2018年1月18日木曜日

ララング定義集

リトルネロとしてのララング lalangue comme ritournelle (Lacan、S21,08 Janvier 1974)
ここでニーチェの考えを思い出そう。小さなリフレインpetite rengaine、リトルネロritournelleとしての永遠回帰。しかし思考不可能にして沈黙せる宇宙の諸力を捕獲する永遠回帰。(ドゥルーズ&ガタリ、MILLE PLATEAUX, 1980)

ーーフロイトにとって永遠回帰とは、快原理の彼岸にある反復強迫 Wiederholungszwang、運命強迫 Schicksalszwang だった。そしてニーチェの傍らにいたルー・アドレアス・サロメにとっても、《生の永遠回帰の確実性はひどく恐ろしい「不気味なunheimliche」何ものか》(1894年)とした(参照)。

心的無意識のうちには、欲動の蠢き Triebregungen から生ずる反復強迫Wiederholungszwanges の支配が認められる。これはおそらく欲動の性質にとって生得的な、快原理を超越 über das Lustprinzip するほど強いものであり、心的生活の或る相にデモーニッシュな性格を与える。この内的反復強迫 inneren Wiederholungszwang を想起させるあらゆるものこそ、不気味なもの unheimlich として感知される。(フロイト『不気味なもの』1919)

不気味なものとは、ラカン派用語では外密のことである。

外密 Extimité は親密 intimité の反対ではない。それは最も親密なもの le plus intimeでさえある。外密は、最も親密でありながら、外部 l'extérieur にある。それは、異物 corps étranger のようなものである(ミレール、Miller Jacques-Alain, 1985-1986, Extimitéーー「ひとりの女とは何か?」)

クロソウスキーは、永遠回帰は至高の欲動だ、と言った。

・永遠回帰 L'Éternel Retour …回帰 le Retour は権力への意志の純粋メタファー pure métaphore de la volonté de puissance以外の何ものでもない。

・しかし権力への意志 la volonté de puissanceは…至高の欲動 l'impulsion suprême のことではなかろうか?(クロソウスキー『ニーチェと悪循環』1969年)

ララング lalangue は至高の欲動、あるいは《欲動の根 Triebwurzel》 (フロイト『終りある分析と終りなき分析』)にかかわる。

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◆コレット・ソレール2009
ラカンはララング を次のように説明する。すなわち、ララング lalangueは、“lallation 喃語”と同音的である。“Lallation”はラテン語の lallare から来ており、辞書が示しているのは、“la, la”と歌うことにより、幼児を寝かしつけることである。この語はまた幼児の「むにゃむにゃ語」をも示している。まだ話せないが、すでに音声を発することである。「Lallation 喃語」は、意味から分離された音声である。が、我々が知っているように、非意味であるにもかかわらず、幼児の満足状態からは分離されていない。(コレット・ソレール2009、Colette Soler、L'inconscient Réinventé )


◆Antonio Quinet、2017
ラカンによれば、ララングは単に言語秩序に属するのではない。ララングは享楽から来る。ララングは謎の情動の源泉である。

ララングのなかに含まれる享楽、それは人間存在のなかに、リズミカルな高揚・刻印・楔を置き残す強烈な効果を伴う。

人はそれぞれ、このララングの謎の圧倒的な音のシャワーによって、熱に浮かされトラウマ化される。

ラカンのトラウマとは、ララングの享楽との最初の遭遇である限りで、フロイトの性的(欲動的)トラウマと密接な関係がある。(Antonio Quinet、Lacan's Clinical Technique: Lack(a)nian Analysis、2017)


