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2018年3月7日水曜日

過去のトラウマから逃れる方法

私は、抑圧(追放)するから反復するのではない。反復するから抑圧(追放)するのであり、反復するから忘却する Je ne répète pas parce que je refoule. Je refoule parce que je répète, j'oublie parce que je répète (ドゥルーズ 『差異と反復』1968年)

以前にも記したが、フロイトの「抑圧」には圧するという意味はない。「追放」もしくは「放逐」、さらには「防衛」でもいい、そう訳さないとイミフである(参照:防衛の一種としての抑圧

ーー《我々の言説(社会的つながり)はすべて現実界に対する防衛である tous nos discours sont une défense contre le réel 》(ジャック=アラン・ミレール, « Clinique ironique », 1993)


冒頭のドゥルーズ注釈としては、次のジジェク文が水際立っている。

我々は、最初にトラウマ的内容を追放(抑圧)し、そののち、追放された内容を想起できずそれとの我々の関係を理解しえないゆえに、この内容が偽装された形で自らを反復して我々に憑き纏い続けるのではない。現実界が最小の差異であるなら、反復は(この差異を確立する反復は)原初のものである。追放の優越は、現実界の「具現化」とともに、象徴化に抵抗する〈モノ〉のなかへ現れる。そのときにのみ、締め出され或いは追放された現実界は己れを主張し反復する。現実界は、原初的には、モノから自らを分離する間隙・反復の間隙以外の何ものでもない。…

この帰結はまた、反復と想起とにあいだの関係における転倒をともなう。フロイトの名高いモットー、「我々は想起できないことの反復を強いられる」は裏返されるべきだ、「我々は反復されえないことに憑き纏われ想起を強いられる」と。過去のトラウマから逃れる方法は、それを想起することではなく、キルケゴール的意味で十全な反復をすることである。(ジジェク、LESS THAN NOTHING, 2012)  


お分かりだろうか。過去のトラウマ、たとえば性的トラウマがあるとする。そこから逃れるためには、タトエバ、ヤリマクルことである・・・ウジウジ想起していたらビョウキが重くなるのみである。肝腎なのは、キルケゴール的反復である。

その点、トリュフォーとは実に偉大である。



これは、名高い女優たちだけである(背後にいるのは奥さん。抜けが多いがね、そもそもジャクリーヌ・ビゼットがはいっていないのはいかにも奇妙だ)。



ほかにも、わたくしがいくらか調べた範囲でさえ、200人ぐらいはヤッテイルはずである・・・

(トリュフォーの出演女優にたいする姿勢は、「あこがれの女」に記したので繰り返さない。しかし、である。なぜあんなにヤリマクレタのだろうか。たいした男前ではないのに。オチンチンがことさら高性能だったのだろうか・・・)

無名の女優だけではない。かのイザベル・アジャーニとの写真をみても、どうもヤッテイナイようにはまったくみえないのである・・・




イザベル・アジャーニが、ゴダールの「カルメンという女」に主演がきまっていたのに、結局けってしまったのは、トリュフォーのせいにチガイナイ・・・

もっとも至高の足フェティシスト・トリュフォーのことである。女に足さえついていれば、だれにでもメロメロになったということはあろう・・・

トリュフォー晩年の「恋愛日記 L'Homme qui aimait les femmes」(1977年)とは、隠蔽された自伝にチガイナイのである。



(わたくしが片仮名や三点リーダー「・・・」を使用するときの意味合いは、既に何度も繰り返したのでもう繰り返さない)

とはいえ、トラウマとは繊細に扱わねばならない話であり、すこしだけつけ加えておこう(こうやっていつも長くなってしまうのだが)。


性的トラウマとはたとえば、

あのときのミモザの茂み、靄に包まれた星、疼き、炎、蜜のしたたり、そして痛みは記憶に残り、浜辺での肢体と情熱的な舌のあの少女はそれからずっと私に取り憑いて離れなかった──その呪文がついに解けたのは、24年後になって、アナベルが別の少女に転生したときのことである。(ナボコフ『ロリータ』)

ーーである。

そしてトラウマには喜ばしいトラウマもある。すくなくともわたくしは中井久夫とともにそう考える。

PTSDに定義されている外傷性記憶……それは必ずしもマイナスの記憶とは限らない。非常に激しい心の動きを伴う記憶は、喜ばしいものであっても f 記憶(フラッシュバック的記憶)の型をとると私は思う。しかし「外傷性記憶」の意味を「人格の営みの中で変形され消化されることなく一種の不変の刻印として永続する記憶」の意味にとれば外傷的といってよいかもしれない。(中井久夫「記憶について」1996年)

だれにでもトラウマはあるはずであり、あるべきである。ない人間のほうが「不幸」--ようするにニブイーーである。

誰しも幼少年期の傷の後遺はある。感受性は深くて免疫のまだ薄い年頃なので、傷はたいてい思いのほか深い。はるか後年に、すでに癒着したと見えて、かえって肥大して表れたりする。しかも質は幼年の砌のままで。(古井由吉「幼少の砌の」『東京物語考』)

とはいえ限界を超えたトラウマというものは、性格をひねくれさせる。

外傷的事件の強度も、内部に維持されている外傷性記憶の強度もある程度以下であれば「馴れ」が生じ「忘却」が訪れる。あるいは、都合のよいような改変さえ生じる。私たちはそれがあればこそ、日々降り注ぐ小さな傷に耐えて生きてゆく。ただ、そういうものが人格を形成する上で影響がないとはいえない。

