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2018年4月7日土曜日

主体と無

我々は、「無 le rien」と本質的な関係性を享受する主体を、女たち femmes と呼ぶ。私はこの表現を慎重に使用したい。というのは、ラカンの定義によれば、どの主体も、無に関わるのだから。しかしながら、ある一定の仕方で、女たちである主体が「無」を享受する関係性は、(男に比べ)より本質的でより接近している。 (ジャック=アラン・ミレール、1992, Des semblants dans la relation entre les sexes)

 ーー《ラカンの「女というものは存在しない la Femme n'existe pas」という命題を受け入れるなら、スラヴォイ・ジジェクが言うように、男というものの定義は次のようなものになる――男は「自分が存在すると信じている女である」。》( アレンカ・ジュパンチッチ『リアルの倫理―カントとラカン』)

女というものは存在しない。だが女たちはいる la Femme n'existe pas, mais il y a des femmes》(ジジェク、無以下のもの、2012)

《il y a》とは、ハイデガーの《es gibt》(外立 ex‐stasis)と相同的な表現であり(ジジェクによる)、すなわち「実存(Existenz)」としての現存在(Dasein)にかかわる(もっともジジェクやミレールによって、ハイデガーの Dasein には肉体がないという批判はある、《Cette chair est sans doute gommée dans le Dasein heideggérien》(ミレール、2014))。

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ラカン派における「主体が無である」というのは、最も基本的には次のようなこと。

標準的な見方からすれば、主体性を構成している次元は現象的な(自己)経験の次元である。次のように自分に言えたならば、その瞬間に、私は主体になる。「どんな正体不明のメカニズムが私の行為、知覚、思考を支配していようとも、私がたったいま見て感じていることを、何物も私から奪うことはできない」。たとえば私が激しい恋愛をしているときに、生物学者が私に、私の強烈な感覚は私の身体の生物学的なプロセスの結果にすぎないと言ったとする。私は見かけに固執してこう答えることができる。「あなたが言っていることはすべて正しいかもしれないが、それでも、私がいま経験している激しい情熱を何物も私から取り上げることはできない」。しかしラカンは言う、精神分析家はまさにそれを主体から取り上げることができる、と。

分析家の究極の目的は、主体の(自己)経験の宇宙を規定している根本幻想そのものを主体から奪うことである。無意識というフロイト的主題は、主体の(自己)経験(彼の根本的幻想)の最も重要な側面が初源から抑圧されていて、主体にとって接近不能となったときに、はじめて登場するのである。接近不能な現象とは、最も根源的なレベルにおける無意識であり、私の現象的経験を規定する客観的メカニズムではない。したがって、常識的には、ある実体が内的生活(外的行動に還元できない幻想的経験)の徴候を見せたなら、そこにあるものは主体だと考えるわけだが、これと対照的に、われわれは以下のように主張すべきである。すなわち、人間の主体性を特徴づけているのはむしろ、外部と内部を隔てている落差、つまり幻想がその最も基本的レベルにおいて主体にとって接近不能なものになるという事実である、と。ラカンの言葉を借りれば、主体を「空虚」にするのはこの接近不能性なのである。(ジジェク『ラカンはこう読め』2006年)


ただし分析治療の究極の目標とされる「根本幻想そのものを主体から奪うこと」(幻想の横断)については、現在臨床ラカン派では次のように言われている。

身体の享楽は自閉症的である。愛と幻想のおかげで、我々はパートナーと関係をもつ。しかし結局、享楽は自閉症的である。Pierre-Gillesは、ラカンの重要な臨床転回点について、我々に告げている、分析家は根本幻想を解釈すべきでない。それは分析主体(患者)を幻想に付着したままにするように唆かす、と。(Report on the ICLO-NLS Seminar with Pierre-Gilles Guéguen、2013)
ラカンは幻想を、欲動を主体に統合し和解させる典型的な神経症的戦略として概念化した。ラカン的観点からは、この戦略は錯覚的 illusory であり、主体を反復循環へと投げ入れる。1960年代のラカンは、精神分析治療の目標を「幻想の横断 la traversée du fantasme」と考えた。これは、主体が幻想のシナリオを何度も何度も反復する強迫的流儀は、乗り越えるべき何ものかであるという意味である。…

