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2017年12月7日木曜日

男女の「愛の条件」

愛することは、愛されたいということである」で、一応メモしたけどさ、あんまり難しいこと考えないで次の文でいいんだよ。

ーーわたしたちは偶然に彼や彼女を見出すのではありません。どうしてあの男なのでしょう? どうしてあの女なのでしょう?

それはフロイトが Liebesbedingung と呼んだものです、すなわち愛の条件 la condition d'amour、欲望の原因 la cause du désir(対象a) です。これは固有の特徴 trait particulier なのです。あるいはいくつかの特徴の組合せといってもいいでしょう。それが愛される人を選ぶ決定的な働きをするのです。これは神経科学ではまったく推し量れません。というのはそれぞれの人に特有なものだからです。彼らの風変わりで内密な個人的歴史にかかわります。この固有の特徴はときには微細なものが効果を現わします。たとえば、フロイトがある患者の欲望の原因として指摘したのは、女性の「鼻のつや Glanz auf der Nase」でした。
――そんなつまらないもので生まれる愛なんて全然信じられない!

無意識の現実 La réalité de l'inconscient はフィクションを上回ります。あなたには思いもよらないでしょう、いかに人間の生活が、特に愛にかんしては、ごく小さなもの、ピンの頭、《神の宿る細部 divins détails》によって基礎づけられているかを。

とりわけ男たちには、そのようなものが欲望の原因として見出されるのは本当なのです。フェティッシュのようなものが愛の進行を閃き促すのです。ごく小さな特異なもの、父や母の想起、あるいは兄弟や姉妹、あるいは幼児期における誰かの想起もまた、愛の対象としての女性の選択に役割をはたします。

でも女性の愛のあり方は、フェティシストというよりももっと被愛妄想的 érotomaniaqueです。女性は愛されたい veulent être aimées のです。愛と関心、それは彼女たちに示されたり、彼女たちが他のひとに想定するものですが、女性の愛の引き金をひくために、それらはしばしば不可欠なものです。(ミレール、2010, On aime celui qui répond à notre question : " Qui suis-je ? " Jacques-Alain Miller)

男性の愛の《フェティッシュ形式 la forme fétichiste》 /女性の愛の《被愛妄想形式 la forme érotomaniaque》(E733)ってラカンは言ってるけどさ、ニーチェの《男の幸福は、「われは欲する」である。女の幸福は、「かれは欲する」である。》(『ツァラトゥストラ』)だっていいさ。

もちろん最近は男も女性化してんだから、男のなかには「彼女は欲する」ってのがいいヤツがいっぱいいるかもしれない。父なき時代は、《女性への推進力 pousse-à-la-femme》(ラカン、エトゥルディ、1972)の時代だからな(女性への推進力、男性への推進力)。

オレは愛なんて何なのかなんてわからんね、わからんからメモってるだけさ。ま、たぶんおおむねそんなんだろうっていう程度さ、人によって違うし、男や女のなかにもいろいろある。

なんで男女の相違がそうなるのか、ってのもおおむねたぶん次のようだろう、ってだけだな。

男児はジェンダー的な意味での最初の愛の対象を維持できる。彼はただ母を他の女性に取り替えるだけでよい。…

反対に、女児は愛の対象のジェンダーを取り替えなければならない。具体的にいえば、最初の愛の対象であった母を父に取り替えなければならない。最初の愛の関係の結果、女の子はいままでどおり母に同一化しており、それゆえ父が母に与えたのと同じような愛を父から期待する。…

この少女たちの愛の対象の変換の最も重要な帰結は、彼女たちは関係性それ自体により多く注意を払うようになるということである。(ポール・バーハウ1998、THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE、Paul Verhaeghe)