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2018年3月27日火曜日

「潜在的なもの」と「潜在的対象」の相違

ドゥルーズにとって、「潜在的なもの le virtuel」と「潜在的対象 L'objet virtuel」は異なる。すくなくともわたくしはそう考える(ドゥルーズ研究者のなかで誰もそう言っているのをみたことはないが)。

ドゥルーズは潜在的なものを《純粋多様体 une multiplicité pure》と言っている。他方、潜在的対象は《純粋過去の切片 un lambeau de passé pur》《部分対象 un objet partial》としている。

・潜在的なものは⋯⋯「イデア」における純粋多様体を示す。le virtuel ⋯⋯ désigne une multiplicité pure dans l'Idée

・潜在的対象は純粋過去の切片である。 L'objet virtuel est un lambeau de passé pur

・潜在的対象はひとつの部分対象である。L'objet virtuel est un objet partial(ドゥルーズ 『差異と反復』)

ーー純粋過去=潜在的なものとすれば、潜在的対象は、潜在的なものの切片である(たとえばマドレーヌの味)。

この関係はラカンの「享楽」と「剰余享楽」の関係と相同的である。あるいはラカンマテームにおけるȺとS(Ⱥ)の関係に(トラウマȺとトラウマの原シニフィアンS(Ⱥ)の関係)。

剰余享楽は(……)享楽の欠片である。 plus de jouir…lichettes de la jouissance (ラカン、S17、11 Mars 1970)

ーー享楽とは現実界である。

享楽は現実界にある。la jouissance c'est du Réel. …マゾヒズムは現実界によって与えられた享楽の主要形態である。Le masochisme qui est le majeur de la Jouissance que donne le Réel,(ラカン、S23, 10 Février 1976)

ーー《真理における唯一の問い、フロイトによって名付けられたもの、「死の本能 instinct de mort」、「享楽という原マゾヒズム masochisme primordial de la jouissance」 …全ての哲学的パロールは、ここから逃げ出し、視線を逸らしている。》(ラカン、S13, 08 Juin 1966)


そして現実界とはトラウマ(=言語で表象されえないもの)であり、ラカンの用語遣いでは穴ウマ=トラウマ( troumatisme)である。 穴 TROU、すなわちȺである。

私は…問題となっている現実界 le Réel は、一般的にトラウマ traumatismeと呼ばれるものの価値を持っていると考えている。…これは触知可能である…人がレミニサンス réminiscence と呼ぶものに思いを馳せることによって。…レミニサンス réminiscence は想起 remémoration とは異なる。(ラカン、S.23, 13 Avril 1976)

⋯⋯⋯⋯

以下にドゥルーズの文をいくらか長く引用する。 

◆ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』(第二版、1970年より)

【意志的記憶 mémoire volontaire】
意志的記憶 la mémoire volontaire には、過去の即自存在 l'être en soi du passé という本質的なものが欠けているのは明らかである。

意志的記憶は、過去が以前に現在であったのちに、過去が過去として構成されたかのようにふるまう。(……)確かに、われわれは過去を現在として経験しているその同じときに、何かを過去として把握することはない(……)。しかしそれは、意識的知覚と、意志的記憶との結合された要求によって、もっと深いところで両者の潜在的な共存 une coexistence vỉtuelle が存在しているところに、両者の実在的な連続 une succession réelle が作られるからである。


【一気に、過去そのものの中に自らを置くこと qu'on se place d'emblée dans le passé lui-même】
もしもベルクソンとプルーストの考え方にひとつの類似があるとすれば、それはこのレヴェルにおいてである。つまり、持続のレヴェルにおいてではなく、記憶のレヴェルにおいてである。現勢的な現在 actuel présent から過去にさかのぼったり、過去を現在によって再構成したりしてはならず、一気に、過去そのものの中に自らを置かなくてはならない on se place d'emblée dans le passé lui-même。この過去は、過去の何かを代表象するものではなく ce passé ne représente pas quelque chose qui a été、現在存在するもの、現在としてそれ自体と共存する何か coexiste avec soi comme présent だけを代表象する。


【ベルクソンの「潜在的なもの le virtuel」】
過去はそれ自体以外のものの中に保存されてはならない。なぜならば過去はそれ自体において存在し、それ自体において生き残り、保存されるからである。――これが『物質と記憶』の有名なテーゼである。過去のこのようなそれ自体における存在 être en soi du pasé をベルクソンは「潜在的なもの le virtuel」と呼んだ。同様にプルーストも、記憶のシーニュによって帰納された状態について、「現勢的でないリアルなもの Réels sans être actuels、抽象的でない観念的なものidéaux sans être abstraits」と言っている。


