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2018年3月26日月曜日

染みとモンタージュ

形式・イマージュ・無」の記述に依拠しつつ、もう一度、基本に戻って考えてみることにする。

確かにイマージュとは幸福なものだ。だがそのかたわらには無が宿っている。そしてイマージュのあらゆる力は、その無に頼らなければ、説明できない。(ゴダール『(複数の)映画史』「4B」)

ゴダールがヒッチコックのモンタージュに多大な影響を受けたことは、『(複数の)映画史』4Aの「奇跡」 (ヒッチコックの奇跡)の項で明瞭に示されている。

ここでは初期ジジェクから、ヒッチコックの『鳥』をめぐるジジェクの注釈を先ず掲げる。ーー過剰解釈、あるいはあまりにもラカン的過ぎると一部では評判が悪いが、その悪評は対象aの意味合いがほとんど理解されていないせいだとわたくしはみる。


◆ジジェク『斜めから見る』(1991)--既存訳からだが一部変更

まず最初に『鳥』の一場面を取り上げよう。主人公の母が、鳥たちに荒らされた部屋を覗き込み、両眼をえぐられたパジャマ姿の屍体を見る場面だ。



カメラはまず屍体全体を見せる。われわれはカメラが、魅惑的な細部、すなわち眼球をえぐりとられた血まみれの眼窩へとゆっくり接近していくのを期待する。ところがヒッチコックはわれわれの期待するプロセスをひっくり返してみせる。スローダウンの代わりにスピードアップしてみせるのだ。二つの唐突なショット、その各々がわれわれを主体へと急接近させるによって、彼はいきなり屍体の頭部を見せる。この急速に接近するショットは価値転倒的な効果を生み出す。というのも、そのショットは、ぞっとするような対象をもっと近くで見たいというわれわれの欲望を満たしているにもかかわらず、われわれを欲求不満に陥らせる。対象に接近する時間が短すぎて、われわれは、対象の残酷な知覚を統合し、「理解のための時間」、「消化」するための「間(マ pause)」を飛び越えてしまうのだ。



ふつうのトラッキング・ショットは、「正常な」速度を落とし、接近を引き延ばすことによって、対象=染みにある特定の重みをあたえる。ところがここでは、対象が「見失われる」。われわれがあまりに性急に、あまりに速く対象に接近してしまうからである。いうなれば、通常のトラッキング・ショットは強迫的であり、われわれをある細部へと無理やり固着させる。その細部はトラッキングの緩慢な速度のために染みとして機能せざるをえなくなる。一方、対象への性急な接近はヒステリー的な傾向を帯びており、われわれはあまりの速度によって対象を「見失う」。なぜならこの対象はすでにそれ自体が無であり空洞なのである。したがって、「あまりにも遅く」か「あまりにも速く」でないと呼び出すことができないのだ。なぜなら「適当な時間」をおいたとき、それは無でしかないのである。したがって、引き延ばしと性急さとは、欲望の対象=原因、<対象a>、純粋な見せかけ pure seeming の「空無性 nothingness」を捉えるための二つの方式なのである。かくして、ヒッチコックにおける「染み」の対象的次元が明らかになる。すなわち、その染みがいかなる意味作用をになっているかということである。それは二重の意味を生み出し、イマージュのあらゆる要素に、解釈活動を開始させるような補足的な意味を付け加えるのである。
だからといって、染みのもう一つの側面を見落としてはならない。それは、象徴的現実があらわれるためには落ちなければならない、あるいは沈まなけらばならない、不活性で不透明な対象としての側面である。つまり、牧歌的な風景の中に染みを出現させるヒッチコック的なトラッキング・ショットは、《現実の領域は対象a の除去の上になりたっているが、それにもかかわらず、対象a が現実 の領域を枠どっている。 le champ de la réalité ne se soutient que de l'extraction de l'objet a qui lui donne son cadre》(Lacan, E554, 1966)というラカンのテーゼをあたかも例証するかのようである。

ジャック=アラン・ミレールの厳密な注釈を引用しよう。

《〈現実界〉としての対象を密かに無視することが「ひとかけらの現実」としての現実の安定化の条件だ、とわれわれは理解している。だが、〈対象a〉があるべきところにないなら、〈対象a〉 はどうやって現実に枠をはめるのか。




