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2017年11月14日火曜日

マグリットと「底なしの深さのなさ」

ルネ・マグリットは、芸術家と呼ばれることを嫌った。むしろ、絵画という手段によって世界と交感する思想家と見なされるのを好んだ。(James Harknessーーフーコー『これはパイプではない』翻訳者序文、1983)

(René Magritte, La condition humaine, 1933)

部屋の内側から見える窓の前に、私は絵を置いた。その絵は、絵が覆っている風景の部分を正確に表象している。したがって絵のなかの樹木は、その背後、部屋の外側にある樹木を隠している。それは、見る者にとって、絵の内部にある部屋の内側であると同時に、現実の風景のなかの外側である。これが、我々が世界を見る仕方である。我々は己れの外側にある世界を見る。だが同時に、己れ自身のなかにある世界の表象を抱くに過ぎない。(Rene Magritte, “Life Lines”)

(René Magritte, Les Liaisons dangereuses, 1936)

文学の描写はすべて一つの眺めである。あたかも記述者が描写する前に窓際に立つのは、よくみるためではなく、みるものを窓枠そのものによって作り上げるためであるようだ。窓が景色を作るのだ。(ロラン・バルト『S/Z』)

ーー《絵画とは、他の言葉では表現することができない言語活動である。》(バルテュス(=バルタザール・クロソウスキー)

窓の枠組みの上に位置づけられた絵 un tableau qui vient se placer dans l'encadrement d'une fenêtre⋯この馬鹿げたテクニック Technique absurde⋯それは人が窓から見えるものを見ない ne pas voir ce qui se voit par la fenêtreようにすることである。(ラカン、S10、19 Décembre l962)

ラカンはこの馬鹿げたテクニックを「根本幻想 le fantasme fondamental」と呼んだ。

幻想の式 $ ◊ a の基本的な読み方は、「シニフィアンの象徴的効果によって分割された主 体 $ は、対象a と関係する」 である。

ただし対象aには両義性がある。

対象a の根源的両義性……対象a は一方で、幻想的囮/スクリーンを表し、他方で、この囮を混乱させるもの、すなわち囮の背後の空虚 void をあらわす。(Zizek, Can One Exit from The Capitalist Discourse Without Becoming a Saint? ,2016, pdf)

後者の対象aは、穴、非全体(表象の非一貫性)である。

対象aは、大他者自体の水準において示される穴である。l'objet(a), c'est le trou qui se désigne au niveau de l'Autre comme tel (ラカン、S18, 27 Novembre 1968)

他方、前者の幻想的囮としての対象aとは、穴埋めするものとしてのーー《(a)というコルク栓 bouchon de ce (a) 》(S20、09 Janvier 1973)ーー、つまりフェティッシュとしての対象aである。

フェティッシュとは、欲望が自らを支えるための条件である。 il faut que le fétiche soit là, qu'il est la condition dont se soutient le désir. (Lacan, S10、16 janvier l963)

この対象aはまた見せかけ(semblant)にもかかわる。

ジャック=アラン・ミレールによって提出された「見せかけ semblant」 の鍵となる定式がある、「我々は、見せかけを無を覆う機能と呼ぶ。Nous appelons semblant ce qui a fonction de voiler le rien」

これは勿論、フェティッシュとの繋がりを示している。フェティッシュは、見せかけが無のヴェールであるように、同様に空虚を隠蔽する、その機能は、ヴェールの背後に隠された何かがあるという錯覚を作りだすことにある。(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012,私訳)

そもそも言語自体がフェティッシュでありうる。

しかし厳密に言語自体が、我々の究極的かつ不可分なフェティッシュではないだろうかMais justement le langage n'est-il pas notre ultime et inséparable fétiche?。言語はまさにフェティシストの否認を基盤としている(「私はそれを知っている。だが同じものとして扱う」「記号は物ではない。が、同じものと扱う」等々)。そしてこれが、言語存在の本質 essence d'être parlant としての我々を定義する。その基礎的な地位のため、言語のフェティシズムは、たぶん分析しえない唯一のものである。(J. Kristeva, Pouvoirs de l’horreur, Essais sur l’abjection, 1980)


さて、ルネ・マグリットは、根本幻想に囚われている人間にとって、普段は気づかない幻想的囮/スクリーンを描くことによって、逆に穴(非全体 pastout)としての原対象aを示そうとしたと言いうる。根本幻想とは、まさにマグリットの画題「人間の条件 La condition humaine」であり、ラカンのいう「欲望を支える条件 la condition dont se soutient le désir」である。


(La reproduction interdite、1937)


そもそも欲望の主体とは、実は、幻想の主体、根本幻想の主体のことである。

欲望の主体というものはない il n 'y a pas de sujet du désir。あるのは幻想の主体 Il y a le sujet du fantasme 、つまりある対象によって引きおこされた主体の分裂、対象によって覆われた主体の分裂、より正確にいえば、この対象 l'objet petit aとは、その場所が原因というカテゴリーによって主体の中で占められるような対象なのだが、こうした対象によって覆われた主体の分裂である。

この対象は、哲学的考察には欠如しており、そのために哲学的考察は自らを位置づけることができなくなっている、つまり、自らが無意味であることを隠している。 (ラカン、哲学科の学生への返答 REPONSES A DES ETUDIANTS EN PIDLOSOPFIE,1966)

絵画における対象aとは、なによりもまず眼差しである。そしてこの眼差しは、絵のなかにある。

確かに絵は、私の目のなかにある。だが私自身、この私もまた、絵のなかにある。le tableau, certes est dans mon oeil, mais moi je suis dans le tableau. (ラカン、S11、04 Mars 1964)

ーーこの文では、眼差しという語は出現していないが、《目と眼差し L’œil et le regard》を対比させるなかで 《絵のなかのシミ tache dans le tableau》 としての眼差しが語られている文脈のなかにある。

ラカンは指摘している、我々の「現実の経験」の一貫性は、現実から対象a を締め出すことにのみ依拠している、と。我々が正常な「現実へのアクセス」をするためには、何かが締め出されなければならない。「原抑圧」されていなければならない。精神病においては、この締め出しはなされていない。対象(この場合、眼差し、あるいは声)は現実のなかに含まれる。この結果は、我々の「現実の感覚」の崩壊、「現実の喪失」である。(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012,私訳)

対象a を締め出さなければ、精神病的「現実の感覚」の崩壊が起こる、とある。これは「欠如の欠如」にかかわる。 現実界には、《欠如が欠けている le manque vient à manquer》(S10、28 Novembre l962)、

マグリットのいくつかの絵を眺めると、「現実の喪失」という不安が起こらないだろうか?  《不安を引き起こすのは対象の欠如ではない。反対に、われわれが対象に近づきすぎて欠如そのものを失ってしまいそうな危険が、不安を引き起こす。》(ジジェク『斜めから見る』1991)

欠如の欠如が現実界を作る。Le manque du manque fait le réel(Lacan、1976 AE.573)

このラカンの表現は、《底なしの深さのなさの中にとらえられる》(宮川淳「ルネ・マグリットの余白に」)と相同的でありうる。


(René Magritte, La Tentative de l'impossible ,1928)

表象は「すべてではない」。表象は非全体 pastout である。表象が非全体なのは、主体の刻印のためである。表象自体の領野のなかに、主体にとっての何かが代理されているのだが、その主体の刻印のためである。(ムラデン・ドラ―2016, Mladen Dolar, Anamorphosis, pdf