◆コレット・ソレール2009

ララングは享楽を情動化する。…ララング Lalangue は象徴界的 symbolique なものではなく、現実界的 réel なものである。現実界的というのはララングはシニフィアンの連鎖外 hors chaîne のものであり、したがって意味外 hors-sens にあるものだから(シニフィアンは、連鎖外にあるとき現実界的なものになる
 le signifiant devient réel quand il est hors chaîne)。そしてララングは享楽と謎の混淆をする。…ララングは意味のなかの穴であり、トラウマ的である。…ラカンは、ララングのトラウマをフロイトの性のトラウマに付け加えた。(コレット・ソレール2009、Colette Soler、L'inconscient Réinventé )
現実界の症状、それは意味から切断されているが、言語からは切断されていない。現実界の症状は、「言葉の物質性 motérialité」と享楽との混淆であり、享楽される言葉あるいは言葉に移転された享楽にかかわる。(同上ソレール、L'inconscient Réinventé )


◆ジャック=アラン・ミレール、1998、2012、2011
真のトラウマの核は、誘惑でも、去勢の脅威でも、性交の目撃でもない。…エディプスや去勢ではないのだ。真のトラウマの核は、言葉 la langue(≒ララング)との関係にある。(ミレール、1998 "Joyce le symptôme" )
身体における、ララングとその享楽の効果との純粋遭遇 une pure rencontre avec lalangue et ses effets de jouissance sur le corps(ミレール、2012、Présentation du thème du IXème Congrès de l'AMP par JACQUES-ALAIN MILLER
身体の出来事は、トラウマの審級にある。衝撃、不慮の出来事、純粋な偶然の審級に。événement de corps…est de l'ordre du traumatisme, du choc, de la contingence, du pur hasard

…この享楽は、固着の対象である。elle est l'objet d'une fixation

…女性の享楽は、純粋な身体の出来事である。la jouissance féminine est un pur événement de corps ジャック=アラン・ミレール 、Miller, dans son Cours L'Être et l'Un 、2011)

《症状は身体の出来事である。le symptôme à ce qu'il est : un événement de corps》(ラカン、JOYCE LE SYMPTOME,AE.569、16 juin 1975)

ーーこの「症状 symptôme」は、「サントーム sinthome」のことである。

サントームは身体の出来事として定義される Le sinthome est défini comme un événement de corps (ミレール, Fin de la leçon 9 du 30 mars 2011)


◆Pierre-Gilles Guéguen、2016、2013
肉の身体は、生の最初期に、ララングによって穴が開けられる。我々は、セクシャリティが問題になる時はいつでも、この穴=トラウマの谺を見出す。サントームの身体、肉の身体、存在論的身体はつねに自閉症的享楽・非共有的享楽を示す。

le corps de chair est troué par Lalangue, très tôt dans la vie et qu'on retrouvera les échos de ce troumatisme à chaque fois que la sexualité sera en jeu. Le corps du sinthome, le corps de chair, le corps existentiel, renvoie toujours à une jouissance autiste et non partageable.(ピエール=ジル・ゲガーンPierre-Gilles Guéguen, Au-delà du narcissisme, le corps de chair est hors sens, 2016)
ラカンは言語の二重の価値を語っている。肉体をもたない意味 sens qui est incorporel と言葉の物質性 matérialité des mots である。後者は器官なき身体 corps sans organe のようなものであり、無限に分割されうる。そして二重の価値は、相互のあいだの衝撃 choc によってつながり合い、分裂病的享楽 jouissance schizophrèneをもたらす。こうして身体は、シニフィアンの刻印の表面 surface d'inscription du signifiantとなる。そして(身体外の hors corps)シニフィアンは、身体と器官のうえに享楽の位置付け localisations de jouissance を切り刻む。(LE CORPS PARLANT ET SES PULSIONS AU 21E SIÈCLE、 « Parler lalangue du corps », de Éric Laurent Pierre-Gilles Guéguen,2016, PDF
身体の享楽は自閉症的である。愛と幻想のおかげで、我々はパートナーと関係を持つ。だが結局、享楽は自閉症的である。(Report on the ICLO-NLS Seminar with Pierre-Gilles Guéguen, 2013)


