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2018年3月1日木曜日

ソフト帽と涙

蓮實重彦は、ゴダールの「ソフト帽」について、いわゆる「主題論的」な説明をしている。

ゴダールの作品を初期から見てきた者なら、そこにある対象が繰り返し画面に現れていることに気づくだろう。言うまでもなく、女性の頭を被う「ソフト帽」である。1960年代のゴダールは、女性に「ソフト帽」を被らせなければ、映画が撮れない病理学的な存在なのである。まず処女作『勝手にしやがれ』(1959)を見てみよう。ホテルの一室のベッドの上でジーン・セバーグとジャン=ポール・ベルモンドが語らうシーンで、セバーグは「ソフト帽」を自分の頭の上に載せる。これはこの作品において最も感動的なシーンである。あるいは『はなればなれに』(1964)のゴキゲンなダンスシーン。ここではダンスが始まる直前にサミー・フレイが自分の「ソフト帽」をアンナ・カリーナに被せる。『ウィークエンド』(1967)では、ミレーユ・ダルクが交通事故の被害者の死体から次々と衣装などを略奪していき、いつの間にか彼女の頭には「ソフト帽」が載っている。そして彼女はヒッチハイクのために道路に大股開きで寝そべりトラックを停めるだろう。女性が「ソフト帽」を被るためには、その前提としてそれが男性の頭部を被っていなければならない。1960年代のゴダールにあっては、男性から女性へと「ソフト帽」が移動する瞬間に、愛に似た何かが生じるのだ。(蓮實重彦とことんゴダールを語る

この「主題論的」分析は、夏目漱石論や小津安二郎論などでもなされたものであり、 蓮實の言っている《病理学的な存在》云々というのは、けっしてジョークではない。

蓮實重彦は物語の構造分析においても、やはりいくつかの長編小説を分析することによって、日本の昭和最後期に蔓延る「天皇制という病理」ーー今はその内容に触れるつもりはないがーーを抉り出している。

これらの長篇を精神分析的に解読した場合になる解釈……そんな解釈を得意がって提起するほどわれわれは文学的に破廉恥ではないつもりだ。そうした事実とは、どんな不注意な読者でも見逃しえない図式として、そこに露呈されているだけなのである。(蓮實重彦『小説から遠く離れて』)

ようは主題論的であり構造論的であれ、そこで摘出された現象は、まぎれもない事実として露呈しているというだけである。

人の文章においても、それは例えばブログでもツイッターでもいいのだが、「主題論的」分析、あるいはその人物の語りの「構造」分析は可能であり、それをおこなえば、ときにふとその人物の何かが見えてくるという「錯覚」に閉じこもることができる。ロラン・バルトだったら作家の「マナ語」というし、ラカン的にいえば、それぞれの人は「クッションの綴じ目」とでもいうべきものがあるのである。

さてだが今はその話ではない。「ソフト帽と涙」の話である。




ーーとても美しい「ごきげんな」ダンスの映像である。

ところでゴダールとアンナ・カリーナの離婚からほぼ20年後のふたりの邂逅の映像がネット上には落ちている。1987年のもののようであり、ゴダール57才、アンナ47才である。ここでもアンナ・カリーナは、ソフト帽かぶってる。

◆Jean-Luc Godard et Anna Karina, vingt ans après - Archive INA - Archive INA(1987年)




アンナ・カリーナはこの1987年どころか、現在に引き続くまで、しばしば「ソフト帽」をかぶっている(すくなくともネット上ではそういった写真に行き当たる)。あの愛の忘れ形見が手放せないと捉えてよいのだろうか。

あるいは、ある時期までのイングリット・カーフェンの「黄色い薔薇」のように、ソフト帽がないとカメラの前に立てない、というのに似た「症状」なのだろうか。




ベーター・カーン…彼は『ラ・パロマ』に出たことが一つの重荷になってしまった…つまりドイツでは、『ラ・パロマ』の役者ということで、それに似た役柄、妻に裏切られる夫といったものばかり演らされてしまったのです。

ーー彼が黄色いバラの花束をかかえてパロマの楽屋の扉をそっとあけて姿を見せる瞬間に素晴らしさ……。

イングリット・カーフェンは最近は歌手として活躍していますが、彼女がコンサートをするごとに、私は黄色いバラを贈ることにしているのです(笑)。彼女は黄色いバラがないと舞台に立てないといった迷信さえ持つようにいたりました。(蓮實重彦、ダニエル・シュミットインタヴュー『光をめぐって』所収)

ところでアンナ・カリーナは、1987年の映像で涙を流している。




アンナはゴダールとの離婚後、3人の夫ーー実際には、2009年にさらに再婚しているそうで、4人の夫ーーをもった(ゴダールをふくめて5人)。

After divorcing Godard, Karina remarried several times; she was married to French actors Pierre Fabre from 1968 to 1974 and Daniel Duval from 1978 to 1981, and to American film director Dennis Berry from 1982 to 1994.(wiki, Anna Karina)




