絵画とは、他の言葉では表現することができない言語活動なのです。(バルテュス(=バルタザール・クロソウスキー))
人間とは言語活動である。
私はここで、Jean-Louis Gault の談話に言及しようと思う。それは、主体のパートナーに関するものだ。彼は言う、主体の生活の真のパートナーは、実際は、人間ではなく言語自体である、と。あなたがたは、主体のなかに、他者たちの世界の独自の谺を観察しうる。…しかし、あなたがたは、それらの他者たちによって生み出された烙印のような何かを持っている。とすれば、事実上、それは言語との基本的な関係のような何かである。人間との関係ではない。(Ordinary Psychosis Revisited Jacques-Alain Miller ,2008、PDF)
本源的なアタッチメントは、身体の上に言語の痕跡を刻印することである。根本的出来事・情動の痕跡化の原理は、誘惑ではない。去勢の脅かしでもなく、愛の喪失でもない。両親の性交の目撃でもなく、エディプスでもない。そうではなく、言語との関係である。 (Miller, J.-A. (2001). The symptom and the body event.)
現象(現れるもの)は「言語」で構成されている。
カントが主観の能動性として考えていたのは、実際には言語の問題である。彼が感性の形式や悟性のカテゴリーによって現象が構成されるといったのは、言語によって構成されるというのと同じことである。実際、それらは新カント派のカッシーラーによって「象徴形式」といいかえられている。(柄谷行人『トランスクリティーク』、P101)
ーーここは「言語」ではなく「現れるものの条件」とすべきか(たとえば、プロトパシーprotopathy原始感覚性)。
…………
※付記
《科学が物理学においてわれわれに捉えさせてくれた現実の構造はもはや知覚理論には関与しないということを、なぜ認めようとしないのだろうか。…あらゆることが示しているのは、ガリレオの動力学が天体を大地に組み込むことは重さに関するものや impetus(弾み、推進力、起動力)の知覚的直感の拒否によって得られたのだということである。》(ラカン、メルロポンティ追悼 Merleau-Ponty: In Memoriam)
カントの哲学は超越論的――超越的と区別されるーーと呼ばれている。超越論的態度とは、わかりやすくいえば、われわれが意識しないような、経験に先行する形式を明るみにだすことである。(柄谷行人『トランスクリティーク』P17)
カントは、『純粋理性批判』における新たな企てを「コペルニクス的転回」と呼んだ。この比喩は、それまでの形而上学が、主観が外的な対象を「模写」すると考えていたのに対して、「対象」を、主観が外界に「投げ入れ」た形式によって「構成」するというふうに逆転したことを意味している。(同上、P52)
カントは、経験論者が出発する感覚データはすでに感性の形式によって構成されたものであると述べた。そして、われわれが知るのはそのような「現象」であって、物自体ではない、と(柄谷行人『トランスクリティーク』P312)
「コペルニクス革命」が…重要なのは、地動説か天動説かではなく、コペルニクスが、地球や太陽を、経験的に観察される物とは別に、或る関係構造の項としてとらえたことである。(……)
同様に、カントは、経験論のように感覚から出発するか、合理論のように思惟から出発するかという対立をすり抜けている。彼がもたらしたのは、感性の形式や悟性のカテゴリーのように、意識されない、カントの言葉でいえば超越論的な構造である。感性や悟性という言葉は昔からある。それは「感じる」や「考える」という働きを概念にしたものである。しかし、カントは完全にそれらの意味を変えている。それは、コペルニクスにおいて、地球や太陽と呼ばれるものが、或る構造の中の項として見出されたのと同じである。われわれは別にカントがいう感性や悟性といった言葉をそのまま用いる必要はない。重要なのは、カントが提示した超越論的な構造である。柄谷行人『トランスクリティーク』p54-59)
コペルニクス以前にも以後にも太陽はある。それは東に昇り、西に沈む。しかし、コペルニクス以後の太陽は、計算体系から想定されたものである。つまり、同じ太陽でありながら、われわれは違った「対象」をもっているのである。(トラクリ p61)
◆前田秀樹「悟性と感性の「性質の差異」について』(「批評空間」1996Ⅱ-9)より(一部編集).
