2016年3月14日月曜日

他者への寛容の起源:先ず滑稽な自分自身を認めること

ラカンの「嫉妬深い夫」の話で始まり、次のような文にて、難民・移民問題を語っている最近の記事、ジジェクの What our fear of refugees says about Europe,29 FEBRUARY 2016だが、ジジェクによってくり返される論理でもある。

現在の世界資本主義に固有の問題の原因は、外部の侵入者に投影される。疑い深い眼差しは、常にそれが見い出したいものを見い出す。「証拠」はどこにでもある。

この文章自体、ヘーゲルの反復である。

「悪は、まわりじゅうに悪を見出す眼差しそのものの中にある」というヘーゲルの言明をふたたび言い換えるならば、〈他者〉に対する不寛容は、不寛容で侵入的な〈他者〉をまわりじゅうに見出す眼差しの中にある。(ジジェク『ラカンはこう読め』)

だが、くり返されるのは、決して悪いことではない。我々は、いくらこの考え方が正しいと受け止めていても、日常ついうっかり忘れてしまうからだ。

「嫉妬深い夫」の話は、以前訳出したものからーーつまりこの記事から直接ではなくーー抜き出しておこう。

ここで、ふたたび思い起こしておこう、ラカンの思いがけない言明を。すなわち、嫉妬深い夫が彼の妻について言い張るーー彼女はそこらじゅうの男と寝るーー、それが真実だとしても、 彼の嫉妬はいまだ病理的 pathological である、と。

この同じ線で言いうるだろう、ユダヤ人についてのナチの主張のほとんどがかりに真実だったとしてもーーユダヤ人はドイツ人を食いものにする、ドイツ人の少女を誘惑する…ーー、彼らの反ユダヤ主義はいまだ病理的だ、と。というのは、それは本当の理由を抑圧しているからだ、その理由とは、ナチスは 「なぜ」反ユダヤ主義が「必要だったのか」にかかわる。それは、ナチスのイデオロギー的ポジションを維持するためである。

だから、反ユダヤ主義の場合、ユダヤ人が「実際にどのようであるか」についての知はまや かしであり見当ちがいである。他方、真理の場にある唯一の知は、なぜナチは彼らのイデ オロギー的体系を支えるためにユダヤ人の形象が「必要か」についての知である。

「イスラム原理主義」についての西側諸国の主張の殆どが仮に真実だったとしてもーーイスラム原理主義のテロは我々の最大の脅威だ、一般大衆をターゲットにした振舞いはなによりも許しがたい等々ーー、西側諸国の反イスラムはいまだ病理的だ。というのは、それは本当の理由を抑圧しているからだ。その理由とは、米国あるいは仏国などが「なぜこの今」反ISが「必要か」にかかわる。それは、(まずは)米国にとってはイラク攻撃がIS出現の条件を作ったを忘れたいためであり、仏国にとってはオランドの9月シリア空爆がパリテロを生んだことを忘れたいためだ。

だから、反イスラム原理主義の場合、イスラム原理主義者が「実際にどのようであるか」についての知はまやかしであり見当ちがいである。他方、真理の場にある唯一の知は、なぜ欧米諸国は彼らのイデオロギー的体系を支えるためにーーすなわち、非イデオロギー的イデオロギー「新自由主義」、「世界資本主義」あるいは「新しい形態の植民主義=新帝国主義」を支えるために ーー イスラム原理主義の形象が必要か(その形象のもとに「連帯」したいのか)についての知である。

ーーこの訳文は最近の記事からだが、はてどの記事かからは今思い出せない。そのうち見いだしたら出典を追加するが、今はその手間をはぶく(どうもメモの管理が悪い)。

いずれにせよ、この論理でいくと、我々が安倍政権を嘲罵するときでも、そして実際に現在の自民党政権がとんでもない政権であることが「真実」だとしても、我々は病理的であることになる。仮にそうであれば、ではさて、どうしたものか。

2015年のパリ襲撃事件直後のジジェクの文の結論には、こう記されている。

マックス・ホルクハイマーが1930年代にすでにファシズムと資本主義に対して言っていたこと、つまり資本主義を批判的に捉えようとしない者は、ファシズムに対しても口を閉ざすべきだという説は、現在の原理主義にも当てはまる。リベラルな民主主義を批判的に捉えようとしない者は、宗教的原理主義に対しても黙っているべきだ。(ジジェク、活力に欠けたリベラリズムと宗教原理主義者との戦いを終わりにすることができるのはただ一つ、過激派左翼だけ

