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2017年1月9日月曜日

私は〈きみ〉を拷問するだろう

我々は基本的に皆、邪悪でエゴイスティック、嫌悪をもたらす生き物である。拷問を例にとろう。私はリアリストだ。私に娘があり誰かが彼女を誘拐したとする。そして私は誘拐犯の友人を見出したなら、私はこの男を拷問しないだろうなどとは言い得ない。 (ジジェク、2016,12)


◆Conversations with Ziiek Slavoj Zizek and Glyn Daly、2004より私訳( 邦題『ジジェク自身によるジジェク』)

大統領 president 選? いやまずは大統領職 presidency 選だよ、大統領選じゃない。私は5番目だった。負けたんだ。けれど気にしなかったね。政治のポストでは、文化政治のたぐいには全く興味がなかったからな。興味があった唯一のことはーー古い話だがジョークではないよーー、内務省の大臣か諜報部の長だった。馬鹿げてきこえるかい? でもどちらも真剣に考えたんだ。たぶん、望んだらどちらかのポストを得たはずだ。(……)

けれど、友人たちが何て言ったと思う? ーーすばらしい、完璧だ! ただ一週間前に言ってくれ、そうしたら国から逃げ出すから、と。

このアイデアは少し馬鹿げていたさ。でも真剣だったんだ。けれど私はすぐに分かった、それは24時間の仕事だと。…とすれば理論的なことを続けることはできない。そして理論をやめるのは私にはまったく無理だ。だからそれで事は終わったってわけさ。


ーースロベニアの大統領や諜報部長といっても、日本でいえば地方都市の長のようなものだ。あの国は、人口200万人ほどしかないのだから。






もちろんここで肝腎なのは、ジジェクが諜報機関の長であった可能性の有無ではなく、たとえば〈あなた〉が愛する人を誘拐されたとき、それにかかわりがありそうな人物を探し出して拷問しないかどうかを自問してみることだ。

過去には公開処刑と拷問は、多くの観衆のもとで行われた。…これは、ほとんどの我々のなかには潜在的な拷問者がいるということだ。 (ポール・バーハウ1998、THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE)
人はよく…頽廃の時代はいっそう寛容であり、より信心ぶかく強健だった古い時代に対比すれば今日では残忍性が非常に少なくなっている、と口真似式に言いたがる。…しかし、言葉と眼差しによるところの障害や拷問は、頽廃の時代において最高度に練り上げられる。(ニーチェ『悦ばしき知』)
あなたは義務という目的のために己の義務を果たしていると考えているとき、密かにわれわれは知っている、あなたはその義務をある個人的な倒錯した享楽のためにしていることを。(……)

例えば義務感にて、善のため、生徒を威嚇する教師は、密かに、生徒を威嚇することを享楽している。(『ジジェク自身によるジジェク』2004)
誰にも攻撃性はある。自分の攻撃性を自覚しない時、特に、自分は攻撃性の毒をもっていないと錯覚して、自分の行為は大義名分によるものだと自分に言い聞かせる時が危ない。医師や教師のような、人間をちょっと人間より高いところから扱うような職業には特にその危険がある。(中井久夫「精神科医からみた子どもの問題」)

【フロイト版】
人間は、せいぜいのところ他人の攻撃を受けた場合に限って自衛本能が働く、他人の愛に餓えた柔和な動物なのではなく、人間が持って生まれた欲動にはずいぶん多量の攻撃本能も含まれていると言っていいということである。

したがって、われわれにとって隣人は、たんにわれわれの助手や性的対象たりうる存在である ばかりでなく、われわれを誘惑して、自分の攻撃本能を満足させ、相手の労働力をただで利用し、相手を貶め・苦しめ・虐待し・殺害するようにさせる存在でもあるのだ。

「人間は人間にとって狼である」(Homo homini lupus)といわれるが、人生および歴史においてあらゆる経験をしたあとでは、この格言を否定する勇気のある人はまずいないだろう。

通例この残忍な攻撃本能は、挑発されるのを待ちうけているか、あるいは、もっと穏やかな方法でも手に入るような目的を持つある別の意図のために奉仕する。けれども、ふだんは阻止力として働いている反対の心理エネルギーが不在だというような有利な条件に恵まれると、この攻撃本能は、自発的にも表面にあらわれ、自分自身が属する種族の存続する意に介しない野獣としての人間の本性を暴露する。

民族大移動、フン族――ジンギス・カーンおよびティームールにひきいられたモンゴル人――の侵入、信心深い十字軍戦士たちによるエルサレムの征服などに伴って起こった数々の残虐事件を、いや、さらに最近の世界大戦中」の身の毛もよだつ事件までを想起するならば、こういう考え方を正しいとする見方にたいし、一言半句でも抗弁できる人はあるまい。(フロイト『文化の中の居心地の悪さ』)