2017年3月5日日曜日

現実の苦痛から逃れるための手段

………人間は誰しも、現在の苦痛から逃れて自由になりたいという切実な希求をもって生きている、と彼は思った。そしてこの希求を確実に果たしてくれるものが死以外にないとすればこんな芝居でもしてみるのかも知れない。

「性の放浪」が章に伝えたモティーフは虚無・疑似死であった。あの漫才師のような男は、あの映画のなかで、いつでも引き返すことの可能な死ーー蒸発の楽しみを演じてみせてくれたのであった。現代に於いて性は衰退の象徴として何時でも厭わしい屍臭をまとっているのであるから、章がそれを嗅ぎつけて怖れ、同時にそれに引き寄せられたことは自然であった。(藤枝静男「欣求浄土」)

現実の苦痛から逃れるための手段とは、何があるのか。

中井久夫『治療文化論』p.120の図表には次のようにある。

①地理的救済(転居、転職、移住、移民、旅行、放浪(国内・国外))

②“歴史的”救済(現状のまま努力を倍加したり、スポーツなどを始めたりして、現状のパラメーターを変えようとする)(病い性を否認)。“歴史的”というのは、これまでの自己蓄積の上に立ち、それを増大させようとするから。

③超越的・宗教的救済(既存の軌道による)ーー坐禅、巡礼、仏門、修道院入り

④非宗教的・愛他的救済(他者の治療によって自己治療が代替される)--ヴォランティアなど → 時にプロの治療者となろうとし、時に成功する。

⑤美あるいは芸術による救済

⑥犯罪・ルール違反による救済

⑦叛乱ー英雄による自己救済

⑧宗教あるいは宗教等価物(自然科学あるいは他の分野も含む)

ーーみなさんもそれぞれどれかをやっているか、さらにより軽めの精神衛生維持方法をとっているはずである。

人間の精神衛生維持行動は、意外に平凡かつ単純であって、男女によって順位こそ異なるが、雑談、買物、酒、タバコが四大ストレス解消法である。しかし、それでよい。何でも話せる友人が一人いるかいないかが、実際上、精神病発病時においてその人の予後を決定するといってよいくらいだと、私はかねがね思っている。

通常の友人家族による精神衛生の維持に失敗したと感じた個人は、隣人にたよる。小コミュニティ治療文化の開幕である。(米国には……)さまざなな公的私的クラブがある。その機能はわが国の学生小集団やヨットクラブを例として述べたとおりである。

もうすこし専門化された精神衛生維持資源もある。マッサージ師、鍼灸師、ヨーガ師、その他の身体を介しての精神衛生的治療文化は無視できない広がりをもっている。古代ギリシャの昔のように、今日でも「体操教師」(ジョギング、テニス、マッサージ)、料理人(「自然食など」)、「断食」「占い師」が精神科的治療文化の相当部分をになっている。ことの善悪当否をしばらくおけば、占い師、ホステス、プロスティテュート(売春婦)も、カウンセリング・アクティヴィティなどを通じて、精神科的治療文化につながっている。カウンセリング行動はどうやら人類のほとんど本能といいたくなるほど基本的な活動に属しているらしい。彼らはカウンセラーとしての責任性を持たない(期待されない)代り、相手のパースナル・ディグニティを損なわない利点があり、アクセス性も一般に高い。(中井久夫『治療文化論』pp.129-130)

とはいえ酒や、ホステス、プロスティテュートなどによる精神衛生活動に耽溺しすぎると、(わたくしのように)地理的救済が必要になるから厄介である。

「男どもはな、別にどうにもこうにもたまらんようになって浮気しはるんとちゃうんや。みんな女房をもっとる、そやけど女房では果たしえん夢、せつない願いを胸に秘めて、もっとちがう女、これが女やという女を求めはんのや。実際にはそんな女、この世にいてへん。いてえへんが、いてるような錯覚を与えたるのがわいらの義務ちゅうもんや。この誇りを忘れたらあかん、金ももうけさせてもらうが、えげつない真似もするけんど。目的は男の救済にあるねん、これがエロ事師の道、エロ道とでもいうかなあ。」(野坂昭如『エロ事師たち』)


『性の放浪』(若松孝二、1967)

「そう。君らにはわかるまいが、五十六十の堂々たる紳士で、女房がおそろしくて、うちへ帰れないで、夜なかにそとをさまよっているのは、いくらもいるんだよ。」(川端康成『山の音』)


飲んでるんだろうね今夜もどこかで
氷がグラスにあたる音が聞える
きみはよく喋り時にふっと黙りこむんだろ
ぼくらの苦しみのわけはひとつなのに
それをまぎらわす方法は別々だな
きみは女房をなぐるかい?