〈対象a〉は、まさしく現実の領域から除去されることによって、現実に枠にはめるのである。 わたしがこの絵の表面から、絵から網がけになった長方形を取り除くなら、われわれが枠と呼ぶものを獲得する。すなわち穴にとっての枠でありながら、また残りの表面の枠である。こうした枠はどんな窓によっても作ることができる。

〈対象a〉というのはこのような表面の断片であり、それを現実から取り除くことが、現実に枠をはめることになるのである。主体とは、すなわち斜線を引かれた主体とは、…この穴のことである。存在としては、この除去されたかけらにほかならないのである。主体と〈対象a〉は等価である、とはそういうことなのである。》(ミレール,(Jacques-Alain Miller,Montré à Prémontré, 1984)

《我々は、言語の使用の結果としての、剰余享楽(対象a)から生まれた存在である。nous sommes des êtres nés du plus de jouir, résultats de l'emploi du langage. 》(Lacan, S17, 21 Janvier 1970)

ミレールの図式は、ヒッチコック的トラッキング・ショットの図式として読むことができる。すなわち、現実の全体的な眺めから、われわれは、現実に枠(斜線を引かれた長方形)を提供している染みへと接近していく。ヒッチコック的トラッキング・ショットの接近は、メビウスの環の構造のレミニサンスである(構造を思わせる reminiscent of the structure)。われわれは現実の側から離れていくうちに、ふいに、<現実界>(それの除去が現実を構成している)のすぐそばにいることに気づくのである。このプロセスはモンタージュの弁証法に裏返しである。モンタージュの課題は、カットの非連続性によって新たな意味作用、新たな現実の連続性を生み出すことであったが、ここでは連続的接近そのものが、異質な要素(絵の残りの部分が象徴的現実の一貫性を獲得するためには、この異物が不活性的で非意味な「染み」でありつづけなければならない)を見せることによって、断続、根源的非連続性の効果を生み出すのである。(ジジェク『斜めから見る』1991、既存訳一部変更)

⋯⋯⋯⋯

ミレールは1984年時点では、ラカンに準拠しつつ《主体と〈対象a〉は等価である》としているが、ジュパンチッチは、よりいっそう厳密に次のような言い方をしている。

主体とは、ネガティブなマルチチュードとしての裂け目である。…シニフィアン(=表象)とは、主体に対して対象を代表象する何ものかであるのではない。そうではなく、シニフィアンとは、他のシニフィアンに対して主体を代表象するものである。すなわち、主体とはシニフィアンの内的裂目である。…他方、対象aは、この動きのなかで生み出されたポジティブな残余である。ラカンはそれを剰余享楽と呼んだ。剰余享楽 のほかには享楽 jouissance はない。すなわち享楽はそれ自体として本質的にエントロピーとして現われる。 (ジュパンチッチ2006、Alenka Zupancic, When Surplus Enjoyment Meets Surplus Value)

これはラカンのマルクス価値形態論への言及を考慮すれば当然そうならなければならない(「最も基本的なところから始めよう」の後半を参照)。

(マルクスの価値形態論において)ひとつの商品は、他の商品の使用価値においてのみ、その(交換)価値を表現しうる。 というのは、一つのシニフィアンは、他のシニフィアンの現前においてのみ、その記銘の場ーーその潜在的不在 (斜線を引かれた主体$) ーーを代表象しうるから。(ジジェク『為すところを知らざれ ばなり』1991年、私訳)

ジジェクは『無以下のもの』(2012年)で、主体とは「要素なき場」、対象aとは「場なき要素」と言っている。これがジュパンチッチのいう「主体=シニフィアンの内的裂目」、そして次の文にある「対象a=彷徨える過剰」の意味である。

以下の文は、「表象と現象と仮象」で示したように、シニフィアン=表象として読もう。

……ラカンの公式、《シニフィアンは他のシニフィアンに対して主体を代表象する Le signifiant, c'est ce qui représente le sujet pour un autre signifiant 》。これは現代思想の偉大なブレイク スルーだった。…この概念化にとって、再現前(表象 representation)は、「現前の現前 presentation of presentation」、あるいは「ある状況の状態 the state of a situation」ではない。 そうではなく、むしろ「現前内部の現前 presentation within presentation」、あるいは「ある状況内部の状態 state within a situation 」である。

