リアルな対象への主体の無意識的欲望…それは究極的に、根本幻想 $ ◊ a の想像的機能に依拠する。すなわち無意識的欲望は、スクリーン/ヴェールが現前している限りでのみ、スクリーン/ヴェールの彼方の欠如を欲望しうる。 (ロレンツォ・キエーザ、2007、Subjectivity and Otherness: A Philosophical Reading of Lacan, by Lorenzo Chiesa)
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メイヤスーの決定的側面…、彼のなかにはある幻想の支えが見出される。すなわちまさに、我々を救済する《大いなる外部》幻想ーーだが結局、何から救済するのか?
……《大いなる外部》は幻想である、と言うことは、それが本当は存在しないリアルReal の幻想だという意味ではない。…
むしろ厳密に精神分析的意味での幻想である。すなわち論弁的現実 reality 自体が、亀裂があり・矛盾し・その削減されえない裏面としてのリアルに巻き込まれているという事実を覆い隠すスクリーン。言い換えれば、《大いなる外部》は、既にまさにここにあるリアルを覆い隠す幻想である。
メイヤスーの観点…すべては偶然的だ、この偶然性の必然性以外は。このように彼は主張することにより、メイヤスーは事実上、不在の原因 absent cause を絶対化してしまっている。(……)
我々は、メイヤスーに不在の〈原因〉absent Cause を絶対化しないですますことができない無神論的構造を見る。…「無神論者の神」のような何か、つまり「神がいないことを保証する神」を。(ジュパンチッチ、2014,Realism in Psychoanalysis Alenka Zupancic、PDF)
《現実界とは形式化の袋小路である。 Le reel est un impasse de formalization》(ラカン、S.20ーー基本版:現実界と享楽の定義)
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《まぁ、 世界というのはその程度のものだと思います。》(蓮實重彦)
《まぁ、 世界というのはその程度のものだと思います。》(蓮實重彦)
あらゆる「制度」に蔓延している怠惰な事実誤認、それは、「未知」なるものはいま、この瞬間にここにはなく、したがって見えてはいないと信ずることであり、そんな「貧しい」確信が、「未来」だの「彼方」だの「深さ」だのを捏造してもっと奥、もっと遠くへと困難な距離を踏破して進まんとするあまたの擬似冒険者を生み落すのであり、そうした楽天的な魂たちは、自分に最もふさわしい仕草を、「未知」なるものを「既知」なるものへと移行させんとする「発見」の旅だと信じて疑わない。だが、存在が真に有効な視線を欠いているのは、まさしく、いま、この瞬間に、ここにあるものをめぐってなのであり、そのとき瞳を無効にされた存在は、「彼方」を見やって視力の回復をはかるのではなく、むしろ自分自身の瞳を積極的に放棄して、「既知」と思われた領域の一劃に不意に不可解な陥没点を現出せしめ、そこで、いま、この瞬間に、ここにあるものと接しあいながら、もはや自分自身には属さない非人称的な瞳を獲得して、世界を新たな相貌のもとに把えることになるだろう。(蓮實重彦『表層批判宣言』「言葉の夢と「批評」」)