【ベルクソンとプルーストの相違】
確かにそこを出発点として、プルーストとベルクソンとでは問題が同じではなくなる。ベルクソンにとっては、過去がそれ自体で保存されることを知れば足りる。(……)これに対してプルーストの問題は、それ自体において保存される過去、それ自体において生き残るような過去をどのように救うかという問題である。(……)この問題に対して、「無意志的記憶la Mémoire involontaire」のはたらきという考え方が解答を与える。


【無意志的記憶 La mémoire involontaire】
無意志的記憶 La mémoire involontaire は、まず第一に、ふたつの感覚、ふたつの時間の間の類似性 la ressemblance に依存しているように思われる。しかし、もっと深い段階では、類似性からわれわれは厳密な同一性 une stricte identité へと導かれる。それは、ふたつの感覚に共通な質の同一性か、あるいは、現勢性と過去性 l'actuel et l'ancienというふたつの時間に共通な感覚の同一性である。たとえば味であるが、味は、同時にふたつの時間に拡がる、或る量の持続を含んでいる。

しかしまた逆に、同一の質である感覚は、何か差異のあるものとのひとつの関係 un rapport avec quelque chose de différent を含んでいる。マドレーヌの味は、それに含まれたものの中に、コンブレーを閉じこめ、包んでいる emprisonné et enveloppé Combray。

われわれが意識的知覚 la perception conscienteに留まっている限り、マドレーヌはコンブレーと全く外的な隣接関係 un rapport de contiguïté tout extérieur avec Combray しか持たない。われわれが意志的記憶 la mémoire volontaire に留まる限り、コンブレーは、過去の感覚と分離したコンテクスト le contexte séparable de l'ancienne sensation. として、マドレーヌに対して外的なまま extérieur à la madeleine である。しかし、ここに無意志的記憶 la mémoire involontaireの特質がある。無意志的記憶はこのコンテクストを内在化 intériorise le contexteし、過去のコンテクストを現在の感覚と不可分なものにする l'ancien contexte inséparable de la sensation présente。


【内在化された差異 différence intériorisée】
ふたつの時間の間の類似性が、もっと深い同一性へとおのれを越えて行くのと同時に、過去の時間に属している隣接性は、もっと深い差異 une différence plus profonde へとおのれを越えて行く。コンブレーは現勢的な感覚の中に再現され Combray resurgit dans la sensation actuelle、過去の感覚とのその差異 sa différence avec l'ancienne sensationは、現在の感覚の中に内在化される intériorisée dans la sensation présente。したがって、現在の感覚はもはや、差異のある対象 objet différentとのこの関係と分離できない。

無意志的記憶における本質的なものは、類似性でも、同一性でさえもない。それらは、無意志的記憶の条件にすぎないからである L'essentiel dans la mémoire involontaire n'est pas la ressemblance, ni même l'identité, qui ne sont que des conditions 。本質的なものは、内的なものとなった、内在化された差異である L'essentiel, c'est la différence intériorisée, devenue immanente。

レミニサンスが芸術と類比的 la réminiscence est l'analogue de l'art で、無意志的記憶が隠喩と類比的 la mémoire involontaire, l'analogue d'une であるというのは、この意味においてである。

無意志的記憶 la mémoire involontaire における本質的なものは、《ふたつの差異のある対象 deux objets différents 》を、たとえば、その味をともなったマドレーヌと、色と気温という性質をともなったコンブレーを把握する。それは一方を他方のなかに包み enveloppe l'un dans l'autre、両者の関係を、何らかの内的なものにするelle fait de leur rapport quelque chose d'intérieur。


【純粋状態での短い時間 Un peu de temps à l'état pur】
マドレーヌの味、ふたつの感覚に共通な質、ふたつの時間に共通な感覚は、いずれもそれ自身とは別のもの、コンブレーを喚び起こすためにのみ存在している La saveur, la qualité commune aux deux sensations la sensation commune aux deux moments n'est là que pour rappeler autre chose: Combray。しかし、このように呼びかけられて再び現われるコンブレーは、絶対的に新しいフォルムになっている Combray resurgit sous une forme absolument nouvelle 。