ーー谷川俊太郎「武満徹に」

(『夜中に台所でぼくはきみに話しかけたかった』所収)




きみが怒るのも無理はないさ
ぼくはいちばん醜いぼくを愛せと言っている
しかもしらふで

にっちもさっちもいかないんだよ
ぼくにはきっとエディプスみたいな
カタルシスが必要なんだ
そのあとうまく生き残れさえすればね
めくらにもならずに

(……)

ーー「谷川知子に」

…………

冒頭に引用した藤枝静男「欣求浄土」における『性の放浪』のすぐれて喚起的な叙述を「在庫」から貼り付けておこう。

……若い友人が、自分の感心したというピンク映画を見ることを勧めてくれた。三本立ての最後の番組みで「性の放浪」というのがそれだと云うので、早速映画館に電話をかけて上映時間を確かめておいてから夕食後しばらくして出かけた。しかし実際には定刻に十分ばかりおくれたせいで、館の前の電灯は半分消されていて切符売りは居なかった。章がしかたなしになかへ入って行くと、角刈りの男が菓子売場のケースに白布をかけていた。

「もう駄目か」

「いいです」

彼が料金の二〇〇円を渡すと一〇〇円返してよこした。

短冊型に細長い場内の向こう端いっぱいのスクリーンに、田舎のプラットホームのベンチに腰かけている三〇前後の男の上半身がうつっていた。田舎だということは、男の後方にひろがっている貧弱な風景でわかった。漁村のようでもあった。たった二、三〇人ばかりの観客が、身体をずらせて両脚を前列の椅子の背にのばしかけたりして散在していた。

章は真中あたりの席に坐り、禿隠しの鳥打帽をぬいで煙草に火をつけて画面に見入った。入口の看板に「カラー作品」とあったから、これはひとつ前のやつかしらと思ったが、そうでないことは後でわかった。

ザーザー、ザーザーという騒音が絶えず耳につくので、はじめ何だろうと思ったが、じきに、これはこの映画館と抱き合わせ経営になっている隣接のパチンコ屋で玉を洗っている音だということがのみこめた。彼の席の左手の壁のすぐ向こうが、ちょうど洗い場になっているのだ。

ベンチに腰を下ろした男が、通りがかりの駅員に、ここはどこだと訊ねている。駅員が答えると、柱に書いた何とか云う駅名がうつった。男が、どうして俺はこんなところに来たんだろう、と独りごとを云って不思議そうな顔をする。次に、この男が会社(たぶん東京らしい)を出て来る姿がちょっと映って、また男がしきりに首をふる大写しが出る。

つまりこの男は会社からひけた瞬間に記憶を喪失してフラフラと汽車に乗りこんで、そしてここまで運ばれてきて正気にもどったが、自分が誰であるかはまた分らない。しかし現在は一切の拘束から脱した状態にある都会の平均的サラリーマンの一人であるというのが、この映画の設定らしい。その証拠に、あるいは芝居が下手なせいかも知れぬが、とにかく彼はたいして心配そうな表情も見せずに、改札口を出て漁師町をブラブラ歩いて行く。パチンコの玉洗いの音が場面によく合っている。

この主役俳優は都会のサラリーマンにしては汚なすぎる、と章は思った。テレビに出る南都雄二という漫才師とよく似た身体つきで、撫肩胴長だが胸の筋肉は一枚筋のように発達している。皮の固そうな厚い掌と短い指が、不器用な鋳型で抜いたように角ばっている。ことによると、インテリというような見せかけの武装あるいは見栄から自由になった都会青年の慾望を、映画はこの姿態によって象徴しているのかも知れない。