ーーいやあゴダールは、離婚後20年たっても、アンナを泣かせて傷つけてんだな、ロクデモナイ野郎である・・・でも女優ってのもロクデモナイ商売だよ

ボクはやっぱり美しい音楽家のほうがいいね、とりわけマルタ・アルゲリッチが。




ああ、なんてセクシーなんだ。ボクは「マルタ・アルゲリッチ」をくりかえす病理的存在である。ゾクゾクってくるんだ、彼女の姿をみると。上のなかのひとつの写真に股を開いてピアノ演奏しているのがあるが、ああ、なんという美! 彼女と心中したっていいぐらいだ・・・

他方、アンナ・カリーナからは性的魅力は感じないな、ボクは。60~61年のごく若い一時期(ゴダールとの結婚前)の彼女にはちょっとだけ勃然とするが。




女はすべての男にとってサントーム sinthome(症状) である。男は女にとって…サントームよりさらに悪い…男は女にとって、墓場(荒廃場 ravage)だ。

une femme est un sinthome pour tout homme…l'homme est pour une femme …affliction pire qu'un sinthome… un ravage(ラカン、S23, 17 Février 1976)

いやあ女性のみなさん、 とくに若く美しい女性ならいっそう、気を付けないとな。男は墓場だよ、とくに個性のつよい男ならなおさら。

完全な相互の愛という神話に対して、ラカンによる二つの強烈な言明がある、「男の症状は彼の女である」、そして「女にとって、男は常に墓場 ravage を意味する」と。この言明は日常生活の精神病理において容易に証拠立てることができる。ともにイマジナリーな二者関係(鏡像関係)の結果なのだ。

誰でも少しの間、ある男を念入りに追ってみれば分かることだが、この男はつねに同じタイプの女を選ぶ。この意味は、女とのある試行期間を経たあとは、男は自分のパートナーを同じ鋳型に嵌め込むよう強いるになるということだ。こうして、この女たちは以前の女の完璧なコピーとなる。これがラカンの二番目の言明を意味する、「女にとって、男は常に墓場(荒廃場)である」。どうして墓場なのかと言えば、女は、ある特定のコルセットを装着するよう余儀なくさせるからだ。そこでは女は損なわれたり、偶像化されたりする。どちらの場合も、女は、独自の個人としては破壊されてしまう。(ポール・バーハウ1998、Love in a Time of Loneliness THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE、by Paul Verhaeghe)

さて何の話だったか・・・

眼差しが内面に向ってるかそうでないかというのは大きいね、女の美においては(くりかえせばボクの場合だ)。女優とは外に外にばかり向ってしまう「病理的な存在」なんだろう(もっともダンサー女優だったら内に向う美がある、冒頭近くにかかげたアンナのダンス姿にはその美がある)。

かりに内耳の声、すなわちアリアドネの声に耳を傾ける資質をもっていてさえも、いつのまにか職業病として、「わたしが好きですか」と、ひっきりなしに訴えて、取り入り迫ろうとする存在になってゆくんじゃないだろうか。

その点、音楽家は内耳の声をきく職業だよ、すぐれた音楽家であればあるほどそうだ。

アルゲリッチではなくほかの音楽家を挙げろ、だって? ーーちょっといないな、子宮の声をきいているチェリストやら歌手、ピアニストやらはいるが、(ボクの趣味による)美貌度がかなり劣るから画像をかかげるわけにはいかないよ

せいぜいユジャ・ワンの足だな。



いやあ、やっぱりマルタ・アルゲリッチの足のほうがいいや

もちろんかのジャクリーヌ・デュ・プレの、年毎にアブラののってゆく足ってのもあるがね



ジャクリーヌ・デュ・プレにおける無条件の至上命令、彼女の欲動、その絶対的情熱は、自らの芸術だった…。芸術を無条件に委任された愛の生活へと昇華させることは、究極的にどれもこれも代役しうる男たちとの出会いのセリエへと導く。善と悪の表裏一体ーー、デュ・プレは、「男喰い man eater」と報告されている。…不思議なことではない、デュ・プレの長い悲劇的な病(1973年から1987年までの多発性硬化症)は、彼女の母によって「現実界の応答 réponse du réel」、つまり神の罰として感受されたことは。それは彼女の無差別な性生活のためだけではなく、芸術への「過剰な」コミットメントのために。(「KANT AND SADE: THE IDEAL COUPLE」(SLAVOJ ZIZEK.)

マルタ・アルゲリッチも、ボクのみるところ、「若き燕喰い」なんだ。もちろん、老人も中年もいける口で(おそらくオトコの才能に魅せられれば)なんでもありのようだけど。


Martha Argerich and Seiji Ozawa rehearsal

でもマルタには芸術への「過剰な」コミットメントはないね、コンサートすっぽかしで名高いからな、齢を重ねても「鳥のような」女さ。そしてその代役に場を与えるのさ(ユジャ・ワンもそのおかげで脚光を浴びた)。