【伝統的な哲学】
【ベルクソンの哲学】
◆箭内匡「映像について何を語るか -ジル・ドゥルーズ『シネマ』をめぐる考察」、PDF)より
註):《 「現れるもの」 に相当するカントの原語はErscheinung であり、 これは通常は phénomèneと仏訳される言葉だが、ドゥルーズはドイツ語のニュアンスを生かす形で ce qui apparaît あるいは apparition という言葉を使っていると思われる。「現れるものの条件」については、「現れるも のの意味(sens)」と言ってもよい、とも述べている。》
註):《「超越論的」とは、あらゆる(可能な)経験の条件に関わるということである。付言すれば、 内在的な思考を貫こうとするドゥルーズ哲学の文脈においてはとりわけ、「超越論的」 (transcendantal)と「超越的」(transcendent)の二つの形容詞を混同しないことは重要である。後者 が、 経験しうるものの彼方にあるという意味でまさに超越的なのに対し、 前者は、 経験を根底か ら規定しつつも経験と同じレベルに位置するという意味で、内在的とみなしうるものである。》
【伝統的な哲学】
哲学にとって、光は精神の側にあるもので、意識と呼ばれるものは、さまざまな事物をそれらが本来住んでいる暗闇から引き出してくる光の束である。意識という内面の光が。外側の暗闇に潜んでいる事物を照らし出す。
ドゥルーズによれば、現象学でさえこうした考えに哲学的伝統には忠実だったのであり、ただ現象学はかつて内面性の光とされていたものを、まるで電灯の光線のようにすべて外側に向けて開いていったに過ぎない。
【ベルクソンの哲学】
これに対して、ベルクソンは、事物というのはどんな光によって照らされているわけでもない、すでにそれ自体が光なのである、と。では意識とは何かというと、この光を屈折させ、停止させ、遮断するもの、言わば光にとっての障害物にほかならない。事物のイマージュは、意識の光によって照らし出されて浮かび上がるのではなく、意識をとおした光の屈折や遮断によって、つまり光の部分的な否定によって視えるものとなる。…………
したがって、視えている事物のイマージュは、内面的な光が作り出している形象といったものではなくて、部分的に制限を受けた光であり、この光は事物そのものの側にあることになる。
◆箭内匡「映像について何を語るか -ジル・ドゥルーズ『シネマ』をめぐる考察」、PDF)より
ドゥルーズにとっての、 カントによる根本的な思考の変革とは、 具体的には何だろうか。それは、 『シネマ』の全体に関わる点からいえば、次の三点になるだろう。
第一にカントが、プラトン以来の「本質」(essence)と「仮象」(apparence)の対立と訣別し(つまりこの世界の背後に、この世界を根拠付けるような「真の世界」を前提することを廃止して) 、ただ「現れるもの」(ce qui apparaît)のみを、その「現れるものの条件」(conditions de ce qui apparaît)ととともに思考したこと。
第二に、この「現れるものの条件」の根底にあるものとして、 新しい、 真に近代的な 「時間」 の概念――いかなる宇宙的リズムをも前提としない、つまり、いかなる「動き(運動) 」の蝶番からも解放された、純粋な「時間」――を導入したこと。
第三に、この純粋な「時間」の概念を、同時にいかなる心理的リズムにも依拠しないものとして考えることを通じ、 「私の存在」が「私は他者である」(“Je est un autre”)というパラドックスを内包する形でのみ綜合されうること、 そして、 この綜合作用の根底に 「自己の自己による変様」としての「時間」があること、を見出したことである。
註):《 「現れるもの」 に相当するカントの原語はErscheinung であり、 これは通常は phénomèneと仏訳される言葉だが、ドゥルーズはドイツ語のニュアンスを生かす形で ce qui apparaît あるいは apparition という言葉を使っていると思われる。「現れるものの条件」については、「現れるも のの意味(sens)」と言ってもよい、とも述べている。》
(……)カントが行なった第一の根本的変革は、 プラトン以来の伝統である、 我々の経験の世界( 「仮象」の世界)の彼方に真実の世界( 「本質」の世界)が見出される、という考え方を打破して、ただ「現れるもの」 (あるいは「現象」 )のみが知りうる、としたことである。ここにおいて哲学的思考は、はじめて、もはや隠れた「真実の世界」に存在論的根拠を求めることの一切ない、 真に近代的なものとなったわけである。 「現れるもの」 のみを、そしてそれ自体において捉えてゆこうとする、 広い意味での 「現象」 学的アプローチは、 まさにここに始まるのであり、ベルクソンが『物質と記憶』において、 「私が感官を開けば知覚され、閉ざせば知覚されない」ものをすべて「イメージ」(image)という言葉で捉えようとした時も、またパースが「それが実在の事物に対応するか否かに全く関係なく、どんなしかたにおいてであれまたどんな意味においてであれ、 心に現れるいっさいのものの総合的全体」を「現象」(phaneron)という言葉で捉えようとした時も(パース 1985[1935]) 、そしてベルクソンとパースを引き継ぎつつドゥルーズが 『シネマ』 で、 目の前に現れる映像をも含めた全ての現れるものを 「イメージ」 として捉えようとした時も、 このカントのアプローチが出発点になっていることになる。