しかしながら1970年代以降の後期理論で、ラカンは結論づける、そのような「横断」は、治療がシニフィアンを通してなされる限り、不可能であると。…

こうしてラカンは、彼が「サントーム」と呼ぶものの構築を提唱する。それは純粋に個人的な方法、ーー執着する欲動衝迫と同時に他者の優越をを巡っている現実界・想像界・象徴界を取り扱う純単独的な方法である。(Identity through a Psychoanalytic Looking Glass、2009、Stijn Vanheule and Paul Verhaeghe、PDF


ジジェクにもどれば、《外部と内部を隔てている落差》とは、主体構成における残余としての対象a(=外密)でありーー《対象a とは外密である。l'objet(a) est extime》(ラカン、S16、26 Mars 1969)ーーかつまた純粋視差対象(ドゥルーズ=ニーチェの《純粋差異 pure différence》、ドゥルーズ=プルーストの《 内在化された差異 différence intériorisée》)にかかわる(参照)。

外密 Extimité は親密 intimité の反対ではない。それは最も親密なもの le plus intimeでさえある。外密は、最も親密でありながら、外部 l'extérieur にある。それは、異物 corps étranger のようなものである(ミレール、Miller Jacques-Alain, 1985-1986, Extimité)
ラカンが、象徴空間の内部と外部の重なり合い(外密 Extimité)によって、象徴空間の湾曲・歪曲を叙述するとき、彼はたんに、対象a の構造的場を叙述しているのではない。剰余享楽は、この構造自体、象徴空間のこの「内に向かう湾曲」以外の何ものでもない。(ジジェク、LESS THAN NOTHING, 2012)
…対象a はカントの超越論的対象 transcendental object に近似している。なぜなら、対象a は「知られていないX」、仮象の彼方の対象の「ヌーメノンNoumenon」的核を表すから。それは《あなたのなかにあるあなた以上のもの quelque chose en toi plus que toi》である。

したがって対象a は、純粋視差対象 pure parallax objectとして定義される。…さらに厳密に言えば、対象a は、視差の裂目 parallax gapの「原因」である。

ここでのパラドクスは厳密なものである。まさにこの点にて、純粋差異が現れる。差異はもはや「二つの可能的に存在する対象 two positively existing objects」のあいだの差異ではない。そうではなく「「一」とそれ自体からの同じ対象を分割する divides one and the same object from itself」差異である。この差異「それ自体」は即座に測り知れない unfathomable 対象と一致する。

諸対象の間の単なる差異とは対照的に、純粋差異はそれ自体、対象である。(ジジェク、パララックス・ヴュー2006、私訳)

これを受け入れるかどうかは別にして、ここがラカン派のひとつの要であるには相違ない。

ラカン理論に固有の難解な特徴は、その典型的に抽象的なスタイルにあるとされる。これは部分的にしか正しくない。誤解の真の原因は、むしろ粘り強い、防衛的な「知りたくないnot-wanting-to-know」にある。というのは、彼の理論は、われわれの仕事の領域だけではなく、まさに人生の生き方においてさえ、数多くの確信を揺らつかせるので、これが概念上の孤立無援を齎している。(ポール・バーハウ2004, Paul Verhaeghe, On Being Normal and Other Disorders A Manual for Clinical Psychodiagnostics 私訳)

ただし「主体は無である」とは、欲望の主体(=幻想の主体)が無であるということであり、欲動の身体は(現実界に)ある(外立する)。《現実界は外立する Le Réel ex-siste》(S22)ーー象徴界の限界領域(あるいは非一貫性・非全体 pastout)において、エク・スターシス ek-stasis (自身の外へ出る:ハイデガー)する。

欲望の主体はない il n 'y a pas de sujet du désir。あるのは幻想の主体 Il y a le sujet du fantasme である。 (ラカン,REPONSES A DES ETUDIANTS EN PIDLOSOPFIE,1966)
主体sujetとは……欲動の藪のなかで燃え穿たれた穴 rond brûlé dans la brousse des pulsionsにすぎない(ラカン、E.666,1960)
すべてが見せかけsemblantではない。或る現実界 un réel がある。社会的つながり lien social の現実界は、性的非関係である。無意識の現実界は、話す身体 le corps parlant(欲動の身体)である。象徴秩序が、現実界を統制し、現実界に象徴的法を課す知として考えられていた限り、臨床は、神経症と精神病とにあいだの対立によって支配されていた。象徴秩序は今、見せかけのシステムと認知されている。象徴秩序は現実界を統治するのではなく、むしろ現実界に従属していると。それは、「性関係はない」という現実界へ応答するシステムである。(ミレー 2014、L'INCONSCIENT ET LE CORPS PARLANT)

