《ある語の意味は、言語[ゲーム]におけるその語の使用である。》(ウィトゲンシュタイン『探求』)
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以下、メモ
◆「実在性 Realität(reality, Realität, réalité)」の項目(木田元執筆)、『岩波哲学・思想事典』1998年より)。
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以下、メモ
◆「実在性 Realität(reality, Realität, réalité)」の項目(木田元執筆)、『岩波哲学・思想事典』1998年より)。
通常「実在」ないし「実在性」と訳され、日常用語では「現実」ないし「現実性」と訳される actuality(〔独〕Wirklichkeit, 〔仏〕 actualité)と等価的に使われるが、哲学用語としては両者は異なった文脈に属する。
つまり actuality が possibility(可能性)、necessity (必然性) と共に事物の存在様相を意味する存在論的概念であるのに対して、reality は ideality (観念性)と対をなし、ideality が意識のうちに観念としてあるあり方を意味するのに対比して、reality は意識とは独立に事物・事象としてあるあり方を意味する認識論的概念である。
もっとも、中世から近代初頭にかけて哲学的用語として使われたラテン語 realitas やその元となった形容詞 realis には「実在性」「実在的」という意味はなかった。realis はres(物)に由来し、その物が実在するか否かに関わりなしに、〈物の事象内容に属している〉という意味であり、realitas も可能的な事象内容を意味した。
「第二省察」においてデカルトは realitas objectiva と realitas actualis とを区別しているが、この 場合も前者は心に投射( objectiva) された事象内容、つまり可能的事象内容を、後者は現実化された(actu)事象内容を意味している。
ライプニッツも realitas と possibilitas(可能性)と等置しているし、カントが omnitudo realitatis と言う場合も、それは実在物の総体のことではなく、およそ可能な事象内容の総体のことであった。また彼が神の存在の存在論的証明を論駁しようとして提唱する「存在する〉ということは real な述語ではない」という命題における real も〈事象内容を表わす〉という意味である。
その Realität が「実在性」という意味をもつようになったのは、カントの objektive Realität(客観として現実化された事象内容)という概念を介してであり ー カントのもとでsubjektiv の意味に対応してobjektiv の意味も変質した-、次第に Realität だけで〈現実に存在する事象〉を意味するようになったのである。
木田元氏のとても明晰な解説であるようにみえるが、カントをめぐる箇所は誤謬だという見解がある(檜垣良成、Realitätの二義性 : 中世から近世へと至る哲学史の一断面、2015,PDF)。
檜垣良成氏のその見解の出処の核心部分(のひとつ)は、次の文にある。
カントの講義を記録した或る筆記ノートに次のように書かれている(Johann Friedrich Vigilantiusによって筆記された一七九四-九五年のカントの形而上学講義のノート。アカデミー版カント全集第XXIX 巻にMetaphysik K3として収録されている)。
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Realitaet〔ママ〕という言葉は二重の意味で使用される。
(一)〔すなわち〕形容詞的に〔adjective〕使用される。その場合、それは客観の形式のみを意味し、したがって形式的に〔formaliter〕適用され、しかもその場合、それは単数形でのみ使用されうる。例えば、諸表象、諸概念は客観的な Realitaet をもつ。……
(二)あるいは名詞的に〔substantive〕使用される。その場合、Realitaet はの質料的なものへ関係づけられ、複数形でのみ使用される。なぜなら、物の諸々のRealitaetがそれ自体そのもので考察されるからである。(XXIX 1000)
このテクストは、カント自身が Realität の二義性に自覚的であったことを示すものである。ここで Realität の名詞的使用と言われているものは、ドゥンス・スコトゥスに由来しデカルトの realitas obiectivaで有名になった realitas の用法につらなるものであり、「各々の«res» 〔物〕の Wesen (essentia)〔本質〕ないし、よりよく言えば、 Wesenhaftigkeit(essentialitas)〔本質性〕を意味するrealitas を継承するものである。
ーーということで、ああなんという厄介な、ということ「だけ」が分かった。
木田氏の解説にWirklichkeitという語が出現しているので、ここでラカンが依拠することの多いヘーゲルの「現実性 Wirklichkeit」 についてもついでにメモしておくことにする。
現実性(Wirklichkeit)とは、本質と現存在、あるいは内的なものと外的なものとの統一が直接的なものとなったものである。現実的なものの発現は、現実的なものそのものである。そこでそれは、発現の内にあっても同様に本質的なものにとどまり、そして直接的な外的な現存在の内にある限りにおいてのみ、本質的なものである。(ヘーゲル『小論理学』)
実際、ラカンはセミネールⅣで、Wirklichkeit symbolique などというこれまた厄介な言い方をしており、わたくしの依拠することの多いロレンツォ・キエーザは、Real-of-the-Symbolic と訳している。
しかもロレンツォは次のように記している。
all of the Real is nothing but the Real-of-the-Symbolic.(Subjectivity and Otherness: A Philosophical Reading of Lacan, by Lorenzo Chiesa、2007)
すなわち、ロレンツォにとっては(おそらくジジェクにとっても)、Wirklichkeit symbolique が現実界 Réel の別の言い方であるということになるはずだ。
最後のラカンにとって、現実界は、象徴界の「内部にある」ものである。Dominiek Hoensと Ed Pluth のカント用語にての考察を捕捉すれば、人は同じように、最後のラカンは現実界の超越的概念から、超越論的概念に移行した、と言うことができる。 ( Lacan Le-sinthome by Lorenzo Chiesaーー超越論的享楽)
われわれは「現実界の侵入は象徴界の一貫性を蝕む」という見解から、いっそう強い主張「現実界は象徴界の非一貫性以外のなにものでもない」という見解へと移りゆくべきだ。(ZIZEK,LESS THAN NOTHING,2012)
Real-of-language も Wirklichkeit symbolique である。
子どもは、エディプスコンプレックス(その消滅)を通して象徴界への能動的な入場をする前に、文字 letter としての言語、言語のリアルReal-of-language に関係する。人は原初の要所を思い描くことを余儀なくされる、要所、すなわちペットのように言語のなかに全き疎外されている状態を。これはたんに神話的な始まりを表すだけに違いないとはいえ、それにもかかわらず、子どもは、いかに話すかを学んだのちも、(文字としての)言語によって話され続ける。(Subjectivity and Otherness: A Philosophical Reading of Lacan, by Lorenzo Chiesa. 2007ーー「人間は想像界から始まる」という通念は疑わしい)
ここでの「文字 letter 」とは、「もの」としての言葉(中井久夫)、あるいは純シニフィアンのことである。
我々は強調しなければならない、ラカンがいかに無意識を理解したかを。彼は二つの用語を使っている。記号 symbole 、意味作用の原因としてのシニフィアン、そして、文字 lettre 、純シニフィアン signifiant pur としてのシニフィアンの二種類である。(ロレンツォ・キエーザ Lorenzo Chiesa 『主体性と他者性』Subjectivity and Otherness、2007ーー純シニフィアンの物質性)