――彼は上衣を脱いで肩にかけ、汚れたハンカチで顔の汗を拭きながら、不思議にも人影のまったくないカンカン照りの往来を歩いて行く。

ある場所で彼が立ち止まって首をまわすと、その方角に明けっぴろげになった小さな家が映り、次にその奥が大写しになると若い夫婦が性交している。チャブ台の向こう側で脚や腕がさかんに動いている。仰向いた女の美しい胸と首と、そこに無闇に顔をこすりつける男の後頭部が映る。男の手首が女の太股の下のほうから撫であげたり、女の肉付きのいい脚が曲がったり伸びたりする。――彼は道に立ってぼんやりそれを眺めている。それから歩き出す。

彼がまたすこし歩いて街角をまがり、首をかしげて近づいて行って或る家をのぞきこむと、透戸の裏側で男女が性交している。今度は和服の女と真っ裸の男だが、動作は前とまったく同じである。男は女を揉むようにしてやたらと押しつぶし、女は脚をバタつかせたり、顔をしかめて首を振ったりするが、彼等はぶっ違いになっていて、脚は決して交叉することがない。男はパンツをはいているし、女の剥き出しの尻も映らない。これはもちろん検閲がある以上当然だが、章は何となくもの足らぬ気がした。

突然スクリーン全体がぱっと赤く染まったので章はオヤと思った。――箱型のせまい部屋の真中に敷かれた蒲団から、真っ裸のおんなが、すれすれのところを毛布で覆った桃色の上半身を起こしていて、それからこちらの方をジッと見つめながらゆっくりと迫るように近づいてくる。肩が骨張っていて、下腹部は削げ落ちている。

男がひるんだような、しかし持ちまえらしい鈍い表情を見せる。――これはたぶん彼の日常生活での妻の性慾の圧迫を表現したものである。しかし、この赤硝子を透かしただけの光景の挿入がカラーという看板の意味だとわかると、章は騙されたような気がした。

サラリーマンはまた首をわずかに振って歩いて行く。

彼はやがて白波の打ち寄せる真昼の海岸に出る。しかし、そこでまた岩陰をのぞくと予想どおり若い男女が性交している。前より一歩進んで両名とも真っ裸である。男の毛深い太腿や、女の白い股には砂粒が沢山ついている。やることは前二回ともちろん同じで、盛にエネルギッシュに揉み合う。

ただ今度の場面では、性交が終わったと思われるころにカメラが急に後方に退くと、この岩陰から男女が真っ裸のまま跳び出して(局部を清めるためか、または青春の歓喜を表現するためか)手をつなぎ合って海へ飛び入るのである。そしてお互いに水をかけあったり、身体を波に沈めて戯れたりする。女は長い髪をなびかせて走る。むこう向きで背中と尻だけのときと、臍から下が水に漬かるときだけは大写しになる。非常に美しい身体をしている。

章が最も面白く感じたのは、男の方がガニ股のずんぐりした身体つきで同じく大写しになり、正面または横向きに走る姿であった。このとき、彼は局部を隠すために両腕をV字型に前へまわして掌で睾丸を摑むように覆い、同時にできるだけ膝を高くあげて身体の前に波しぶきを蹴立てて駈けるのであった。これを彼は一人考えでやっているのか、監督の指図でやっているのか、どちらにせよ章は好意を感じた。

さて男はそこを離れてまた町に引きかえして行く。すると今度は短い飛白の筒袖を着て手足のよく伸びた漁師の娘と行きちがう。彼が呼びとめると、彼女は筋書きどおり直ぐに応じて、浜辺の網小屋に彼を導いて行く。

こういうところで手間どらないのは、今の小説とちがって流石に性映画のよいところだ、と章は思った。時間もいつのまにか夜になっている。

娘がパンツ一枚になってせまい小屋の砂の上に寝て、男がスボンを脱ぎはじめると、スクリーン全体が急に真赤に染まって、また痩せた裸女が出現する。今度は椅子にまたがって腹と局部を隠して、いどむような眼つきでこちらを見る。そして近づいてくる。

