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2018年4月8日日曜日

聖母頌

身体の中で最もエロティックなのは衣服が口を開けている所ではないだろうか。倒錯(それがテクストの快楽のあり方である)においては、《性感帯》(ずい分耳ざわりな表現だ)はない。精神分析がいっているように、エロティックなのは間歇である。二つの衣服(パンタロンとセーター)、二つの縁(半ば開いた肌着、手袋と袖)の間にちららと見える肌の間歇。誘惑的なのはこのちらちら見えることそれ自体である。更にいいかえれば、出現ー消滅の演出 la mise en scène d'une apparition-disparition である。

それはストリップ・ショーや物語のサスペンスの快楽ではない。この二つは、いずれの場合も、裂け目もなく、縁もない、順序正しく暴露されるだけである。すべての興奮は、セックスを見たいという(高校生の夢)、あるいは、ストーリーの結末を知りたいという(ロマネスクな満足)希望に包含される。(ロラン・バルト『テクストの快楽』)




バルトが『テクストの快楽』で巧みに表現している「出現=消滅の演出」、つまり、最終的な真相の暴露へと向けて衣裳を脱ぎすててゆくストリップ・ショーの観客を捉える欲望ではなく、衣服の縁と縁とが間歇的にのぞかせる素肌の誘惑、ほとんど偶発的といえる裂け目の戯れ、距離でも密着でもなく、それじたいが不断の運動である「出現=消滅の演出」。それを肯定することを快楽と呼ぶことも、おそらくはとりあえずの命名法でしかないだろう。それは苦痛と呼ばれてもよかろうし、受難と名指されることさえ不自然とも思われぬほどに致命的な体験である。「出現=消滅」の戯れを組織する演出とは、傍観者としての観客が享受しうる距離を廃棄し、距離でもあり密着でもあるための不断の変容を要請するものであるからだ。その点において、いったん秩序に順応しさえすれば露呈の瞬間へと導かれる物語の欲望とはまったく異質の欲望が、「テクスト」の快楽を煽りたてていることがわかる。その体験は、たしかに誰もが気軽に試みてみるわけにはゆくまいが、だからといって特権的な個体だけに許されているわけでもない。原理的にはあらゆる存在に向けて開かれていさえいるはずなのに、現実には、その受難=快楽に進んで身をまかせようとする者はごく稀である。それが権利だとは思われていないからだ。誰もが真実の露呈という永遠の儀式にたどりついて終りとなる物語を欲望し、その欲望を漸進的に満足させる説話論的な秩序に埋没することこそが快楽なのだと確信している。受難=快楽としての浅さは、かくして、いたるところで回避されることになるだろう。(蓮實重彦『物語批判序説』)



聖母頌|吉岡実

わたしたち再びうまれるとしたら
さびしいヴィオレット色の甘皮からだ
それはいじるより見る方が美しい
ところどころ夏のくだものの房をつけ
しずかに稲妻を走らせる




《母のペニスの欠如は、ファルスの性質が現われる場所である。sur ce manque du pénis de la mère où se révèle la nature du phallus》(ラカン「科学と真理」1965、E877)ーーわれわれは、この指摘にあらゆる重要性を与えなければならない。それはまさにファルスの機能とその性質を識別するものである。

そして、ここに、我々はフロイトの紛らわしい「ナイーヴな」フェティッシュ概念、すなわち主体が、女性のペニスの欠如を見る前に見た最後の物としてのフェティッシュという考え方を更新すべきである。フェティッシュが覆うものは、単純に女性におけるペニスの欠如ではない(男におけるその現前と対照的な)。そうではなく、現前/不在のまさにこの構造が、厳密に「構造主義者的」意味での、差延(ズレ)的だという事実である。(ジジェク、LESS THAN NOTHING、2012)

◆three bellmers



瀧口修造には「ハンス・ベルメール断章」という、造形作家を讚えた、美しい断章がある。 適宜引用させて貰う。――ベルメールの人形における球体は anagramme(語句の解体と組み替え)のためのメカニズムであり、一種の自在関節。/それはまた一箇の完全な真珠であり、/忍び寄る夕闇のなかのアナグラムによって、/一箇の完璧な疣であり、涙一滴の孤 独な結石である。――。私もある一時期、ハンス・ベルメールに魅せられ、古本屋で着色写真集を購ったものだ。ドイツ語の限定本である。読めないが充分たのしむことができた。そして「聖少女」と題する一篇の詩を書いた。その終章「その球体の少女の腹部と /関節に関係をつけ/ねじるねじる/茂るススキ・かるかや/天気がよくなるにしたがって /サソリ座が出る」

「断章」の一節を引用する。――人形作者としてベルメールは、孤独な原型人間のひとり として出発することを宿命づけられていた。けれどなんと多くのそんな人たちが地上に彷徨していることだろう。不幸にも互いに知らず、視えぬ人形作者として……。――。やがて一人の青年が、澁澤龍彦の紹介文に依って、ハンス・ベルメールとその人形を知り、深い啓示を受ける。数多い潜在的なファンのなかから、視える人形作者がうまれたのだ。(吉岡実『官能的な造形作家たち』〈1 ハンス・ベルメール〉)