2016年3月16日水曜日

死んだ子どもをクローンにすることの不気味さ

標準的な哲学の観察において、我々は現象を知ることと、現象を認める・受け入れる・存在するものとして取り扱うとのあいだの区別をすべきだというものがある。ーー我々は「本当には知らない」、我々の周りの他の人々たちが、心を持っているのか、たんにやみくもに行動するようプログラムされたロボットなのかを、と。

しかしながら、この観察は核心を外している。すなわち、もし、私が対話者の心を「ほんとうに知っている」なら、間主体性そのものが消滅する。相手は主体的地位を失い、代わりに、私にとって、透明な機械となる。

言い換えれば、他者に知られていないということは、主体性ーー我々が「心」を相手に帰したときに意味することーーの決定的特質である。すなわち、あなたが「ほんとうに心を持っている」のは、それが、私はにとって不透明な限りである。

とはいえたぶん、我々は古き良きヘーゲル-マルクスの話ーー私の最も内密な主体的経験の徹底した間主体的な特徴の話題ーーを復活させるべきだ。

ゾンビ仮説が間違っているのは、他の人々すべてが、ゾンビであるならば(より正確に言えば、彼らをゾンビとして感知するなら)、私は自分自身を十全な現象学的意識を持っていると感知しえないことだ。
…クローンの不気味さ…よく知られた事例を取り上げよう。愛する唯一の子どもが死んで、両親は彼をクローンすることに決めた。そして彼を取り戻す。結果はゾッとするものであるのは明らかではないだろうか?

新しい子どもは、死んだ子どもの全ての属性を持っている。しかし、この同一性自体が、差異をいっそう明白にするーーまったく同じに見えるにもかかわらず、彼は同じでない。だから、彼は残酷なジョーク、恐るべき詐欺師だーー。失われた息子ではない。そうではなく、冒瀆的なコピーなのだ。彼の現前は、私にマルクス兄弟の古いジョークを想起させないではいられない。《あなたのすべては、私にあなたを思い出させる--、あなたの目、あなたの耳、あなたの口、あなたの唇、あなたの手と足……すべてだ、あなた自身以外の!》(ジジェク、パララックス・ヴュー、2006、私訳)


ところで、手に入れらねなかった、ひどく惚れた女をクローンできるとしよう。そのときも冒瀆的なコピーの印象を生むのだろうか、《あなたのすべては、私にあなたを思い出させる--、あなたの目、あなたの耳、あなたの口、あなたの唇、あなたの手と足……すべてだ、あなた自身以外の!》と(これはマルクス兄弟によるほとんどラカンの対象aの定義だ)。

しばらく考えてみたが、手に入れられるという思い自体が、わたくしの惚れ度のひどい凋落を生み、想到できない。

どんなに惚れた女も
手に入ると
手に入ったというそのことで
ほんの少しうんざりするな


さて、〈あなたがた〉はどうだろうか。

得ようとして、得た後の女ほど情無いものはない。(永井荷風『歓楽』)

スワンのオデットへの愛、主人公のアルベルチーヌへの愛、反復される山間の農家の牛乳売りの娘への夢想…。プルーストが繰り返し書いたのは、「愛する理由は、愛の対象となっているひとの中には決して存在しないこと」だった。

若い娘たちの若い人妻たちの、みんなそれぞれにちがった顔、それらがわれわれにますます魅力を増し、もう一度めぐりあいたいという狂おしい欲望をつのらせるのは、それらが最後のどたん場でするりと身をかわしたからでしかない、といった場合が、われわれの回想のなかに、さらにはわれわれの忘却のなかに、いかに多いことだろう。(プルースト『ゲルマントのほう 二』)