そこで男がインポテになる。しきりに額の汗をふいて娘を揉むが、結局は娘に突きとばされて、情けない顔つきをして一〇〇〇円とられる。

彼は波打ちぎさをとぼとぼと歩いて行く。そして岩陰に上衣を投げ出し、それを枕に寝そべると、画面が眼を閉じた彼の顔から岩に移り、岩に沿ってぐるりと裏側にまわって行く。するとそこでも男女が交接している。

今度は非常に長い。しかしやることはこれまでと全く同じで、頭を振って接吻し、身体をこすりつけて伸び縮みをし、手で太腿を撫であげ、むやみに相手を圧さえつける。

岩に、四角い、指の短い手首がうつり、それから男が首をのばして上からのぞく。男女が吃驚して逃げ出して、暗い海へ飛んで入る。しかしそれかは後は一向平気で、前回と同様に真裸で愉快そうに走りまわっている。今度は夜だから主にシルエットであるが、男の方がやはり両手で睾丸をつかんで駈けるところは、何度見ても面白い。

翌日か翌々日か、太陽のカンカン反射している白い道路の端を、彼が上衣をかかえて汗を拭き拭き歩いている。

立派なスポーツカーが後ろから寄って来て止まり、素晴らしい美人が彼を車に誘い入れる。

「あなたはテレビの××○○子さんじゃあありませんか」

彼が驚いてたずねると彼女がニッコリ笑って

「そうよ」

と答える。

「わたしは普通のセックスでは不感症なのよ、あんたのような道端で拾った識らない人とでなければ駄目なの」

と云いながら山間いの道に乗り入れて行く。そして車の中で交接する。彼の四角い掌が靴下をはいた女の脚をはいまわる。彼ははじめて成功するのである。

やがて彼等は海に面した丘の上のドライヴインのバルコニーで楽しげに食事する。可愛い顔をした女給仕がサインを求めたりする。それから食事が終わると女が、

「お化粧を直してくるから待っていてね」

と云って立って行く。なかなか戻って来ないので男がぶらぶらと手摺りの方へ行って見下ろすと、目の下の駐車場から女の車が走り去って行く。結局彼は食事代の足りない分を働いて返すことになって汚い部屋に放りこまれる。

しかし夜になると、サインをねだった女給仕が寝衣で入ってきて二人は性交する。

その翌晩もまた性交しながら、今度は店の金をさらって逃げる相談をする。

次の夜、二人は金を盗んで丘を駆け下り、道路に沿って走って逃げる。するとダムプカーが来て拾いあげてくれる。

しかし二人は金をまきあげられるとすぐ引きずり下ろされて、猿轡をはめられ両手をしばられた男の眼の前で、女は運転手と助手に輪姦され、それが終わると女だけが再びダムプに乗せられて車は走り去って行く。

次の場面は山の中である。やはり陽がカンカン当っている。

男が疲れた様子でよたよた歩いてきて、灌木の陰にどさりとひっくり返って眼をつむっている。

急に若い男女の華やいだ笑声と合唱がきこえ、すこし離れた小道を数人のハイカーが一列にならんで行く姿がうつる。なかの一人の女がそれて男の寝ている方に登って来る。男の顔のすぐわきに女の運動靴がくると、男が急に手をのばしてスカートを引っぱって女を倒す。そして身体を起こしてその上に乗りかかって行く。分厚い掌で太腿を撫であげると大写しになり、運動靴がバタついたり脱げたりする。

強姦が終わると女はぐったりして気を失っている。男が女の鼻のところへ掌をあてて生存を確めて、それから近くに放り出されたハンドバッグから金を盗んで逃げて行く。

次はまたちがう町になる。やはり通行人は一人もなくて、男が立ち止まって首を曲げると、その家の奥で夫婦が交接している。また少し歩いて見当をつけてのぞくと、その家でも交接している。みんな同じことをしている。

