすっかりひとつに馴染んで、いい気持ちよ」
「汚い子だなあ。臭ってくるよ」

そう言って彼は薄暗い空気を胸いっぱいに吸いこんで見せた。たしかにたえず沁み出る体液の、無恥なにおいがかすかにこもっていたが、それも段々に鼻に馴染んで円みを帯びていった。いかにも人がここにこもっているというにおいだな、と彼は素朴な感慨を抱いた。杳子もネグリじゃの胸をふくらまして、ゆっくり息を吐きながら、物憂げに目を細めて笑った。あっさり彼は秘密を売り渡してしまった。

「姉さんが、病院に行くように君を説得してくれって言ってたよ」
「あなたが行けって言えば、今すぐにでも行くわよ」
「病院に行ってどうなるの」
「健康になるよ」
「健康になるって、どういうこと」
「まわりの人を安心させるっていうことよ」

投げやりというよりも、病気と和んで、こうしてこのままでもいられると確めた満足感の中で、あとは家族の心配のことも考えて、成行きを待っているという風だった。五日前から杳子が昔の姉のように風呂に入ろうとしなくなったわけが、彼にはわかる気がした。(……)杳子は彼の顔を見つめて、しばらく掌の中で首をかしげていたが、それから頬杖をゆっくり倒して唇を近づけてきた。唇を触れ合っていると、暗がりに閉じこめられた子供の、汗と涙の混ったにおいがじかに伝わってきた。目を細く開くと、依怙地さを失った肌に、毛穴がひとつひとつ開いていた。(……)

その時、階段から杳子の姉の上がってくる足音がした。彼は杳子から顔を離そうとした。すると杳子は逆に顔を近づけてきて、唇を触れながら目を大きく見開いて足音に耳を傾けていた。それから彼女は唇を彼の耳もとにまわして、「あの人のすることを、細かく見ててちょうだい」とささやき、顔を引いてもとの頬杖にもどった。(……)姉が敷居をまたいで二、三歩を運んだとき、彼はその足どりの、妙にこちらの神経を疲れさせる固さに、目を惹きつけられた。(……)

やがて規則正しい足音が階段をゆっくり沈んでゆき、彼はほっとした気持で軀をテーブルのほうにもどして腰をおろした。見ると、いつのまにか杳子は右手にスプーンを短刀のように握りしめて、物狂わしい目つきをしていた。(古井由吉『杳子』)

…………

往診して初めて解けた初歩的な謎がいくつもあった。たとえば、ある少女が、十年来、まったく眠れないと訴えつづけていた。また、傍らに魔女がいるとも。私は、外来でその謎が解けないまま、何年も診てから、友人に後を頼んで転勤した。しかし、二度目の転勤先に頻繁にかかってきた電話は、現主治医とともに往診することを私に決心させた。それは患者の希望でもあったが、私の心の中に謎を解きたいという気持ちが動いてのことだったのも否めない。

市営住宅の一つに少女の家はあった。父は去り、母と二人住まいであった。少女は白皙といってよい容貌に、二十歳を過ぎているとは思えないあどけなさを残していた。十歳にならないこと、まず母の診察に伴って私の前に現れ、次いで診療の主役となった当時の面影はほとんそそのままであったが、十年の閉じこもりが、そのうえに重なっていなかったわけではない。旧知の母は私を歓迎した。私たちは道に迷い、夜になっていた。豪雨であった。

十年の全不眠はありにくく、まして体重が減少しないでそうであるということはまずありえない。質問に応じて少女は頭痛と眼痛と脚の痛みとを訴えた。私は、脈をとった。一分間に一二〇であった。速脈である。これは服用中の抗精神病薬いよるものかもしれなかった。しかし、彼女はまったく気づいていない。私は舌を診た。ありえないほどの虚証であった。長年の病いは、「雨裂」と地理学でいう、雨に侵食された山の裸のような甚だしい裂け目を舌の実質に作り、舌の厚さは薄く、色も淡かった。それにしても脈は細く数が多い。私は脈を取りつづけた。少女は静かにしていた。私は、椅子にすわっている少女の前の床に座って、もう一方の手を足の裏にそっと当て、そのままじっとしていようとした。

なぜ足の裏かといえば、身体のもっと上部にふれることは危険があり、実際、少女は必ず不快を訴えるだろうからである。足の裏には重要なセンサーが集中していて、だから人間は二足歩行ができ、さらに一本足で立つこともできる。なぜ床にすわったか。私は少女をすこし仰ぐ位置にいたかった。それは私の臨床眼であった。私は彼女に強制しているのではないことを態度で示したかった。