コンブレーは、かつて現在であったような姿では現われない Combray ne surgit pas tel qu'il a été présent。コンブレーは過去として現われる Combray surgit comme passéが、しかしこの過去は、もはやかつてあった現在に対して相対するものではなく mais ce passé n'est plus relatif au présent qu'il a été、それとの関係で過去になっているところの現在に対しても n'est plus relatif au présent par rapport auquel il est maintenant passé 相対するものではない。

それはもはや知覚されたコンブレーでもなく Ce n'est plus le Combray de la perception、意志的記憶の中のコンブレーでもない ni de la mémoire volontaire.。コンブレーは、体験されえなかったような姿で、リアリティ réalité においてではなく、その真理 vérité において現われる。


【純粋過去】
コンブレーは、純粋過去 passé pur の中に、ふたつの現在と共存して coexistant avec les deux présents、しかもこのふたつの現在に囚われることなく mais hors de leurs prises、現勢的な意志的記憶 la mémoire volontaire actuelleと過去の意識的知覚 la perception consciente ancienne では到達しえないところで現われる。

それは、《純粋状態での短い時間 Un peu de temps à l'état pur》である。つまりそれは、現在と過去、現勢的なものである現在 présent qui est actuel と、かつて現在であった過去passé qui a été présent との単純な類似性 une simple ressemblance ではなく、ふたつの瞬間の同一性 une identité dans les deux momentsでさえもなく、その彼岸 au-delàの、かつてあったすべての過去、かつてあったすべての現在よりもさらに深い plus profond que tout passé qui a été, que tout présent qui fu、過去のそれ自体における存在〔即自存在〕 l'être en soi du passé である。《純粋な状態での短い時間 Un peu de temps à l'état pur》とは、局在化した時間のエッセンス l'essence du temps localisée. である。


【潜在的なもの】
《現勢的ではないリアルなもの、抽象的ではないイデア的なもの Réels sans être actuels, idéaux sans être abstraits 》(『見出された時』)――このイデア的なリアルなもの、この潜在的なものが本質である Ce réel idéal, ce virtuel, c'est l'essence。本質は、無意志的記憶の中に現実化または具現化される L'essence se réalise ou s'incarne dans le souvenir involontaire。ここでも、芸術の場合と同じく、包括と展開 l'enveloppement, l'enroulement は、本質のすぐれた状態として留まっている。そして、無意志的記憶は、本質の持つふたつの力を保持している。すなわち、過去の時間のなかの差異 la différence dans l'ancien momentと、現勢性のなかの反復 la répétition dans l'actuel。


ーーーー


◆ドゥルーズ『差異と反復』(1968年)より


【潜在的対象=純粋過去の破片 fragment de passé pur】
・潜在的対象は純粋過去の切片である。 L'objet virtuel est un lambeau de passé pur(ドゥルーズ 『差異と反復』)

・潜在的対象はひとつの部分対象である。L'objet virtuel est un objet partial(ドゥルーズ 『差異と反復』)



【潜在的対象x】
それら二つの現在 deux présents 〔古い現在と現勢的な現在〕が、もろもろの実在的 réels なものからなる系列 la série des réels のなかで可変的な間隔 une distance variable を置いて継起するということが真実であるとしても、それら二つの現在はむしろ、別の本性をもった潜在的対象 l'objet virtuel に対して共存する二つの現実的な系列 deux séries réellesを形成しているのである。しかもその別の本性をもった潜在的対象 l'objet virtuel は、それはそれでまた、それら二つの現実的な系列のなかで、たえず循環し遷移する。(…)反復は、ひとつの現在からもうひとつの現在へ向かって構成されるのではなく La répétition ne se constitue pas d'un présent à un autre、むしろ、潜在的対象(対象=x)に即してそれら二つの現在が形成している共存的な二つの系列のあいだで構成される mais entre les deux séries coexistantes que ces présents forment en fonction de l'objet virtuel (objet = x) 。(ドゥルーズ『差異と反復』財津理訳)
s'il est vrai que les deux présents sont successifs, à une distance variable dans la série des réels, ils forment plutôt deux séries réelles coexistantes par rapport à l'objet virtuel d'une autre nature, qui ne cesse de circuler et de se déplacer en elles(…)La répétition ne se constitue pas d'un présent à un autre, mais entre les deux séries coexistantes que ces présents forment en fonction de l'objet virtuel (objet = x).