以上が「性の放浪」の主要部分であった。

最後に、この男が東京の上野駅らしいところの改札口から出てくるところがうつる。男が沢山の乗客にまじって吐き出されてくると、駅の構内では映画のロケーションをやっている。カメラの横に反射板を持った男が立っている。板の裏には「蒸発」と、題名らしいものが書かれている。そして全身ピンク色に染まって出てきた彼の痩せた妻が、いま俳優の一人として、ポーズをつくってカメラに向かって歩いて行く。ここのところは前に新聞の映画欄で読んだ問題映画と同じだ。

真面目な映画だ、と章は思った。(藤枝静男「欣求浄土」)

…………

※付記

中井久夫の精神衛生維持方法とは、フロイトの「昇華」をめぐる叙述とともに読むことができる。

【人生の目的とは?】
……人間にとって人生の目的と意図は何であろうか、人間が人生から要求しているもの、人生において手に入れようとしているものは何かということを考えてみよう。すると、答はほとんど明白と言っていい。すなわち、人間の努力目標は幸福 Glück であり、人間は幸福になりたい、そして幸福の状態をそのまま持続させたいと願っている。しかもこの努力には二つの面、すなわち積極的な目標と消極的な目標の二つがあり、一方では苦痛と不快が無いことを望むとともに、他面では強烈な快感を体験したいと望んでいる。狭い意味での「幸福 Glück」とはこの二つのうちの後者だけを意味する。(……)

【われわれが幸福である可能性の制約】
厳密な意味での幸福は、どちらかと言えば、相当量になるまで堰きとめられ蓄えられていた欲求 Bedürfnisse が急に満足させられるところに生まれるもので、その性質上、挿話(エピソード episodisches)的な現象としてしか存在しない。快原理が切望している状態も、そのが継続するとなると、きまって、気の抜けた快しかい与えられないのである。人間の心理機構そのものが、状態というものからはたいして快を与えられず、対照(Kontrast)によってしか強烈な快を味わいえないように作られているのだ。つまり、われわれが幸福でありうる可能性は、すでにわれわれの心理機構によって制約されているのである。

【三つの不幸の可能性】 
しかも皮肉なことに、不幸を経験するのははるかに簡単だ。そうして苦難の原因は三つある。第一は自分自身の肉体――結局は死滅するよう運命うけられていて、警報として役立つため苦痛や不安をすら欠くことのできない自分自身の肉体――であり、第二は、われわれにたいし、破壊的で無慈悲な圧倒的な力をもって荒れ狂うことにある外界であり、第三は、他人との人間関係である。この最後の原因から生まれる苦難は、おそらく、他のあらゆる苦難にもましてわれわれには苦痛と感ぜられる。この種の苦難も、他の原因から生ずる苦難に劣らず宿命的で、どうにも避けようのないものであるかもしれないにもかかわらず、とかくわれわれは、いわばそれを余計なおまけのように考えがちである。(……)

【不幸対策:孤独・麻薬・ヨガ修行等】
人間関係が原因で生まれることのある苦痛にたいして身を守るいちばん手っとり早い方法は、すすんで孤独を守ること、ほかの人間との関係を断つことである。当然ながら、この方法によって手に入れる幸福は、平安の幸福である。(……)

もちろん、これと違った、もっとよい方法もある。すなわち、人類社会の一員として、科学が生んだ技術の力を借り、自然を攻撃する態度へと移行し、自然を人類の意志に隷属させるのである。その場合には、万人とともに万人の幸福のために働くことになる。しかし苦難を防ぐ方法としていちばん興味深いのは、自分の身体組織を変えてしまおうとする試みである。あらゆる苦難も所詮は感覚以外の何物でもなく、われわれがそれを感ずるかぎりにおいてしか存在しないのであり、われわれがそれを感ずるというのも、われわれの身体組織に備わっているある種の装置のせいにすぎないのだから。

身体組織を変えてしまおうとするこの試みのうち、もっとも野蛮かつもっとも効果的な方法は、化学的な方法、つまり中毒である。(……)幸福を獲得し悲惨を避けるための戦いでの興奮剤の効果は一種の恩恵として高く評価され、人類は、個人としても集団としても、これら興奮剤に、自分のリビドーの管理配分体制内における確固とした地位を認めている。興奮剤は、直接快感を供給してくれるだけではなく、われわれが希求してやまない外界からの独立をも部分的には手を入れさせてくれる。(……)