◆コレット・ソレール、2011
最初期、われわれの誰にとっても、ララング lalangue は音声媒体 médium sonore から来る。幼児は、他者が彼(女)に向けて話しかける言説のなかに浸されている。子供の身体を世話することに伴う「母のララング lalangue maternelle」はこの幼児を情動化する。あらゆることが示しているのは、母の声による情動は意味以前のものであるということである。差分的要素 élément différentiel は言葉ではなく、どんな種類の意味も欠けている音素 phonèmeである。母のララングの谺である子供の片言ーーあるいは喃語 lalationーーは、音声と満足とのあいだの連結を証している。それはあらゆる言語学的統辞や意味の獲得に先立っている。ラカンは強調している、前言葉 préverbal 段階のようなものはない、だが前言説的 prédiscursif 段階はある、と。というのはララング lalangue は言語 language ではないから。

ララングは習得されない。ララングlangageは、幼児を音声・リズム・沈黙の蝕éclipse等々で包む。ララングlangageが、「母の言葉 la dire maternelle」と呼ばれることは正しい。というのは、ララングは常に(母による)最初期の世話に伴う身体的接触に結びついている liée au corps à corps des premiers soins から。フロイトはこの接触を、引き続く愛の全人生の要と考えた。

ララングは、脱母化 dématernalisants をともなうオーソドックスな言語の習得過程のなかで忘れられゆく。しかし次の事実は残ったままである。すなわちララングの痕跡が、最もリアルなーー意味外のーー無意識の核 le noyau le plus réel - hors sens - de l'inconscient を構成しているという事実。したがってわれわれの誰にとっても、言葉の錘りは、言語の海への入場の瞬間から生じる、身体と音声のエロス化 érotisation の結び目に錨をおろしたままである. (コレット・ソレール Colette Soler, Les affects lacaniens, 2011)

ーー《〈母〉、その底にあるのは、「原リアルの名 le nom du premier réel」である。それは、「母の欲望 Désir de la Mère」であり、シニフィアンの空無化 vidage 作用によって生み出された「原穴の名 le nom du premier trou 」である。》(コレット・ソレール、C.Soler « Humanisation ? »2013-2014セミネール)

「原リアルの名 le nom du premier réel」「原穴の名 le nom du premier trou 」とは、原トラウマの名のことである。


◆Geneviève Morel 2009、2005
我々は、母の言葉(ララング)のなかで、話すことを学ぶ。この言語への没入によって形づくられ、我々は、母の欲望のなかに欲望の根をめぐらせる。そして、話すことやそのスタイルにおいてさえ、母の欲望の刻印、母の享楽の聖痕を負っている。これらの徴だけでも、すでに我々の生を条件づけ、ある種の法を構築さえしうる。もしそれらが別の原理で修正されなかったら。( Geneviève Morel 2009, Fundamental Phantasy and the Symptom as a Pathology of the Law)
サントームは、母の言葉に起源がある。話すことを学ぶ子供は、この言葉と母の享楽によって生涯徴づけられたままである。Le sinthome est enraciné dans la langue maternelle. L'enfant qui apprend à parler reste marqué à vie à la fois par les mots et la jouissance de sa mère

これは、母の要求・欲望・享楽、すなわち「母の法」への従属化をもたらす Il en résulte un assujettissement à la demande, au désir et à la jouissance de celle-ci, « la loi de la mère »。が、人はそこから分離しなければならない。

この「母の法」は、「非全体」としての女性の享楽の属性を受け継いでいる。それは無限の法である。Cette loi de la mère hérite des propriétés de la jouissance féminine pas-toute : c’est une loi illimitée.(ジュヌヴィエーヴ・モレル Geneviève Morel, Sexe, genre et identité : du symptôme au sinthome, 2005)

以上より、少し前提示した図(参照:女性の享楽と現勢神経症)に、(「言語内の享楽」に対する)「ララングの享楽」を付記できるだろう。



ララングは固有名の核である (Bernard Nomine、2015
単語の記憶というものがf記憶的(フラシュバック記憶的)なのであろう。(中井久夫「記憶について」1996年初出『アリアドネからの糸』所収)
PTSDに定義されている外傷性記憶……それは必ずしもマイナスの記憶とは限らない。非常に激しい心の動きを伴う記憶は、喜ばしいものであっても f 記憶(フラッシュバック的記憶)の型をとると私は思う。しかし「外傷性記憶」の意味を「人格の営みの中で変形され消化されることなく一種の不変の刻印として永続する記憶」の意味にとれば外傷的といってよいかもしれない。(中井久夫「記憶について」1996年)