【マドレーヌの味=純粋過去の破片 fragment de passé pur】
(プルーストの作品は)ジョイスの聖体顕現 épiphanies とはまったく異なった構造をもっている。しかしながらまた、それは二つの系列 deux séries の問いである。 すなわち、かつての現在 ancien présent (生きられたコンブレー)と現勢的な現在 présent actuel の系列。疑いもなく経験の最初の次元にあるのは、二つの系列(マドレーヌ、朝食)のあいだの類似性 ressemblanceであり、同一性 identité でさえある(質としての味、二つの瞬間における類似というだけでなく自己同一的な質としての味覚)。

しかしながら、秘密はそこにはない。味覚が力能をもつのは、それが何か=X を包含するときのみである La saveur n'a de pouvoir que parce qu'elle enveloppe quelque chose = x。その何かは、もはや同一性によっては定義されない。すなわち味覚は、それ自身のなか en soi にあるものとしてのコンブレー、純粋過去の破片 fragment de passé pur としてのコンブレーを包んでいる。それは、次の二つに還元されえない二重性のなかにある。すなわち、かつてあったものとしての現在(知覚)présent qu'il a été (perception)、そして意志的記憶 mémoire volontaire によって再現されたり再構成されたりし得るかもしれない現勢的な現在 l'actuel présent への二重の非還元性 double irréductibilité のなかにある。

それ自身のなかのこのコンブレー Combray en soi は、己れの本質的差異 différence essentielle によって定義される。「質的差異 qualitative difference」、それはプルーストによれば、「地球の表面 には à la surface de la terre」存在せず、固有の深さ une profondeur singulière のなかにのみ存する。この差異なのである、それ自身を包むことによって、諸々の系列のあいだの類似性を構成する質の同一性を生み出すのは。



【対象=X としてのそれ自身のなかのコンブレー】
したがって再びまた、同一性と類似性 Identité et ressemblance は「差異化するもの différenciant」の結果である。二つの系列が互いに継起するなら、それにもかかわらず、二つの系列に共鳴 résonance を引き起こすもの、すなわち対象=X としてのそれ自身のなかのコンブレー Combray en soi comme objet = x との関係において共存する。さらに、二系列の共鳴は、その系列をともに越えて占領する déborde 死の本能をもたらす。たとえば半長靴と祖母の記憶である。

エロスは共鳴 la résonance によって構成されている。だがエロスは、強制された運動の増幅 l'amplitude d'un mouvement forcé によって構成されている死の本能に向かって己れを乗り越える(この死の本能は、芸術作品のなかに、無意志的記憶のエロス的経験の彼岸に、その輝かしい核を見出す)。

プルーストの定式、《純粋状態での短い時間 un peu de temps à l'état pur》が示しているのは、まず純粋過去 passé pur 、過去のそれ自体のなかの存在、あるいは時のエロス的統合である。しかしいっそう深い意味では、時の純粋形式・空虚な形式 la forms pure et vide du temps であり、究極の統合である。それは、時のなかに永遠回帰を導く死の本能 l'instinct de mort qui aboutit à l'éternité du retour dans le tempsの形式である。(『差異と反復』)



【永遠回帰と起源の不在】
永遠回帰 L'éternel retourは、同じものや似ているものを環帰させることはなく、それ自身が純粋な差異 la pure différenceの世界から派生する。

・・・永遠回帰には、つぎのような意味しかない―――特定可能な起源の不在 l'absence d'origine assignable。それを言い換えるなら、起源は差異である l'origine comme étant la différence と特定すること。もちろんこの差異は、異なるもの(あるいは異なるものたち)をあるがままに環帰させるために、その異なるものを異なるものに関係させる差異である。

そのような意味で、永遠回帰はまさに、起源的で、純粋で、総合的で、即自的な差異 une différence originaire, pure, synthétique, en soi の帰結である(この差異はニーチェが『力の意志』と呼んでいたものである)。差異が即自であれば、永遠回帰における反復は、差異の対自である。(ドゥルーズ『差異と反復』1968年))

⋯⋯⋯⋯

◆プルースト『見出された時』より

単なる過去の一瞬、それだけのものであろうか? はるかにそれ以上のものであるだろう、おそらくは。過去にも、そして同時に現在にも共通であって、その二者よりもさらにはるかに本質的な何物かである。これまでの生活で、あんなに何度も現実が私を失望させたのは、私が現実を知覚した瞬間に、美をたのしむために私がもった唯一の器官であった私の想像力が、人は現にその場にないものしか想像できないという不可避の法則にしばられて、その現実にぴったりと適合することができなかったからなのであった。