けれども、われわれの心理機構は複雑であるから、これを左右する方法は、他にもまだたくさんある。欲動満足 Triebbefriedigung がわれわれを幸福にしてくれるのと反対に、外界の事情によって飢えなえればならなかったり、欲求 Bedürfnisse を充分に満たすことができない場合は激しい苦痛の原因になる。

そこで、この欲動の動き Triebregungen に働きかけることによって苦痛の一端を免れることができるのではないかという希望が生まれる。この種の苦痛防止法は、もはや感覚器官そのものに手をつけるのではなく、欲求 Bedürfnisse が生まれる内的源泉を制御しようとするのである。それが極端に走ると、東洋の哲学の教えやヨガ修業の実践からわかるとおり、欲動 Triebe を全部殺してしまう。これが成功すると、もちろんその他の活動もすべて同時に停止され(人生も犠牲にされ)るわけで、方法こそ違え、手に入るのはこれまた平安の幸福に他ならない。

【常軌を逸した衝動のもつ抗しがたい魅力】
欲動生活 Trieblebens の制御だけを目差す場合も、これと同じ方法によるが、目標はそれほど極端ではなくなる。そして主導権は、現実原則に屈服した高次の心理法廷が握ることになる。この場合には、欲動を満足させようとする意図はけっして放棄されたわけではないが、ただ、制御された欲動のほうが、不羈奔放な欲動よりは、不満足に終わった場合の苦痛が少ない点を利用して、苦痛をある程度防止しようというのだ。そのかわり、享受可能性 Genußmöglichkeiten の低下は避けられない。自我に拘束されない荒々しい欲動の動きungebändigten Triebregung を堪能させた場合の幸福感は、飼い馴らされた欲動 gezähmten Triebes を堪能させた場合の幸福感とは比較にならないほど強烈である。常軌を逸した衝動 Impulse の持つ抗しがたい魅力はーーいやおそらくは、禁じられたもの一般の持つ魅力もまたーーここにその心理エネルギー管理配分機構上の存在理由を持っているのである。

【学問、芸術という「上品かつ高級な」欲動の昇華】
苦痛防止のもう一つの方法は、われわれの心理機構が許容する範囲でリビドーの目標をずらせること Libidoverschiebungen で、これによって、われわれの心理機構の柔軟性は非常に増大する。つまり、欲動の目標 Triebziele をずらせることによって、外界が拒否してもその目標の達成が妨げられないようにするのだ。この目的のためには、欲動の昇華 Sublimierung der Triebe が役立つ。一番いいのは、心理的および知的作業から生まれる快感の量を充分に高めることに成功する場合である。そうなれば、運命といえども、ほとんど何の危害を加えることもできない。芸術家が制作――すなわち自分の空想の所産の具体化――によって手に入れる喜び、研究者が問題を解決して真理を認識するときに感ずる喜びなど、この種の満足は特殊なもので、将来いつかわれわれはきっとこの特殊性を無意識心理の立場から明らかにすることができるであろうが、現在のわれわれには、この種の満足は「上品で高級 feiner und höher」なものに思えるという比喩的な説明しかできない

 【上品かつ高級な欲動昇華の限界】
けれどもこの種の満足は、粗野な一次的欲動の動き primärer Triebre-gungenを堪能させた場合の満足に比べると強烈さの点で劣り、われわれの肉体までを突き動かすことがない。しかし、この方法の第一の弱点は、それがすべての人間に開放されておらず、ごく少数の人々しか利用できないことである。この方法を使うには、それが有効であるために必要な量ではかならずしもざらにあるとは言えない特殊な素質と才能を持っていなければならない。しかも、そのごく少数の人々も、たとえこの方法によっても、苦痛を完全に免れることはできないのであって、この方法は、運命の矢をすべてはね返す鎧を提供してくれるわけではなく、自分自身の肉体が原因で生まれる苦痛の場合には役に立たないのが通例である。(フロイト『文化への不満』1930旧訳著作集3 pp.442-444、但し一部変更、新訳名『文化の中の居心地の悪さ』)