中期ラカンの言葉遣いをあえて使えば、《欲望の主体》は無・空虚(要素のない場)であるが、《欲動の主体 sujet de la pulsion》(S11)はある。欲動の主体とは《無頭の主体 le sujet acéphale》(S11)、あるいは《話す身体 le corps parlant》(S20)のこと(欲動を主体と呼ぶのは、ラカン語彙の定義上奇妙なので、後期ラカンはいわなくなっているし、現代ラカン派でもめったに使われないが)。

ラカンの「無頭の主体 sujet acéphale」とは、マルクスの「自動的主体 automatisches Subjekt 」と相同的(参照)。

欲動は「無頭の主体」のモードにおいて顕れる。

la pulsion se manifeste sur le mode d’un sujet acéphale.(ラカン、S11、13 Mai 1964)
諸商品の価値が単純な流通の中でとる独立な形態、貨幣形態は、ただ商品交換を媒介するだけで、運動の最後の結果では消えてしまっている。

これに反して、流通 G-W-G (貨幣-商品-貨幣)では、両方とも、商品も貨幣も、ただ価値そのものの別々の存在様式として、すなわち貨幣はその一般的な、商品はその特殊的な、いわばただ仮装しただけの存在様式として、機能するだけである。

価値は、この運動の中で消えてしまわないで絶えず一方の形態から他方の形態に移って行き、そのようにして、一つの自動的主体 ein automatisches Subjekt に転化する。

自分を増殖する価値がその生活の循環のなかで交互にとってゆく特殊な諸現象形態を固定してみれば、そこで得られるのは、資本は貨幣である、資本は商品である、という説明である。

しかし、実際には、価値はここでは一つの過程の主体になるのであって、この過程のなかで絶えず貨幣と商品とに形態を変換しながらその大きさそのものを変え、原価値としての自分自身から剰余価値 Mehrwert としての自分を突き放し、自分自身を増殖するのである。

なぜならば、価値が剰余価値をつけ加える運動は、価値自身の運動であり、価値の増殖であり、したがって自己増殖 Selbstverwertung であるからである。(マルクス『資本論』第一巻)

ーー《剰余価値[Mehrwert]、それはマルクス的快[Marxlust]、マルクスの剰余享楽(対象a)である。》(ラカン、ラジオフォニー、1970年)

マルクスは、資本論一巻の「価値形態論」における「自動的主体 automatisches Subjekt」とほぼ等価な表現として、資本論三巻では「自動的フェティッシュautomatische Fetisch」としている(参照)。

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※付記

現実の領域は対象a の除去の上になりたっているが、それにもかかわらず、対象a が現実 の領域を枠どっている。 le champ de la réalité ne se soutient que de l'extraction de l'objet a qui lui donne son cadre(Lacan, E554, 1966)

以下、ジャック=アラン・ミレールの注釈。

〈現実界〉としての対象を密かに無視することが「ひとかけらの現実」としての現実の安定化の条件だ、とわれわれは理解している。だが、〈対象a〉があるべきところにないなら、〈対象a〉 はどうやって現実に枠をはめるのか。




〈対象a〉は、まさしく現実の領域から除去されることによって、現実に枠にはめるのである。 わたしがこの絵の表面から、絵から網がけになった長方形を取り除くなら、われわれが枠と呼ぶものを獲得する。すなわち穴にとっての枠でありながら、また残りの表面の枠である。こうした枠はどんな窓によっても作ることができる。

〈対象a〉というのはこのような表面の断片であり、それを現実から取り除くことが、現実に枠をはめることになるのである。主体とは、すなわち斜線を引かれた主体とは、…この穴のことである。存在としては、この除去されたかけらにほかならないのである。主体と〈対象a〉は等価である、とはそういうことなのである。(ミレール,(Jacques-Alain Miller,Montré à Prémontré, 1984)

