この語が(愛 Liebe )がこれほど頻繁にくりかえされてしかるべきものとは思えなかった。それどころか、この二音綴は、まことにいとわしきものと思えるのだった。水っぽいミルクとでもいうか、青味を帯びた白色の、なにやら甘ったるいしろもののイメージに結びついていた 。(トーマス・マン『魔の山』)
ロラン・バルトは、『恋愛のディスクール』(1977)の「愛のみだらさ L'obscène de l'amour」の項で、このトーマス・マンの文を引用しつつも、次のように記している。
・歴史的転倒。今や下品とされるものは性的なものではない。実際にはそれもまた別の道徳にほかならぬものによって非難された感傷性 la sentimentalité こそが、下品なのである。
・あらゆる侵犯行為に対して社会が課す税金は、今日、セックスよりはむしろ情愛 passion の方に重い。Xが性生活について「深刻な問題」をかかえているのであれば、誰もが理解を示してくれるだろう。しかし、Yがその感傷的情熱についてかかえている問題には、誰ひとり関心をもとうとしない。恋愛がみだらなのは、それが、セックスのかわりに感傷をおこうとするからである。
・「わたしたち二人 Nous deux」――雑誌のタイトルーーは、サドにもましてみだらである。
・現代の世論は恋愛の感傷性ということに冷淡である。恋愛主体はこの感傷性を、わが身ひとりを衆人環視の中にさらすたぐいの、強度な侵犯行為として引き受けざるをえなくなっている。つまり、ある種の価値転倒により、今日では、この感傷性こそが愛のみだらさをなしているのである。(ロラン・バルト『恋愛のディスクール』)
『恋愛のディスクール』の序文にはこう書かれている。
『恋愛のディスクール・断章』⋯⋯⋯このような書物が必要とされるについては、恋愛にかかわるディスクール(愛の言説 discours amoureux)が今日、極度の孤立状態におかれているという考察があった。このディスクールは、おそらくは幾千幾万の人びとによって語られているだろう(本当のところは知りようもないが)。しかし、これを公然と宣揚する者はひとりとしていない。恋愛のディスクールは、これをとりまくもろもろの言語活動から完全に見捨てられている。無視され、軽んじられ、嘲弄され、権力はおろかその諸機制(科学、知、芸術)からも遮断されてしまっている。このように、一個のディスクールが、その本性ゆえに、現実ばなれしたものとしての漂流状態 la dérive de l'inactuel に陥り、集団性の埒外へと運び出されるとき、かかるディスクールに残されているのは、もはや、ひとつの確認の場(いかに狭小なものであれ)となることでしかない。要するに、そうした確認のことが、ここに始まる書物の主題なのである。(ロラン・バルト『恋愛のディスクール』)
上にあるようにバルトの『恋愛のディスクール』(1977)は、「無視され、軽んじられ、嘲弄され、諸機制(科学、知、芸術)からも遮断されてしまっている」愛の言説のささやかな確認の書であるが、さらに言えば、ある意味で「愛の言説」の顕揚の書でもある。
つまりは、20世紀のある時期以降、ラカン的には「資本の言説」(資本家の言説 discours capitaliste)の時代以降、《単純に「愛の問題 les choses de l'amour」は脇に遣られている》(ラカン, Le savoir du psychanalyste » 1972)のであり、その時代の潮流への抵抗の書である、と言いうる(参照:「科学精神」という魂の墓場)。
さらにここでニーチェを引用しよう。
・反時代的な様式で行動すること、すなわち時代に逆らって行動することによって、時代に働きかけること、それこそが来たるべきある時代を尊重することであると期待しつつ。
・世論と共に考えるような人は、自分で目隠しをし、自分で耳に栓をしているのである。(ニーチェ『反時代的考察』)
いま反時代的に行動するためには、「愛のみだらさ」を語らねばならない。セックスなどなんの猥褻さもない。
ーーと、さる方にエアリプを送っておこう、あなたはとてもニーチェ的である、と。
現在に抗して過去を考えること。回帰するためでなく、「願わくば、来たるべき時のために」(ニーチェ)現在に抵抗すること。つまり過去を能動的なものにし、外に出現させながら、ついに何か新しいものが生じ、考えることがたえず思考に到達するように。思考は自分自身の歴史(過去)を考えるのだが、それは思考が考えていること(現在)から自由になり、そしてついには「別の仕方で考えること」(未来)ができるようになるためである。(ドゥルーズ『フーコー』)
(ボクもそれなりに愛のみだらさを書こうとしてきたんだけど、あなたにはまったくかなわないよ。)
朝礼で整列している時に、隣りにいるまぶしいばかりの少女に少年が覚えるような羞恥と憧憬と、近しさと距離との同時感覚(中井久夫)
処女にだけ似つかわしい種類の淫蕩さというものがある。それは成熟した女の淫蕩さとはことかわり、微風のように人を酔わせる。(三島由紀夫)
ーーちょっとこれ以上は書けないね、残念だけど。身近な赤鬼による怒涛の検閲の身でね
《人が愛するとき、それは性とは全く関係がない。 quand on aime, il ne s'agit pas de sexe》(ラカン、S20, December 19, 1972)
女性が改悪した自然の力が女性に反対して、女性によって解放されるであろう。この力とは死の力である。Une force naturelle que la femme avait altérée va se libérer contre la femme et par la femme. Cette force est une force de mort.
それは性の暗い貪欲さを持っている。それが呼び覚まされるのは女性によってであるが、統率されるのは男性によってである。男性から切除された女性なるもの、かつて女性が踏みにじった男性たちの鎖に繋がれた優しさがあの日一人の処女を復活させたのだ。しかしそれは身体なき処女、性なき処女であって、ただ精神のみが彼女を利用できるのである。
ELLE A LA RAPACITÉ TÉNÉBREUSE DU SEXE. C’EST PAR LA FEMME QU’ELLE EST PROVOQUÉE MAIS C’EST PAR L’HOMME QU’ELLE EST DIRIGÉE. LE FÉMININ MUTILÉ DE L’HOMME, LA TENDRESSE ENCHAÎNÉE DES HOMMES QUE LA FEMME AVAIT PIÉTINÉE ONT RESSUSCITÉ CE JOUR-LÀ UNE VIERGE. MAIS C’ÉTAIT UNE VIERGE SANS CORPS, NI SEXE, ET DONT L’ESPRIT SEUL PEUT PROFITER.(アルトー存在の新たなる啓示』)