結局、現在の資本主義や新自由主義とは、市場「原理」主義である。なぜ宗教の原理主義だけを批判して、我々の最も身近の「原理主義」を批判しないのか。

90年以降の「市場原理主義」の時代の標語は、生産性、競争性、革新、成長、アウトプット、プレゼンテーション等々だろう。これら「経済のディスクール」が席捲する時代は、「エゴイズム・他者蹴落し性向・攻撃性」という人間のタナトス的性格が支配する時代、すなわち弱肉強食の社会ダーウィニズムの時代である、《事実、勝ち組・負け組、自己責任といった言葉が臆面もなく使われたのだから》(柄谷行人)、《今、市場原理主義がむきだしの素顔を見せ、「勝ち組」「負け組」という言葉が羞かしげもなく語られる時である》(中井久夫)。(参照:ラカン派による「現在の極右主義・原理主義への回帰」解釈


…………

前置き?が長くなったが、冒頭に触れた最新記事「What our fear of refugees says about Europe,29 FEBRUARY 2016」から、いささか別の角度からの話をすこしだけ抜き出して粗訳しておく。

(デカルトにとって)外国人の習慣や信念は、彼に滑稽で奇矯に見えた。だがそれは、彼が自問するまでだ、我々の習慣や信念も、彼らに同じように見えるのではないか、と。この逆転の成り行きは、文化相対主義に一般化され得ない。そこで言われていることは、もっと根源的なことだ。すなわち、我々は己れを奇矯だと経験することを学ばなければならない。我々の習慣はひどく風変わりで、根拠のないものだ、ということを。

文化固有の「生活様式」とは、ただたんに、一連の抽象的なーーキリスト教、イスラム教ーーの「価値」で構成されているのではない。そうではなく、日常の振る舞いのぶ厚いネットワークのなかに具現化されている。我々「それ自身」が生活様式だ。それは、我々の第二の特性である。この理由で、直接的「教育」では、それを変えることはできない。何かはるかにラディカルなことが必要なのだ。ブレヒトの「異化」のようなもの、深い実存的経験、我々の慣習や儀式が何と馬鹿げて無意味であり根拠のないものであるかということに、唐突に衝撃を受けるような。…

大切なことは、異人のなかに我々自身を認知することじゃない。我々自身のなかに異人を認めることだ。寛容という言葉が意味をもつなら、そこから始まる。(ジジェク,2016.2.19)

《大切なことは、異人のなかに我々自身を認知することじゃない。我々自身のなかに異人を認めることだ》とある。

これは、たとえば極東の島国の地方にひきこもっていればなかなか気づかないかもしれないが、やはり「共感の共同体」の囚人である日本人という種族も奇妙な「種族」である。

公的というより私的、言語的(シンボリック)というより前言語的(イマジナリー)、父権的というより母性的なレヴェルで構成される共感の共同体。......それ はむしろ、われわれを柔らかく、しかし抗しがたい力で束縛する不可視の牢獄と化している。(浅田彰「むずかしい批評」1988 )

いわゆる「事を荒立てる」かわりに、「『仲良し同士』の慰安感を維持することが全てに優先している」種族である。この共同体が機能している限り、ジャーナリズムは流通せず、「感傷的な被害者への共感」の記事に埋もれてしまう(参照)。

この同じコインの裏側の心性により、ムラ八分的な「陰湿ないじめ」が起るとしてよいのではないか。

日本文化に内在するいじめのパターン……。戦時中のいじめーー新兵いじめをさらに遡れば、御殿女中いじめがある。現在でも新人いじめがあり、小役人の市民いじめがあり、孤立した個人にたいする庶民大衆のいじめがある。医師の社会にもあり、教師の社会にもあるだろう。ねちねちと意地悪く、しつこく、些細なことをとらえ、それを拡大して本質的に悪い(ダメな)者ときめつけ、徒党をくんでいっそうの孤立を図る。完全に無力化すれば、限度のないなぶり、いたぶりに至る。連合赤軍の物語で私を最もうんざりさせたのは、戦時中の新兵いじめ、疎開学童いじめと全く同じパターンだったことである。(中井久夫。精神科医からみた子どもの問題)