時間がたっていった。母親が話しかけようとするたびに私は指を口唇にあてて制止した。私はこの家の静寂を維持しようとした。私は、ここまできたら、何かがわかり、少女が眠るまでは家を動かない決意をしていた。じっと脈をとっていると、私の脈も次第に高まってきた。身体水準での「チューニング・イン」が起こりつつあった。この能力に私は恵まれているが、それは両刃のやいぱであって、しばしば、私はこの状態からの脱出に苦労してきた。ついに彼女の脈と私の脈は同期してしまい、私の脈も一分間一二〇に達した。しかも、ふだん六〇である脈が倍になれば、ふつうならば坂道を登る時のような息切れがあるのに、今の私には、まったく何の苦痛もなかった。逆に時間の流れがゆっくりになった。眼前の時計の歩みの速さがちょうど半分になった。すべてが高速度写真のようにゆっくりし、すべての感覚が開かれ、意識が明晰になった。これはおそらく少女が日々体験しているものに他ならないものであった。何の苦痛もないことが奇妙であった。ふと私は身の危険を感じた。五十歳代の半ばに近づいており、循環器系を侵す病気を持っているーー。

感覚の鋭敏さの中で、私はガシャガシャガシャという轟音を聞いた。その轟音の音源はすぐわかった。母親が食事を作っている音である。力いっぱいフライパンを上下しているのだ。ついで鍋の中をかきまわす音。この音のつらさは、静寂の中で突然起こり、ほとんど最大限に達して、突然消えることであった。その耐えがたさは、静かな瀬戸内の島に橋がかかり、特急列車が通過する時に島の人が耐えられないと感じる、その理由と同じものである。それは、音の大きさの絶対値だけではない。それもあるが、さらに苦痛なのは絶対に近い静寂が突如やぶられる突発性である。静かな場に調整されている耳は、騒音に慣れている耳とは違う。そもそも、聴覚は視覚よりも警戒のために発達し、そのために使用され、微かな差異、数学的に不完全を承知で「微分回路的な」(実際には差分的というほうが当っているだろう)という認知に当っている。声の微細な個人差を何十年たっても再認し、声の主を当てるのが聴覚である。この微分回路は「突変入力」に弱いのである。ゼロからいきなり立ち上がる入力、あるいは突然ゼロになる入力のことである。その苦痛であった。

いま私は少女の状態に一時的に近づいている。私が耐えがたい轟音として聞いている、この台所仕事の音は、長年これを聞いている少女にはさらに耐えがたいであろう。突変入力がはいるたびに、少女の微分回路は混乱するにちがいなかった。「家にいる目に見えない悪魔」とは「突変入力」によるこの惑乱ではないかと私は仮定した。母親の側には突然最大限の力を出すという特性があり、少女には慣れが生じにくいという特性があるのあろう。それは不幸な組み合わせであるが、生活の他の面にも浸透しているにちがいなかった。

私は突然気づいた。眼前の掛け時計の秒針の音が毎分一二〇であることに。ひょっとすると、少女の脈拍は時計に同期しているのかもしれない。私はよじ登って時計をとめた。私は一家にしばらくこの掛け時計なしで過してもらうことに決めて、時計を下駄箱の中に隠した。

仮説は当たっていた。彼女の脈拍はしだいにゆっくりとなった。私の脈も共にゆるやかになった。母親は、別の部屋で主治医が相手になっていてくれるらしかった。

私は、あらためて思った。ある種の患者は、そのまったき受動性において、あらゆる外界からの刺激を粘土が刻印を受け取るように受け取るーー少なくともそういう時期があるということを私は指摘したことがある。私は、少女が時計の音にも脈が同期してしまう、まったき受動性において日常外部あるいは内部に発生する入力を処理している、いやむしろ一方的に受け入れているのではないかという仮説を立てた。解決方法は、入力の制限か、入力に耐えられるように少女に変わってもらうことだ。しかし、それは大変な問題である。差し当たって、少女が眠れれば、少なくとも、好ましいほうに何かが変わる可能性がある。母親にも本人にもある希望が、かすかにせよ、起こるかもしれない。

私の指圧は、この場合のとっさの行為である。このような未知数の多い状況においては、他の選択肢はすべて危険をはらんでいた。頭の指圧など、それだけで少女に破壊的であり、抗精神病薬なら、これまでに少女が大量に服用していないものはなく、いまさら処方するものはなかった。そして、それはそもそも主治医の問題であった。私は足の裏への軽い接触を続けた。この少女の病んできた膨大な時間の塊りの前で、それはほとんど無にひとしいが、ほかに方法は思いつかなかった。ことばも無力であった。「おりこうさん」的な返事しか返ってこないことを私は十二分に経験していた。