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※附記

ララング≒喃語、ララング=言葉の物質性 motérialitéとの記述があった。

中井久夫のララング論」から一部再引用する。


【「もの」としての言葉】
言語リズムの感覚はごく初期に始まり、母胎の中で母親の言語リズムを会得してから人間は生れてくる。喃語はそれが洗練されてゆく過程である。さらに「もの」としての発語を楽しむ時期がくる。精神分析は最初の自己生産物として糞便を強調するが、「もの」としての言葉はそれに先んじる貴重な生産物である。成人型の記述的言語はこの巣の中からゆるやかに生れてくるが、最初は「もの」としての挨拶や自己防衛の道具であり、意味の共通性はそこから徐々に分化する。もっとも、成人型の伝達中心の言語はそれ自体は詰まらない平凡なものである。(中井久夫「「詩の基底にあるもの」―――その生理心理的基底」初出1994年『家族の深淵』所収)


【喃語】
言語発達は、胎児期に母語の拍子、音調、間合いを学び取ることにはじまり、胎児期に学び取ったものを生後一年の間に喃語によって学習することによって発声関連筋肉および粘膜感覚を母語の音素と関連づける。要するに、満一歳までにおおよその音素の習得は終わっており、単語の記憶も始まっている。単語の記憶というものがf記憶的(フラシュバック記憶的)なのであろう。そして一歳以後に言語使用が始まる。しかし、言語と記憶映像の結び付きは成人型ではない。(中井久夫「記憶について」1996年初出『アリアドネからの糸』所収)


もちろん人はここで、アルトーの 「舌語・異言 glossolalie(グロソラリ)」等を想起することもできるだろう)。

…いまや勝利を得るには、語-息、語-叫びを創設するしかない。こうした語においては、文字・音節・音韻に代わって、表記できない音調だけが価値をもつ。そしてこれに、精神分裂病者の身体の新しい次元である輝かしい身体が対応する。これはパーツのない有機体であり、吸入・吸息・気化・流体的伝動によって、一切のことを行なう(これがアントナン・アルトーのいう卓越した身体、器官なき身体である)。(ドゥルーズ『意味の論理学』「第十三セリー」1969年)


ドゥルーズ&ガタリは、リトルネロについて次のように記している。

リロルネロは三つの相をもち、それを同時に示すこともあれば、混淆することもある。さまざまな場合が考えられる(時に、時に、時に tantôt, tantôt, tantô)。時に、カオスが巨大なブラックホールとなり、人はカオスの内側に中心となるもろい一点を設けようとする。時に、一つの点のまわりに静かで安定した「外観 allure」を作り上げる(形態 formeではなく)。こうして、ブラックホールはわが家に変化する。時に、この外観に逃げ道を接ぎ木して、ブラックホールの外にでる。

La ritournelle a les trois aspects, elle les rend simultanés, ou les mélange : tantôt, tantôt, tantôt. Tantôt, le chaos est un immense trou noir, et l'on s'efforce d'y fixer un point fragile comme centre. Tantôt l'on organise autour du point une « allure » (plutôt qu'une forme) calme et stable : le trou noir est devenu un chez-soi. Tantôt on greffe une échappée sur cette allure, hors du trou noir.(ドゥルーズ&ガタリ『千のプラトー』)

ブラックホールという用語が出てきているが、ラカン派においては、上に示した図に現れる右の項のS(Ⱥ)とは、ブラックホールを表すマテームでもある。




あなたを吸い込むヴァギナデンタータ、究極的にはすべてのエネルギーを吸い尽すブラックホールとしてのS(Ⱥ) の効果。(ポール・バーハウ1999、PAUL VERHAEGHE ,DOES THE WOMAN EXIST?)

