このブログを検索

2017年10月12日木曜日

精神分析的な読書の類型学

ロラン・バルトは、読書の(快楽の)類型学をめぐって次のように記している。

人は、読書の快楽のーーあるいは、快楽の読書のーー類型学を想像することができる。

それは社会学的な類型学ではないだろう。なぜなら、快楽は生産物にも生産にも属していないからである。それは精神分析的でしかあり得ないだろう。(⋯⋯)

フェティシストは、切り取られたテクストに、引用や慣用語や活字の細分化に、単語の快楽に向いているだろう。Le fétichiste s'accorderait au texte découpé, au morcellement des citations, des formules, des frappes, au plaisir du mot.

強迫神経症者は、文字や、入れ子細工状になった二次言語や、メタ言語に対する官能を抱くだろう L'obsessionnel aurait la volupté de la lettre, des langages seconds, décrochés, des métalangages.
(この部類には、すべての言語マニア、言語学者、記号論者、文献学者、すなわち、言語活動がつきまとうすべての者が入るだろう)。

偏執症者(パラノイア)は、ねじれたテクスト、理屈として展開された物語、遊びとして示された構成、秘密の束縛を、消費し、あるいは、生産するだろう。le paranoïaque consommerait ou produirait des textes retors, des histoires développées comme des raisonnements, des constructions posées comme des jeux, des contraintes secrètes

(強迫症者とは正反対の)ヒステリー症者は、テクストを現金として考える者、言語活動の、根拠のない、真実味を欠いた喜劇に加わる者、もはやいかなる批評的視線の主体でもなく、テクスト越しに身を投げる(テクストに身を投影するのとは全く違う)者といえるであろう。

l'hystérique (si contraire à l'obsessionnel), il serait celui qui prend le texte pour de l'argent comptant, qui entre dans la comédie sans fond, sans vérité, du langage, qui n'est plus le sujet d'aucun regard critique et se jette à travers le texte (ce qui est tout autre chose que de s'y projeter)

(ロラン・バルト『テキストの快楽』既存訳を一部変更)

バルトの類型には、たとえば「分裂病」が欠けているが、ここでは厳密さを期すつもりはなく、こういった観点はほぼ正鵠を射ているのではないか、ということを示したいために、この文を掲げた。

たぶん作家を評価したり批評したりするときにも、それぞれの類型の光学装置ーープルーストのいう「めがね」ーーによって、ある作家を顕揚したり、貶めたりすることが多いのではないか。たとえばフェティシストやパラノイア者は、強迫神経症者による書き物をおそらく評価することが少ない筈である。

プルーストは次のように書いている(バルトは熱心なプルーストの読者であり、以下の文はかならず読んで参考にしている。ドゥルーズもそのプルースト論で引用している箇所である)。

私の読者たちというのは、私のつもりでは、私を読んでくれる人たちではなくて、彼ら自身を読む人たちなのであって、私の書物は、コンブレーのめがね屋が客にさしだす拡大鏡のような、一種の拡大鏡でしかない、つまり私の書物は、私がそれをさしだして、読者たちに、彼ら自身を読む手段を提供する、そういうものでしかないだろうから。したがって、私は彼らに私をほめるとかけなすとかいうことを求めるのではなくて、私の書いていることがたしかにその通りであるかどうか、彼らが自身のなかに読みとる言葉がたしかに私の書いた言葉であるかどうかを、私に告げることを求めるだけであろう(その点に関して、両者の意見に相違を来たすこともありうる、といってもそれは、かならずしも私がまちがっていたからそういうことが起こるとはかぎらないのであって、じつはときどきあることだが、その読者の目にとって、私の書物が、彼自身をよく読むことに適していない、ということから起こるのであろう)。

本を読むとき、読者はそれぞれに自分自身を読んでいるので、それがほんとうの意味の読者である。作家の著書は一種の光学器械にすぎない。作家はそれを読者に提供し、その書物がなかったらおそらく自分自身のなかから見えてこなかったであろうものを、読者にはっきり見わけさせるのである。書物が述べていることを読者が自分自身のなかに認めることこそ、その書物が真実であるという証拠であり、すくなくともある程度、その逆もまた真なりであって、著者のテキストと読者のテキストのあいだにある食違は、しばしば著者にでなくて読者に負わせることができる。さらにつけくわえれば、単純な頭の読者にとって、書物が学問的でありすぎ、難解でありすぎることがある、そんなときはくもったレンズしかあてがわれなかったように、読者にはよく読めないことがあるだろう。しかし、それとはべつの特殊なくせ(倒錯のような)をもった読者の場合には、正しく読むために一風変わった読みかたを必要とすることもあるだろう。著者はそれらのことで腹を立てるべきではなく、むしろ逆に、最大の自由を読者に残して、読者にこういうべきである、「どれがよく見えるかあなたがた自身で見てごらん、このレンズか、あのレンズか、そちらのレンズか。」(プルースト『見出された時』井上究一郎訳)

プルーストの考え方とロラン・バルトの冒頭の考え方を混淆させて言えば、たとえば神経症者は、分裂病者や倒錯者の書き物に新しい世界が開かれた気がすることはあろうだろう。だが真に共感したり理解するところは、たとえば倒錯者が倒錯者の書き物を読んだ場合にくらべれば少ない筈である。すなわち、《読者にはよく読めないことがある》だろう。

⋯⋯⋯⋯

ここで、現在一般に精神分析的類型の区分の仕方の二つの考え方を提示しておこう。先にかかげる図が、ほぼフロイト・ラカン派の区分であり、あとの方の図は、より標準的な区分である(参照)。







わたくしが考えるには、一般的な傾向として、たとえば分裂病者は、神経症者(強迫神経症者とヒステリー症者)の書くテキストどころか、倒錯者やパラノイア者の書くテキストさえも《よく読めないことがある》はずである。

以上は「たとえば」の話であり、もっと基本的な読書の類型学(育った環境や教養等々にかかわる類型学)があるのは言うまでもない。

類型学などと言わないまでも、人はそれぞれ身体が異なり、その身体によってそれぞれの読書の快楽があるのである。

愛の形而上学の倫理……「愛の条件 Liebesbedingung」(フロイト) の本源的要素……私が愛するもの……ここで愛と呼ばれるものは、ある意味で、《私は自分の身体しか愛さない Je n'aime que mon corps》ということである。たとえ私はこの愛を他者の身体 le corps de l'autreに転移させる transfèreときにでもやはりそうなのである。(ラカン、S9、21 Février 1962)
《私の愛するもの、愛さないもの J’aime, je n'aime pas》、そんなことは誰にとっても何の重要性もない。とはいうものの、そのことすべてが言おうとしている趣意はこうなのだ、つまり、《私の身体はあなたの身体と同一ではない mon corps n'est pas le même que le vôtre》。というわけで、好き嫌い des goûts et des dégoûts を集めたこの無政府状態の泡立ち、このきまぐれな線影模様のようなものの中に、徐々に描き出されてくるのは、共犯あるいはいらだちを呼びおこす一個の身体的な謎の形象である。ここに、身体による威嚇 l'intimidation du corps が始まる。すなわち他人に対して、自由主義的に寛容に私を我慢することを要求し、自分の参加していないさまざまな享楽ないし拒絶を前にして沈黙し、にこやかな態度をたもつことを強要する、そういう威嚇作用が始まるのだ。(『彼自身によるロラン・バルト』1975年)