医学とは別に私は指圧を少しはできないではない。私の大叔父の一人は、若いころは放蕩者だったというが、私の知る晩年は、村外れの小さな家で、村人に灸を据え、指圧し、愚痴を聴く、一種の「お助けじいさん」であった。その老人のの何かを私は受け継いでいるのかもしれなかった。しかし、鍼灸指圧の職業人ではない私は、通常一人か二人でへとへとになるので、ふだん患者の指圧はしないようにしている。後の患者を診る力がぐっと減るのである。

一時間半後、頭痛は去り少女は眠気を訴えた。いい眠けか、いやーな眠けかと私は問うた。いい眠けであった。私は「隣りの自分の部屋に行ってもいいよ」といった。少女はそっと部屋に滑り込んだ。頭痛などは筋緊張のせいであり、少女の筋緊張がゆるむのを先ほどから私は彼女の足の裏に感じていた。

ここで当然、母親が世話をやこうとした。当然といえば当然の行為であるが、私は、母親のいつもながらの、声帯をいっぱいに緊張させた声でこの一幕を台無しにしたくなかった。思いついたのは、釈迦が自分の出身部族を攻撃に来る王の軍隊の踵を二度めぐらせた、その方法である。私は、その部屋のまえで座禅を組んだ。われながら三文芝居と思ったが他に方法はあっただろうか。「悟り」を求めようとさえしなければ、まあ無念無想というのであろう状態に入ることはむつかしくない。外からみれば周囲の事物あるいは風景の一部になってしまうこととなろう。母親はさすがにたじろいだ。二十分も経ったろうか。隣室から寝息が聞えてきた。とにかく私は何かを達成したのだ。

しかし、問題は、よい残留効果を残しつつどのようにしてこの一幕を閉ざすかであった。私は、母親に、今日は少女を食事に起こさず、このまま眠らせて、明日も起こさないことを頼んだ。実際どれほど大量の眠りが溜まっていたことだろう。そして、掛け時計をしまったKとおを告げ、私の腕時計をとっさに渡してしばらくこれでやってほしいといった。母親は頷いた。そして、隣室に盛大に用意されている食事に誘った。

私は迷った。彼女は福祉の保護を受けている身である。せいいっぱいの献立であった。しかし、私の目的は母親ではなかった。母親とは当人である少女以上にここで親しくなってはならなかった。動きたく、世話をやきたい彼女を抑えて少女を眠らせつづけることに私はエネルギーを使いつつあった。食事は、当然、私の緊張をほぐし、母親とのいささか馴れ合いを含んだ関係を作るだろう。しかし、いただかなければ、母親がこの食事を捨てる時の気持ちは、索漠とした、受容されなかったという感情となるにちがいない。それは少女にどうはね返るだろうか。

結局、私は、合掌して真ん中のごちそうに象徴的に箸をつけた。そうして合掌したまま、後ろずさりに家を出た。主治医がいくばくかのことばを交して私の後を追った。

閉じ方がこうであってよかったのか、今も思い返すが、結論はまだ揺れている。私は、ある漢方薬を医師に勧めた。主治医にどう見えたかを聞くと「何か芝居がかったことをしていたとしかわからない」といい「しかし、あの家で静寂が二時間あったということはなかったでしょう。二時間の状況をあそこにつくり出したということですね」と答えた。

私はまだまだいろいろなことを語ることができるだろう。しかし、もはや語るには、私の内心の抵抗が大きすぎる。私が経験したことをすべて語るならば、それは、さすがに憚って、かつて公刊されたことのない、精神分析のほんとうの生の記録を公開するに等しいことになるだろう。むろん、その際に私の中で起こっていたこと、私のその都度その都度の仮説とその修正とを詳細に述べなければ、事態は、半面しか見えず、フェアでなく、また読む者を誤った方向に連れてゆくであろう。

ここで、精神分析においては詳細な記録とされるものが、往診においては単なるフィールド・ノート程度であることに注意していただきたい。個人は、抵抗のすえに初めて無意識の秘密をいくらか明らかにするが、家族、少なくとも危機にある家族への往診は、一挙に家族の意識を越えた深淵を明らかにする。しばしば、それは「見えすぎる」のである。(中井久夫「家族の深淵」)