S(Ⱥ)とは、穴Ⱥ(トラウマ)のシニフィアン、フロイトの欲動のシニフィアン、原抑圧(原固着)のシニフィアン(ラカンのサントーム)である(詳細参照:S(Ⱥ)、あるいは欠如と穴)。

S(Ⱥ)、すなわち「斜線を引かれた大他者のシニフィアン S de grand A barré」。これは、ラカンがフロイトの欲動を書き換えたシンボル symbole où Lacan transcrit la pulsion freudienne である。(ミレール、Jacques Alain Miller, 6 juin 2001, LE LIEU ET LE LIEN, pdf)
ラカンは後期の教えにおける⋯⋯穴Ⱥとは、欠如とは対照的に、秩序の消滅・場の秩序の消滅 disparition de l'ordre, de l'ordre des places を意味する。穴は、組合せ規則の場処自体の消滅である Le trou comporte la disparition du lieu même de la combinatoire。これが、斜線を引かれた大他者 grand A barré (Ⱥ) の最も深い価値である。ここで、Ⱥ は大他者のなかの欠如を意味しない Grand A barré ne veut pas dire ici un manque dans l'Autre 。そうではなく、Ⱥ は大他者の場における穴 à la place de l'Autre un trou、組合せ規則の消滅 disparition de la combinatoire である。

穴との関係において、外立がある il y a ex-sistence。それは、剰余の正しい位置 position propre au resteであり、現実界の正しい位置 position propre au réel、すなわち意味の排除 exclusion du sensである。(ジャック=アラン・ミレール、後期ラカンの教えLe dernier enseignement de Lacan, LE LIEU ET LE LIEN , Jacques Alain Miller Vingtième séance du Cours, 6 juin 2001)
欠如とは空間的で、空間内部の空虚 void を示す。他方、穴はもっと根源的で、空間の秩序自体が崩壊する点(物理学の「ブラックホール」のように)を示す。(ミレール、2006,Jacques‐Alain Miller, “Le nom‐du‐père, s'en passer, s'en servir)

最後に『千のプラトー』における最も美しい文のひとつ(「リトルネロについて」の章の冒頭)を掲げておこう。

暗闇に幼い児がひとり。恐くても、小声で歌をうたえば安心だ。子供は歌に導かれて歩き、立ちどまる。道に迷っても、なんとか自分で隠れ家を見つけ、おぼつかない歌をたよりにして、どうにか先に進んでいく。歌とは、いわば静かで安定した中心の前ぶれであり、カオスのただなかに安定感や静けさをもたらすものだ。子供は歌うと同時に跳躍するかもしれないし、歩く速度を速めたり、緩めたりするかもしれない。だが歌それ自体がすでに跳躍なのだ。歌はカオスから跳び出してカオスの中に秩序を作りはじめる。しかし、歌には、いつ分解してしまうかもしれぬという危険もあるのだ。アリアドネの糸はいつも一つの音色を響かせている。オルペウスの歌も同じだ。(ドゥルーズ&ガタリ『千のプラトー』)

◆Bernarda Fink, Monteverdi, l'incoronazione di Poppea, "Adagiati, Poppea - Oblivion soave(すべてをお忘れなさい)" (Arnalta)



ーーアリアドネの小声の歌は、冥界を彷徨っている(参照:アリアドネのたたり

もし人が個性を持っているなら、人はまた、常に回帰する己れの典型的経験 typisches Erlebniss immer wiederkommt を持っている。(ニーチェ『善悪の彼岸』70番)

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※追記

最晩年のラカンはララングについて次のように言っている。

想像界の身体がある。
象徴界の身体がある。それはララング lalangue である。
現実界の身体がある。我々はこれについて如何に生ずるのか分からない。

il y a :
- un corps de l'Imaginaire,
- un corps du Symbolique, c'est lalangue,
- et un corps du Réel dont on ne sait pas comment il sort. (Lacan, S24、16 Novembre 1976)

さらに同じセミネール24で《ララングは…現実界を作る faire-réel》(19 Avril 1977)、《ララングは、現実界的なもの le Réel ment だろうか? 》(10 Mai 1977)ともある。