ところが、ここに突然、そのきびしい法則の支配力が、自然のもたらした霊妙なトリックによって、よわまり、中断し、そんなトリックが、過去と現在とのなかに、同時に、一つの感覚をーーフォークとハンマーとの音、本のおなじ表題、等々をーー鏡面反射させたのであった。そのために、過去のなかで、私の想像力は、その感覚を十分に味わうことができたのだし、同時に現在のなかで、物の音、リネンの感触等々による私の感覚の有効な発動は、想像力の夢に、ふだん想像力からその夢をうばいさる実在の観念 l'idée d'existence を、そのままつけくわえたのであって、そうした巧妙な逃道のおかげで、私の感覚の有効な発動は、私のなかにあらわれた存在に、ふだんはけっしてつかむことができないものーーきらりとひらめく一瞬の持続 la durée d'un éclair、純粋状態にあるわずかな時間un peu de temps à l'état pur ――を、獲得し、孤立させ、不動化することをゆるしたのであった。

あのような幸福の身ぶるいでもって、皿にふれるスプーンと車輪をたたくハンマーとに同時に共通な音を私がきいたとき、またゲルマントの中庭の敷石とサン・マルコの洗礼堂との足場の不揃いに同時に共通なもの、その他に気づいたとき、私のなかにふたたび生まれた存在は、事物のエッセンスからしか自分の糧をとらず、事物のエッセンスのなかにしか、自分の本質、自分の悦楽を見出さないのである。私のなかのその存在は、感覚機能によってそうしたエッセンスがもたらさえない現在を観察したり、理知でひからびさせられる過去を考察したり、意志でもって築きあげられる未来を期待したりするとき、たちまち活力を失ってしまうのだ。意志でもって築きあげられる未来とは、意志が、現在と過去との断片から築きあげる未来で、おまけに意志は、そんな場合、現在と過去とのなかから、自分できめてかかった実用的な目的、人間の偏狭な目的にかなうものだけしか保存しないで、現在と過去とのなかの現実性を骨ぬきにしてしまうのである。

ところが、すでにきいたり、かつて呼吸したりした、ある音、ある匂が、現在と過去との同時のなかで、すなわち現勢的でないリアルなもの、抽象的でないイデア的なもの Réels sans être actuels, idéaux sans être abstraits である二者の同時のなかで、ふたたびきかれ、ふたたび呼吸されると、たちまちにして、事物の不変なエッセンス、ふだんはかくされているエッセンスが、おのずから放出され、われわれの真の自我がーーときには長らく死んでいたように思われていたけれども、すっかり死んでいたわけではなかった真の自我がーーもたらされた天上の糧を受けて、目ざめ、生気をおびてくるのだ。時間の秩序から解放されたある瞬間が、時間の秩序から解放された人間をわれわれのなかに再創造して、その瞬間を感じうるようにしたのだ。それで、この人間は、マドレーヌの単なる味にあのようなよろこびの理由が論理的にふくまれているとは思わなくても、自分のよろこびに確信をもつ、ということがわれわれにうなずかれるし、「死」という言葉はこの人間に意味をなさない、ということもうなずかれる。時間のそと hors du temps に存在する人間だから、未来について何をおそれることがありえよう? (プルースト『見出された時』井上究一郎訳だが、一部変更)

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ドゥルーズの『差異と反復』に戻る。


【潜在的なものと現勢的なもの】
潜在的なもの virtuel は、リアルなもの réel には対立しない。ただ現勢的なもの actuel に対立するだけである。潜在的なものは、潜在的なものであるかぎりにおいて、或る充溢したリアリティ réalité を保持している。潜在的なものについて、まさにプルーストが共鳴の諸状態について述定していたのと同じことを述定しなければならない。すなわち、《現勢的でないリアルなもの Réels sans être actuels、抽象的でないイデア的なもの idéaux sans être abstraits》(プルースト)ということ、そして、虚構でない象徴的なもの symboliques sans être fictifs である。(ドゥルーズ『差異と反復』1968年)


【純粋多様体 multiplicité pureとしての潜在的なもの】
可能的なもの possible は、リアル réel に対立する。可能なもののプロセスは、「実現化 réalisation」である。

