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2018年4月6日金曜日

倒錯者の映画鑑賞法

いやあ、ボクは「正統的な」倒錯者だからな、映画を観るにも、切り取って収集することに決めたんだよ



人は、読書の快楽のーーあるいは、快楽の読書のーー類型学を想像することができる。

それは社会学的な類型学ではないだろう。なぜなら、快楽は生産物にも生産にも属していないからである。それは精神分析的でしかあり得ないだろう。(⋯⋯)

フェティシストは、切り取られたテクストに、引用や慣用語や活字の細分化に、単語の快楽に向いているだろう。Le fétichiste s'accorderait au texte découpé, au morcellement des citations, des formules, des frappes, au plaisir du mot.

強迫神経症者は、文字や、入れ子細工状になった二次言語や、メタ言語に対する官能を抱くだろう(この部類には、すべての言語マニア、言語学者、記号論者、文献学者、すなわち、言語活動がつきまとうすべての者が入るだろう)。

偏執症者(パラノイア)は、ねじれたテクスト、理屈として展開された物語、遊びとして示された構成、秘密の束縛を、消費し、あるいは、生産するだろう。

(強迫症者とは正反対の)ヒステリー症者は、テクストを現金として考える者、言語活動の、根拠のない、真実味を欠いた喜劇に加わる者、もはやいかなる批評的視線の主体でもなく、テクスト越しに身を投げる(テクストに身を投影するのとは全く違う)者といえるであろう。(ロラン・バルト『テキストの快楽』)

映画研究者というのは、おおむね強迫神経症者、つまりメタ・イマージュ愛好家だな、それと女性映画愛好者とは、バルトのいうようにイマージュ越しに身を投げているヒステリー症者だね。どっちもボクにはついていけないよ




バルトは別にこう言ってるけどね。

スクリーンの前では、私は目を閉じる自由をもっていない。そんなことをしようものなら、目を開けたとき、ふたたび同じイマージュを見出すわけにはいかなくなる。私はたえずむさぼり見ることを強制される。映画には他の多くの長所があるが、思考性 pensivité だけはない。私がむしろフォトグラム photogramme(映画のコマ写真)に関心をもつのはそのためである。

しかし映画は、一見したところ「写真」にはない、ある能力をそなえている。スクリーンは(バザン〔『映画とは何か』〕が指摘したように)、枠 cadre〔フレーム〕ではなくて隠れ場 cachezである。作中人物がそこから出てきて生き続ける。目に見える部分的な視像 vision partielle の裏に、ある《見えない場 champ aveugle》がつねに存在している。ところが、立派なストゥディウム studium をもつ写真も含めて、何千という写真を見ても、私にはそうした見えない場が少しも感じられない。フレームの内側にあるものが、フレームの外に出てくると、どれも完全に死んでしまう。「写真」は動かない映像として定義されるが、それは単に、写真に写っている人物たちが動かないということを意味するだけではない。彼らが外に出てこないということをも意味するのだ。彼らは蝶のように麻酔をかけられ、そこに固定されているのである。しかしながら、プンクトゥム punctum があれば、ある見えない場がつくり出される(推測される)。(ロラン・バルト『明るい部屋』第23章)



ようするに、映画も切り取って眺めたら、 目を閉じる自由を確保できるし、場合によっては、《目に見える部分的な視像 vision partielle の裏》の、《見えない場 champ aveugle》をも現前させることができるんじゃないか。一石二鳥の可能性がある筈だよ。

ボクは倒錯する。すると退屈な物語映画でも退屈でなくなるのさ

報告された快楽から、どのようにして快楽を汲み取るのか(夢の話、パーティの話の退屈さ)。どのようにして批評を読むのか。唯一の手段はこうだ。私は、今、第二段階の読者なのだから、位置を移さなければならない。批評の快楽の聞き手になる代わりにーー楽しみ損なうのは確実だからーー、それの覗き手 voyeur になることができる。こっそり他人の快楽を観察するのだ。私は倒錯する j'entre dans la perversion 。すると、注釈は、テクストにみえ、フィクションにみえ、ひびの入った皮膜 une enveloppe fissurée にみえてくる。作家の倒錯(彼の快楽は機能を持たない)、批評家の、その読者の、二重、三重の倒錯、以下、無限。(ロラン・バルト『テクストの快楽』)