ゲーテにいたっては、「楽しい日々の連続ほどたえがたいものはない」とさえ警告している。もっとも、これは誇張と言っていいかもしれない。(フロイト、1930)
この文は『文化の中の居心地の悪さ』の次の文の註として書かれている。
厳密な意味での幸福は、どちらかと言えば、相当量になるまで堰きとめられていた欲求が急に満足させられるところに生れるもので、その性質上、挿話〔エピソード〕的な現象としてしか存在しえない。快感原則が切望している状態も、そのが継続するとなると、きまって、気の抜けた快感しか与えられないのである。人間の心理構造そのものが、状態というものからはたいした快感は与えられず、対照〔コントラスト〕によってしか強烈な快感を味わえないように作られているのだ。(註)
この文そのものはーーネット上でいくらか探すかぎりだがーーゲーテの詩句や文のなかには見当たらない。もうすこし探ってみると、いくらか語彙の違いはあるが、どうやら「格言風に Sprichwörtlich」にという晩年の詩からのように思える。
Alles in der Welt lässt sich ertragen,
Nur nicht eine Reihe von schönen Tagen.
ーー「この世の何だって耐えられる /楽しい日々が続く以外は」とでも訳せるか。
フロイトが言っているように「やや誇張」であるにせよ、これに似た感覚は誰にでもあるだろう。たとえば毎日、最高と思われる美食を食べ続けたら、うんざりするに決まっている。
どんなに好きなものも
手に入ると
手に入ったというそのことで
ほんの少しうんざりするな(My Favorite Things 谷川俊太郎)
ーーであるのは実感上たしかだ。
人が何かを愛するのは、その何かのなかに近よれないものを人が追求しているときでしかない、人が愛するのは人が占有していないものだけである。(プルースト「囚われの女」井上究一郎訳)
この文脈での決定版(のひとつ)は少し前引用したニーチェの次の文だろう。
人間は快 Lust をもとめるのではなく、また不快 Unlust をさけるのではない。私がこう主張することで反駁しているのがいかなる著名な先入見であるかは、おわかりのことであろう。
快と不快 Lust und Unlust とは、たんなる結果、たんなる随伴現象である、──人間が欲するもの、生命ある有機体のあらゆる最小部分も欲するもの、それは《力の増大 Plus von Macht》である。
この増大をもとめる努力のうちで、快も生ずれば不快も生ずる。あの意志から人間は抵抗を探しもとめ、人間は対抗する何ものかを必要とする──それゆえ不快は、おのれの力への意志 Willens zur Macht を阻止するものとして、一つの正常な事実、あらゆる有機的生起の正常な要素である。
人間は不快をさけるのではなく、むしろそれを不断に必要とする。あらゆる勝利、あらゆる快感、あらゆる生起は、克服された抵抗を前提しているのである。
──不快は、《私たちの力の感情の低減 Verminderung unsres Machtgefühls》を必然的に結果せしめるものではなく、むしろ、一般の場合においては、まさしく刺戟としてこの力の感情へとはたらきかける、──阻害はこの力への意志の《刺戟剤 stimulus》なのである。(ニーチェ『力への意志』第702番ーー「Wunsch(願望と欲望)とLust(快と欲望)」)
人は自分に似ているものをいやがるのがならわしであって、外部から見たわれわれ自身の欠点は、われわれをやりきれなくする。自分の欠点を正直にさらけだす年齢を過ぎて、たとえば、この上なく燃え上がる瞬間でもつめたい顔をするようになった人は、もしも誰かほかのもっと若い人かもっと正直な人かもっとまぬけな人が、おなじ欠点をさらけだしたとすると、こんどはその欠点を、以前にも増してどんなにかひどく忌みきらうことであろう! (プルースト「囚われの女」)