感覚的刺戟と感動とを問題にするならば、言語芸術のうちで最も詩に近く、またこれと自然的に結びつく芸術即ち音楽を詩の次位に置きたい。音楽は確かに概念にかかわりなく、純然たる感覚を通して語る芸術である、従ってまた詩と異なり、省察すべきものをあとに残すことをしない、それにも拘らず音楽は、詩よりもいっそう多様な仕方で我々の心を動かし、また一時的にもせよいっそう深い感動を我々に与えるのである( …)これに反しておよそ芸術の価値を、それぞれの芸術による心的開発に従って評価し、また判断力において認識のために合同する心的能力〔構想力と悟性〕の拡張に基準を求めるならば、すべての芸術のうちで音楽は最低の(しかし芸術を快適という見地から評価すれば最高の)地位を占めることになる」(カント『判断力批判』篠田英雄訳)
事実、人が原初に感受した最初の「芸術」は、母胎内における母の心音であり血液の流れという「音楽」である。心音のくっきりしたリズムとともに、ざわざわと血の流れる響き、プルーストが云う《くらがりにうごめくはっきりしない幼虫のように目につかなかったいくつかの楽節》である。誰モガ実ハ覚エテイル筈デアル。もっとも母親がヒステリー気質であるなら、母の怒声や叫声の楽節が最も印象に残った始原の「音楽」でありうる。
この断定をすこしだけ保留するとすれば、もし触覚芸術や嗅覚芸術、振動芸術などが今後生まれるなら、それも聴覚芸術と同様に原初的であろう。母胎内で粘膜に愛撫されたり羊水のにおいに包まれたり、あるいは羊水の海に揺蕩ったりしているのだから。
もっとも彫刻は、高村光太郎が既に言っているように触覚芸術でありうるし、濃厚な腐臭をもつチーズや鮒寿司などの発酵食品は嗅覚芸術、そして舞踏は振動芸術でありうる。とすればこれらの根源的感覚を刺激する芸術は既に存在する。そして胎児は指を咥えることがあるのだから口唇感覚も原初的であり、接吻やフェラチオなどの性のかかわる行為も口唇覚芸術、かつ互いのにおいをまさぐり合うという意味で嗅覚芸術・・・いやそれだけではない、あるゆる感覚を伴う総合芸術かもしれない。
話を戻せば、たとえばアルトーが、《私の内部の夜の身体を拡張すること dilater le corps de ma nuit interne》と言ったとき、彼の母の子宮はひどく小ぶりであったのではないか、と人は疑うべきである・・・
私、アントナン・アルトー、1896年9月4日、マルセイユ、植物園通り四番地にどうしようもない、またどうしようもなかった子宮から生まれ出たのです。なぜなら、9カ月の間粘膜で、ウパニシャードがいっているように歯もないのに貪り食う、輝く粘膜で交接され、マスターベーションされるなどというのは、生まれたなどといえるものではありません。だが私は私自身の力で生まれたのであり、母親から生まれたのではありません。だが母は私を捉えようと望んでいたのです。(アルトー『タマユラマ』)
その点、わたくしの母は、ややヒステリー気味であったにしろ、子宮内はとても居心地がよく、夜咲キスミレノヨウナ芳香ガシタ・・・かつまた Bernarda Fink と同じような声音、そして彼女の歌う「Nachtviolen」とほぼ同じ心音テンポをもっており、なぜシューベルトのこの曲・このベルナルダの歌声にこんなにも魅惑されるのか、ーー実はこのところそればかり考えていたのだがーーその原因をヨウヤク見出シエタトコロデアル・・・
ああ、ベルナルダ! あたかもわたくしの原初の子宮内交接の記憶、そのはるかで朧な出来事ーー《症状(サントーム=享楽の原子)は身体の出来事である le symptôme à ce qu'il est : un événement de corps》 (ラカン、AE.569、1975)--その歩みが、鳩の足でやってくるかのようではないか! (Bernarda Fink; "Nachtviolen"; Franz Schubert(1:38~))。
ある一つの細部が、私の読み取りを完全に覆してしまう。それは関心の突然変異であり、稲妻である。ある何ものかの徴がつけられることによって、写真(→音楽)はもはや任意のものでなくなる。そのある何ものかが一閃して、私の心に小さな震動を、悟りを、無の通過を生ぜしめたのでる。(ロラン・バルト『明るい部屋』)
ああ、下瞼のたるみ、眼尻の皺の具合、笑い方、ときおり示す厳しく冷ややかな表情まで、わたくしの母とそっくりである・・・わたくしは稲妻に打たれたままなのである。
◆Bernarda Fink; "Nachtviolen"; Franz Schubert
ああ、あああ、わたくしはほんとうに大丈夫なのだろうか。わたくしのカオスは安定しないのである・・・なにかが分解してしまいそうになるのである・・・
暗闇に幼な児がひとり。恐くても、小声で歌をうたえば安心だ。子供は歌に導かれて歩き、立ちどまる。道に迷っても、なんとか自分で隠れ家を見つけ、おぼつかない歌をたよりにして、どうにか先に進んでいく。歌とは、いわば静かで安定した中心の前ぶれであり、カオスのただなかに安定感や静けさをもたらすものだ。子供は歌うと同時に跳躍するかもしれないし、歩く速度を速めたり、緩めたりするかもしれない。だが、歌それ自体がすでに跳躍なのだ。歌はカオスから跳び出してカオスの中に秩序を作りはじめる。しかし、歌には、いつも分解してしまうかもしれぬという危険もあるのだ。アリアドネの糸はいつも一つの音色を響かせている。オルペウスの歌も同じだ。(ドゥルーズ&ガタリ『千のプラトー』)
◆Bernarda Fink, Monteverdi, l'incoronazione di Poppea, "Adagiati, Poppea - Oblivion soave" (Arnalta)
この女は、ニーチェが錯乱の奥底からアリアドネという名で呼んだのと同じ人物なのかも知れぬ (モーリス・ブランショ)
とはいえ1955年生れのこのアリアドネは、外貌としては50歳前後の写真がもっとも美しいようにみえる・・・50歳で死んだわたくしの母は齢をとらないのである・・・母とはまだ若く美しいままで死ぬべきではなかろうか?