今わたくしの住んでいる国のバイクタクシーのおにいさんにかつてきいたことがある、「韓国や中国の女性旅行者と日本女性をどうやって見分けるんだい?」と。

すると即座に次ぎの返答が返ってきた、「簡単さ、首を大きく縦に振って頷き合っているのが日本人だよ」と。

…………

デカルトの『方法序説』からも抜き出しておく。

さて私が他の人々の行動を観察するのみであった間は、私に確信を与えてくれるものをほとんど見いださず、かつて哲学者たちの意見の間に認めたのとほとんど同じ程度の多様性をそこに認めたことは事実である。したがって、私が人々の行動の観察から得た最大の利益といえば、多くのことがわれわれにとってはきわめて奇矯で滑稽に思われるにもかかわらず、やはりほかの国々の人によって一般に受けいれられ是認されているのを見て、私が先例と習慣とによってのみ確信するに至ったことがらを、あまりに固く信ずべきではない、と知ったことであった。かくて私は、われわれの自然の光(理性)を曇らせ、理性に耳を傾ける能力を減ずるおそれのある、多くの誤りから、少しずつ解放されていったのである。しかしながら、このように世間という書物を研究し、いくらかの経験を獲得しようとつとめて数年を費した後、ある日私は、自分自身をも研究しよう、そして私のとるべき途を選ぶために私の精神の全力を用いよう、と決心した。そしてこのことを、私は、私の祖国を離れ私の書物を離れたおかげで、それらから離れずにいたとした場合よりも、はるかによく果たしえた、と思われる。
またその後旅に出て、われわれの考えとは全く反対な考えをもつ人々も、だからといって、みな野蛮で粗野なのではなく、それらの人々の多くは、われわれと同じくらいに或いはわれわれ以上に、理性を用いているのだ、ということを認めた。そして同じ精神をもつ同じ人間が、幼時からフランス人またはドイツ人の間で育てられるとき、かりにずっとシナ人や人喰い人種の間で生活してきたとした場合とは、いかに異なった者になるか、を考え、またわれわれの着物の流行においてさえ、十年前にはわれわれの気に入りまたおそらく十年たたぬうちにもういちどわれわれの気に入ると思われる同じものが、いまは奇妙だ滑稽だと思われることを考えた。そしてけっきょくのところ、われわれに確信を与えているものは、確かな認識であるよりもむしろはるかにより多く習慣であり先例であること、しかもそれにもかかわらず少し発見しにく真理については、それらの発見者が一国民の全体であるよりもただ一人の人であるということのほうがはるかに真実らしく思われるのだから、そういう真理にとっては賛成者の数の多いことはなんら有効な証明ではないのだ、ということを知った。こういう次第で私は、他をおいてこの人の意見をこそとるべきだと思われるような人を選ぶことができず、自分で自分を導くということを、いわば、強いられたのである。
さて前にもいったように、実生活にとっては、きわめて不確実とわかっている意見にでも、それが疑いえぬものであるかのように従うことが、ときとして必要であると、私はずっと前から気づいていた。しかしながら、いまや私はただ真理の探求のみにとりかかろうと望んでいるのであるから、まったく反対のことをすべきである、と考えた。ほんのわずかの疑いでもかけうるものはすべて、絶対に偽なるものとして投げすて、そうしたうえで、まったく疑いえぬ何ものかが、私 の信念のうちに残らぬかどうか、を見ることにすべきである、と考えた。(……)

私は、それまでに私の精神に入りきたったすべてのものは、私の夢の幻想と同様に、真ならぬものである、と仮想しようと決心した。

しかしながら、そうするとただちに、私は気づいた、私がこのよう に、すべては偽である、と考えている間も、そう考えている私は、必然的に何ものかでなければならぬ、と。そして「私は考える、ゆえに私はある」je pense, donc je suis.というこの真理は、懐疑論者のどのような法外な想定によってもゆり動かしえぬほど、堅固な確実なものであることを、私は認めたから、私はこの真理を、私の求めていた哲学の第一原理として、もはや安心して受け入れることができる、と判断した。(デカルト『方法序説』野田又夫訳)