ところで昨晩、1961年生れの塩田明彦ーーボクより三つ下だーーとはどんな人なのだろうと、彼の過去の作品『月光の囁き』(1999年)を観てみた(ネット上のものであり画質は悪い)。
ここには風に濡れた女の「間宮夕貴」のラルヴァ(幼虫)である「つぐみ」がいる。
ここには風に濡れた女の「間宮夕貴」のラルヴァ(幼虫)である「つぐみ」がいる。
以下のものはtraillerである。
◆Trailer - 月光の囁き (1999) 塩田明彦
ーーいやあ胸キュンである。なによりもまず少女と自転車! (ボクの場合は高校時代ではなく、中学生時代だが)。
「つぐみ」は、塩田明彦のアナベルである。 「間宮夕貴」はつぐみの転生である。ボクはほとんどそう断言したいぐらいだ。
ああ、ゆらめく閃光! 沈黙のなかの叫び! ああ、この稲妻!
フロイトは言っている、 《同情は、同一化によって生まれる das Mitgefühl entsteht erst aus der Identifizierung》(『集団心理学と自我の分析)
…あのときのミモザの茂み、靄に包まれた星、疼き、炎、蜜のしたたり、そして痛みは記憶に残り、浜辺での肢体と情熱的な舌のあの少女はそれからずっと私に取り憑いて離れなかった──その呪文がついに解けたのは、24年後になって、アナベルが別の少女に転生したときのことである。(ナボコフ『ロリータ』)
「つぐみ」は、塩田明彦のアナベルである。 「間宮夕貴」はつぐみの転生である。ボクはほとんどそう断言したいぐらいだ。
ああ、ゆらめく閃光! 沈黙のなかの叫び! ああ、この稲妻!
・それは鋭いが覆い隠され、沈黙のなかで叫んでいる。奇妙に矛盾した言い方だが、それはゆらめく閃光 un éclair qui flotte なのである。
・ある一つの細部が、私の読み取りを完全に覆してしまう。それは関心の突然変異であり、稲妻 fulgurationである。
・ある何ものかが一閃して quelque chose a fait tilt、私の心に小さな震動を、悟りを、無の通過を生ぜしめたのである。(ロラン・バルト『明るい部屋』)
フロイトは言っている、 《同情は、同一化によって生まれる das Mitgefühl entsteht erst aus der Identifizierung》(『集団心理学と自我の分析)
そして《対象人物 Objektperson の一つの特色 einzigen Zug (一の徴)だけ》に同一化することにより、ただそれだけで対象への愛が生まれる場合がある。「月光の囁き」におけるそれは、自転車に乗る少女に魂を奪われる少年だった。
ああ、神々しいトカゲ!
軽やかな音もなく走りすぎていくものたち、 わたしが神々しいトカゲ göttliche Eidechsen と名づけている瞬間(ニーチェ『この人を見よ』)
さて何がいいたいのだったか?
誰しも幼少年期の傷の後遺はある。感受性は深くて免疫のまだ薄い年頃なので、傷はたいてい思いのほか深い。はるか後年に、すでに癒着したと見えて、かえって肥大して表れたりする。しかも質は幼年の砌のままで。(古井由吉「幼少の砌の」『東京物語考』)
そうそう、あれは肥大して表れるのである。「しかも質は幼年の砌のままで」。
あれってのは、これにきまってる。
ーーここには「蚊居肢子」のすべてがある!
外傷的事件の強度も、内部に維持されている外傷性記憶の強度もある程度以下であれば「馴れ」が生じ「忘却」が訪れる。あるいは、都合のよいような改変さえ生じる。私たちはそれがあればこそ、日々降り注ぐ小さな傷に耐えて生きてゆく。ただ、そういうものが人格を形成する上で影響がないとはいえない。
しかし、ある臨界線以上の強度の事件あるいはその記憶は強度が変わらない。情況によっては逆耐性さえ生じうる。すなわち、暴露されるごとに心的装置は脆弱となり、傷はますます深く、こじれる。(中井久夫「トラウマとその治療経験」『徴候・記憶・外傷』所収)
ああ、ダメだ、もうダメだ、イタイ、イタイ、イタイヨ~
中也の「朝の歌」を変奏しようと思ったが、いまはその力もない・・・
天井に 朱きいろいで
戸の隙を 洩れ入る光、
鄙びたる 軍楽の憶い
手にてなす なにごともなし。
小鳥らの うたはきこえず
空は今日 はなだ色らし、
倦んじてし 人のこころを
諫めする なにものもなし。
樹脂の香に 朝は悩まし
うしないし さまざまのゆめ、
森竝は 風に鳴るかな
ひろごりて たいらかの空、
土手づたい きえてゆくかな
うつくしき さまざまの夢。
◆Moonlight Whispers
なにはともあれ、ボクと「つぐみ」は14才のとき、故郷の町のこの並木道を走り抜けたのである。「うしないし さまざまのゆめ、/森竝は 風に鳴るかな」