しかし、ある臨界線以上の強度の事件あるいはその記憶は強度が変わらない。情況によっては逆耐性さえ生じうる。すなわち、暴露されるごとに心的装置は脆弱となり、傷はますます深く、こじれる。(中井久夫「トラウマとその治療経験」『徴候・記憶・外傷』所収)

ーー上に、片仮名や三点リーダー「・・・」を使ったのは、こういった内容を省略したままでやり過ごそうとしたせいである・・・

⋯⋯⋯⋯

さてキルケゴール的反復に戻る。

反復と想起は同一の運動である、ただ方向が反対であるというだけの違いである。つまり想起されるものはすでにあったものであり、それが後方に向って反復されるのに、ほんとうの反復は前方に向って想起される。(キルケゴール『反復』)

前方に向かって想起される反復、これはレミニサンスでもある。

私は…問題となっている現実界 le Réel は、一般的にトラウマ traumatismeと呼ばれるものの価値を持っていると考えている。…これは触知可能である…人がレミニサンス réminiscence と呼ぶものに思いを馳せることによって。…レミニサンス réminiscence は想起 remémoration とは異なる。(ラカン、S23, 13 Avril 1976)

レミニサンスなどと口に出してしまったので、またまた、ミナサンノタメニ、ドゥルーズ=プルーストを付け加えなくてはならなくなってしまった・・・

ふたつの時間の間の類似性が、もっと深い同一性へとおのれを越えて行くのと同時に、過去の時間に属している接近性は、もっと深い差異へとおのれを越えて行く。コンブレーは現在の感覚の中に再現され、過去の感覚とその差異は、現在の感覚の中に内在化される。したがって、現在の感覚は、異なった対象 objet différentとのこの関係とはもはや分離できない。

無意志的記憶における本質的なものは、類似性でも、同一性でさえもない。それらは、無意志的記憶の条件にすぎないからである。本質的なものは、内的なものとなった、内在化された差異 différence intériorisée である。レミニサンス réminiscence が芸術と類比的で、無意志的記憶が隠喩と類比的であるというのは、この意味においてである C'est en ce sens que la réminiscence est l'analogue de l'art, et la mémoire involontaire, l'analogue d'une métaphore。無意志的記憶 la mémoire involontaire における本質的なものは、《ふたつの異なった対象 deux objets différents》を、たとえば、その味をともなったマドレーヌと、色と気温という性質をともなったコンブレーを把握する。それは一方を他方のなかに包み、両者の関係を、何らかの内的なものにする。(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』)

ーー《内在化された差異 différence intériorisée》とは、『差異と反復』に現れる《単独的差異 différence singulière》 《内的差異 différence interne》 《差異の差異化 le différenciant de la différence》《純粋差異 pure différence》と等価である。


ふたたびドゥルーズの引用を続ける。ここからが最も肝腎な箇所である。人生は(極論をいえば)これさえ分かっていればいいのである。人生の「真の」喜びも悲しみもここにしかない。

マドレーヌの味、ふたつの感覚に共通な性質、ふたつの時間に共通な感覚は、いずれもそれ自身とは別のもの、コンブレーを想起させるためにのみ存在している。しかし、このように呼びかけられて再び現われるコンブレーは、絶対的に新しいフォルム forme absolument nouvelle になっている。

コンブレーは、かつて現在 été présent であったような姿では現われない。コンブレーは過去として現われるが、しかしこの過去は、もはやかつてあった現在に対して相対するものではなく、それとの関係で過去になっているところの現在に対しても相対するものではない。

それはもはや知覚されたコンブレーでもなく、意志的記憶の中のコンブレーでもない。コンブレーは、体験さええなかったような姿で、リアリティréalité においてではなく、その真理において現われる。コンブレーは、純粋過去 passé pur の中に、ふたつの現在と共存して、しかもこのふたつの現在に捉えられることなく、現在の意志的記憶と過去の意識的知覚の到達しえないところで現われる。それは、《純粋状態にあるわずかな時間 Un peu de temps à l'état pur》である。つまりそれは、現在と過去、現勢的もの actuel である現在と、かつて現在であった過去との単純な類似性ではなく、ふたつの時間の同一性でさえもなく、それを越えて、かつてあったすべての過去、かつてあったすべての現在よりもさらに深い、過去の即自存在 l'être en soi du passé である。《純粋状態にあるわずかな時間 Un peu de temps à l'état pur》とは、「局在化した時間の本質 l'essence du temps localisée」である。
《現勢的でないリアルなもの、抽象的でない観念的なもの Réels sans être actuels, idéaux sans être abstraits 》――この「観念的リアルなもの réel idéal」、この「潜在的なもの virtuel」が本質である。本質は、無意志的記憶の中に実現化 réalise または具現化 incarne される。ここでも、芸術の場合と同じく、包括 enveloppementと展開 enroulement は、本質のすぐれた状態として留まっている。そして、無意志的記憶は、本質の持つふたつの力を保持している。それは、「過去の時間の中での差異 différence dans l'ancien moment」と、「現勢性の中での反復 répétition dans l'actuel」である。(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』第一部第五章「記憶の二次的役割」)