《我々は、言語の使用の結果としての、剰余享楽(対象a)から生まれた存在である。nous sommes des êtres nés du plus de jouir, résultats de l'emploi du langage. 》(Lacan, S17, 21 Janvier 1970)

シンプルに言おう。主体 $ は、ネガティヴなマグニチュード、あるいはネガティヴな数 negative magnitude or negative number としての裂け目である。それが、ラカンによるシニフィアンの定義におけるまさに正確な意味である。シニフィアンとは、主体に代わって対象を代表象する何かではなく、他のシニフィアンに代わって主体を代表象するものである。すなわち主体とはシニフィアンの内的な裂け目なのである。そしてそれがその参照の動き referential movement を支えているのだ。他方、対象a は、この動きによってもたらされたポジティヴな残滓である。そしてそれがラカンが剰余享楽 plus-de-jouir と呼んだものである。剰余享楽のほかには享楽 jouissance はない。すなわち享楽はそれ自体として本質的にエントロピーとして現われる。 (ジュパンチッチ2006、Alenka Zupancic, When Surplus Enjoyment Meets Surplus Value)
主体は、他のシニフィアンに対する一つのシニフィアンによって表象(代理)されうるものである Un sujet c'est ce qui peut être représenté par un signifiant pour un autre signifiant。しかしこれは次の事実を探り当てる何ものかではないか。すなわち交換価値 valeur d'échange として、マルクスが解読したもの、つまり経済的現実において、問題の主体、交換価値の主体 le sujet de la valeur d'échange は何に対して表象されるのか? ーー使用価値 valeur d'usage の主体である。

そしてこの裂け目のなかに既に生み出されたもの・落とされたものが、剰余価値 plus-valueと呼ばれるものである。この喪失 perte は、我々のレヴェルにおける重要性の核心である。

主体は己自身と同一化しえず、もはやたしかに享楽しえないne jouit plus 。何かが喪われているだ。それが剰余享楽plus de jouir (対象a)と呼ばれるものである。(ラカン、セミネ ールⅩⅥ、D'un Autre à l'autre, 13 Novembre 1968)

《ラカンの後、どんな哲学もない、もしラカンの「反哲学」の試練を経ないなら there can be no philosophy after Lacan unless it has undergone the trial of Lacanian ‘anti-philosophy》(アラン・バディウ、pdf)

あなた方は焦らないようにしたらよろしい。哲学のがらくたに肥やしを与えるものにはまだしばらくの間こと欠かないだろうから。

Méfiez -vous donc de votre précipitation: pour un temps encore, l'aliment ne manquera pas à la broutille philosophique.(ラカン「哲学科の学生への返答 Réponses à des étudiants en philosophie」 1966)
対象a …この対象は、哲学的思惟には欠如しており、そのために自らを位置づけえない。つまり、自らが無意味であることを隠している。Cet objet est celui qui manque à la considération philosophique pour se situer, c'est à dire pour savoir qu'elle n'est rien. (……)

それはフェティシュとマルクスが奇しくも精神分析に先取りして同じ言葉で呼んでいたものだ。ce que Marx appelait en une homonymie singulièrement anticipée de la psychanalyse, le fétiche(同上)

なにはともあれ、ラカン派文脈では、《彷徨える過剰(対象a)が存在のリアルである。L’excès errant est le réel de l’être.》(バディウ Cours d’Alain Badiou) [ 1987-1988 ])

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※追記

対象a の根源的両義性……対象a は一方で、幻想的囮/スクリーンを表し、他方で、この囮を混乱させるもの、すなわち囮の背後の空虚 vide をあらわす。(Zizek, Can One Exit from The Capitalist Discourse Without Becoming a Saint? ,2016)

我々はあまりにもしばしば混同している、欲動が接近する対象について。この対象は実際は、空洞・空虚の現前 la présence d'un creux, d'un vide 以外の何ものでもない。フロイトが教えてくれたように、この空虚はどんな対象によっても par n'importe quel objet 占められうる occupable。そして我々が唯一知っているこの審級は、喪われた対象a (l'objet perdu (a)) の形態をとる。対象a の起源は口唇欲動 pulsion orale ではない。…「永遠に喪われている対象 objet éternellement manquant」の周りを循環する contourner こと自体、それが対象a の起源である。(ラカン、S11, 13 Mai 1964)

参照:享楽 (a) とファルス化された対象a