反対に、潜在的なもの virtuel は、リアル réel に対立しない。それ自体で充溢したリアリティpleine réalité を持っている。潜在的なもののプロセスは、「現勢化 actualisation」 である。(『差異と反復』)
可能的なものと潜在的なもの le possible et le virtuel は、次のように区別される。可能的なものは、「概念 concept」における同一性という形式を示す。潜在的なものは「イデア Idée」における純粋多様体 multiplicité pure を示す。この多様体は、先行条件としての同一的なものを根底的に排除する。(『差異と反復』)


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【精神分析における決定的な瞬間】
精神分析における決定的瞬間が起こったのは、フロイトが、ある点で、現実的な réels 幼児期の出来事の仮定を放棄した時である。Un moment décisif de la psychanalyse fut celui où Freud renonça sur certains points à l'hypothèse d'événements réels de l'enfance(ドゥルーズ『差異と反復』)


【1895年フロイト】
無意識のなかの現実にはどんな目安もない es im Unbewußten ein Realitätszeichem nicht gibt。したがって人は、真理、そして情動に備給された虚構とのあいだの区別をし得ない daß man die Wahrheit und die mit Affekt besetze Fiktion nicht unterscheiden kann。(フロイト、フリース宛書簡 1895 berichtet Freud in einem Brief an Fliess)


《潜在的リアルは象徴界に先立つ。しかしそれは象徴界によってのみ「遡及的に」現勢化されうる。》(ロレンゾ・チーサ、2007、Subjectivity and Otherness: A Philosophical Reading of Lacan, by Lorenzo Chiesa)

次のように言うことーー、「エネルギーは、河川の流れのなかに潜在態として、なんらかの形で既にそこにある l'énergie était en quelque sorte déjà là à l'état virtuel dans le courant du fleuve」--それは(精神分析にとって)何も意味していない。

なぜなら、我々に興味をもたせ始めるのは、エネルギーが蓄積された瞬間 moment où elle est accumulée からのみであるから。そして機械(水力発電所 usine hydroélectrique)が作動し始めた瞬間 moment où les machines se sont mises à s'exercer からエネルギーは蓄積される。(ラカン、セミネール4、1956)

ーー原初 primaireとは最初 premier のことではないーー《Il est évidemment primaire dès que nous commencerons à penser, mais il est certainement pas le premier. 》(ラカン、 S20)

すなわち、潜在的リアルとは、フロイトの遡及性 Nachträglichkeit 概念にかかわる。


⋯⋯⋯⋯

冒頭に掲げた穴のシニフィアンS(Ⱥ)とは、フロイトの固着と等価である。

「一」と「享楽」との接合としての固着 la fixation comme connexion du Un et de la jouissance。⋯⋯⋯

「一」Un と「享楽」jouissance との接合(つながり)が分析的経験の基盤であると私は考えて いる。そしてそれはまさにフロイトが「固着 Fixierung」と呼んだものである。⋯⋯

フロイトにとって抑圧 refoulement は、固着 fixation のなかに根がある。抑圧Verdrängung はフロイトが固着 Fixierung と呼ぶもののなかに基盤があるのである。(ミレール2011, L'être et l'un) 

そして、《S(Ⱥ)とは、欲動のクッションの綴じ目である。S DE GRAND A BARRE, qui est vraiment le point de capiton des pulsions》、《享楽は固着の対象である elle est l'objet d'une fixation》(ジャック=アラン・ミレール 2011, Première séance du Cours 2011)

このフロイトの固着S(Ⱥ)は、後期ラカン概念サントーム(原症状=身体の出来事)でもある。

ラカンが症状概念の刷新として導入したもの、それは時にサントーム∑と新しい記号で書か れもするが、サントームとは、シニフィアンと享楽の両方を一つの徴にて書こうとする試みで ある。Sinthome, c'est l'effort pour écrire, d'un seul trait, à la fois le signifant et la jouissance. (ミレール、Ce qui fait insigne、The later Lacan、2007 所収)

ーー《サントームは身体の出来事として定義される Le sinthome est défini comme un événement de corps 》(ミレール, L'être et l'un、XI . l'outrepasse、2011)    

実際のところ、分析経験によって想定を余儀なくさせられることは、幼児期の純粋な出来事的経験 rein zufällige Erlebnisse が、欲動の固着 (リビドーの固着 Fixierungen der Libido )点を置き残す hinterlassen 傾向がある、ということである。(フロイト 『精神分析入門』 第23 章 「症状形成へ道 DIE WEGE DER SYMPTOMBILDUNG」、1916-1917