さて、こうして「本質」と「仮象」を同時に排除した以上、 「現れるもの」 について言いうることはただ、 「主体に向かって一定の仕方で現れる」ということのみであるだろう( 「一定の仕方で」というのは、もし変幻自在に現れるのであれば、人間は自らの経験を思考できなくなってしまうだろうからである) 。周知のようにカントは、この「一定の仕方」を、一連の条件(人間経験の可能性の条件)の形で整理する。つまり、 「現れるもの」は、一方で「時間」と「空間」の形式において主体に現前するのであり、他方で一連の「カテゴリー」 (あるいは「概念」 )を通じて表象として規定可能となるのである。
(……)カントが到達した答えは、ドゥルーズによれば、次のようなものである。第一に、 「我思う」における「私」 (Je)の思考の自発性、能動性は、それ自体、何かの前提的存在の属性として把握されうるものではなく、入り組んだ言い方になるが、 「時間」のなかで変様する受動的な「自我」 (Moi)の上での効果としてのみ ――それ自体受動的な「自我」が、自らの上 において 「他なるもの」 として生きるところの能動性の現われとしてのみ――把握されうるものであること。 「私の存在」は、このようにして、 「私は他者である」(“Je est un autre”)というランボーの詩句に従うかのように、 ただ、 他者としての 「私」 (Je)の効果を受動的な 「自我」(Moi)へ、 「時間」の形の中で結び付けることによってのみ、綜合されうるのである。そして第二に、この受動的な「自我」が変様する形が、とりもなおさず「時間」の形――つまり自己の自己による変様(affection de soi par soi)――であり、 この 「時間」 の形は、 存在 ( 「我あり」 ) と思考 ( 「我思う」 ) とをア・プリオリに関係させる、 超越論的な、 内的な差異(Différence)であること。ここで切り開かれるのは、 「時間」も「私の存在」も、もはや外部の超越的な何かに存在論的根拠を与えられるのではなく、 純粋に内的な差異の生産の形式によって捉えられるという、徹底的に内在的(immanent) な思考の地平である。
註):《「超越論的」とは、あらゆる(可能な)経験の条件に関わるということである。付言すれば、 内在的な思考を貫こうとするドゥルーズ哲学の文脈においてはとりわけ、「超越論的」 (transcendantal)と「超越的」(transcendent)の二つの形容詞を混同しないことは重要である。後者 が、 経験しうるものの彼方にあるという意味でまさに超越的なのに対し、 前者は、 経験を根底か ら規定しつつも経験と同じレベルに位置するという意味で、内在的とみなしうるものである。》
【カントのいう「現れるものの条件」の生物学版】
ところで、 ユクスキュルのこの生物学的=哲学的理論 (「環境世界」(Umwelt)の理論 )の中で、 映像との関係においてとりわけ興味深いのは、 各々の生物が認識可能な最小限の時間 (瞬間) を持っているという指摘である(ユクスキュル 1990[1934, 1940]: 49-53)。 この考えに基づくなら、 映画が我々の眼に連続的な「動き(運動) 」として映るのは、ただ単に人間の視覚が1/18秒以下の時間を捉えられないからだけではなく、もっと一般的に、人間のあらゆる感覚(聴覚、触覚等)がそれ以下の時間を捉えられないからであって、 いうなれば、 人間の知覚の全体がそれ自体、 1/18秒ごとのぶつ切れの経験から成り立っている、ということになるだろう。
註) 《ユクスキュルによれば、これに対してカタツムリの世界は、1/4~1/3秒ごとの経験か ら成っており、 反対にトウギョという魚の一種は、 1/30秒以上の速さのみを知覚することに よる世界を生きていることになる。鈴木光太郎は、ユクスキュル以降の実験的データに基づき、 視覚によって認識可能な最小限の時間の具体的数値は、 状況により、 また個体によって多少揺れ 動くものとしつつも、認識可能な最小限の時間(「生物学的一瞬」)という考え方自体は肯定し ており、それはその生物の代謝速度と関係づけられるとしている(鈴木 1995: 163-191)》。
すると、翻ってみるなら、自然知覚によって我々が捉える「動き(運動) 」もまた、実は、 (映像とまったく同様に) 一種の心的努力によって我々が再構成しているものだということになり、 その点では、 自然知覚の経験と映像 (写真も含めて) を見る経験の間の差異は、 結局のところ、かなり相対的なものだということになる。 フィルム上の映像がしばしば我々に対して、 自然知覚によって捉えられる現実に劣らないほど影響力を及ぼしうるという、 我々の日常的経験も、このように見れば、きわめて納得のゆくものになる。
そして、こうしてみるなら、ベルクソンが『物質と記憶』において、カントの「現れるもの」 の現象学を受け継ぎつつ、 それを 「事物と表象の中間に位置する存在」 であるところの「イメージ」 と呼んだこと、 そして 『シネマ』 におけるドゥルーズがこのベルクソンのアイデアに映像へのラディカルなアプローチを見出したことは、 実に正当であることが了解されてくる。 確かに我々を取り囲む事物と映像は、 ある局面においてははっきり区別されるべきものであるだろうが、 しかし、 映像と現実との複雑な絡まりあいを正確に把握するためには、それらをまず 「イメージ」 として同列に捉えることが不可欠なのであり、 そのための根拠は十分に存在するのである。
ーーやあ、すべてやや古い論文からだが、最近は変わったんだろうか。それともカント以前に「退行」しちまったんだろうか? そこのおまえさんよ
私は歴史の終焉ではなく、歴史の退行を、二一世紀に見る。そして二一世紀は二〇〇一年でなく、一九九〇年にすでに始まっていた。科学の進歩は思ったほどの比重ではない。科学の果実は大衆化したが、その内容はブラック・ボックスになった。ただ使うだけなら石器時代と変わらない。 (中井久夫「親密性と安全性と家計の共有性と」2000年初出『時のしずく』所収)