この考え方において、「表象」はそれ自体無限であり、構成的に非全体 pastoutである(あるいは非決定的である)。それはどんな対象も代表象しない。それ自身における絶え間ない「非関係 non-rapport」を妨げない。…ここでは表象そのものが、それ自身を覆う「彷徨える過剰 excès errant」である。すなわち表象は、「過剰なものへの無限の滞留」である。それは、代表象された対象、あるいは代表象されない対象から単純に湧きだす過剰ではない。そうではなく、この表象行為自体から生み出される過剰、あるいはそれ自身に内在的な「裂目」、「非一貫性」から生み出される過剰である。現実界は、表象の外部の何か、表象を超えた何かではない。そうではなく、表象のまさに裂目である。 (アレンカ・ジュパンチッチ Alenka Zupancic、The Fifth Condition、2004)

ラカンは次のように言っている。

…症状概念。注意すべき歴史的に重要なことは、フロイトによってもたらされた精神分析の導入の斬新さにあるのではないことだ。症状概念 la notion de symptôme は、…マルクス MARX を読むことによって、とても容易くその所在を突き止めるうる。(Lacan, S18, 16 Juin 1971)
人は症状概念の起源を、ヒポクラテスではなく、マルクスに探し求めなければならない。(Lacan, S22, 18 Février 1975)

ようは「表象」を考える上で、なにも格別にラカンに依拠しなくてもよい。マルクスの価値形態論に依拠したらよいのである。

もちろん、カントの「超越論的主観 transzendentales Subjekt」ーー柄谷が次のように言うとき、ラカンの「斜線を引かれた主体$」を想起しているに違いない、《カントのいう「超越論的主観X」とは、いわば「超越論的主観〔「主観」に×印を上書きする〕」である》--や、ドゥルーズ≒ベルグソンの《潜在的対象l'objet virtuel》、ドゥルーズ=プルーストの《内在化された差異 différence intériorisée》・《内的差異 différence interne》、あるいはニーチェ永遠回帰分析からもたらされた《純粋差異 pure différence》等に依拠する手もあるだろう。

だが表象をめぐる思考の核心は、マルクスの価値形態論である。なぜなら、無としての主体と同時に、剰余価値(剰余享楽=対象a)も含めて形式的に考え得るから。

根源にあるのは、使用価値(シニフィアン)と使用価値(シニフィアン)の任意の関係にほかならない。価値形態とは、いわば形象的な言語である。(柄谷行人『マルクスその可能性の 中心』p.35)

ラカン自身の発言を掲げよう。

冒頭の《主体は、他のシニフィアンに対する一つのシニフィアンによって代表象される》とは、《$は、S2に対するS1によって代表象される》として読もう。





主体は、他のシニフィアンに対する一つのシニフィアンによって代表象されうるものである Un sujet c'est ce qui peut être représenté par un signifiant pour un autre signifiant。しかしこれは次の事実を探り当てる何ものかではないか。すなわち交換価値 valeur d'échange として、マルクスが解読したもの、つまり経済的現実において、問題の主体、交換価値の主体 le sujet de la valeur d'échange は何に対して代表象されるのか? ーー使用価値 valeur d'usage である。

そしてこの裂け目のなかに既に生み出されたもの・落とされたものが、剰余価値 plus-valueと呼ばれるものである。この喪失 perte は、我々のレヴェルにおける重要性の核心である。

主体は己自身と同一化しえず、もはやたしかに享楽しえないne jouit plus 。何かが喪われているだ。それが剰余享楽 plus de jouir (対象a)と呼ばれるものである。(ラカン、セミネ ールⅩⅥ、D'un Autre à l'autre, 13 Novembre 1968)

やや難解な文だが、簡潔に言ってしまえば、《 常に「一」と「他」、「一」と「対象a」がある。il y a toujours l'« Un » et l'« autre », le « Un » et le (a) 》 (ラカン、S20、16 Janvier 1973)  である。「一」という表象(シニフィアン)には、つねに対象aが彷徨える過剰としてある。

ラカンの核心的テーゼ、《主体は、他のシニフィアンに対する一つのシニフィアンによって代表象されうるものである》を「表象」という用語を使って言い換えれば、「斜線を引かれた主体$は、他の表象に対する一つの表象によって代表象される」である。

もし、「形式・イマージュ・無」で示したように、ゴダールの表現(下図の最下段)の思考する形式とイマージュを併せて「イマージュ」と置いてみることが許されるなら(赤枠)、「無は、他のイマージュに対する一つのイマージュによって代表象される」となる。




そしてそこに「場なき要素」・「彷徨える過剰」として現われるのが剰余享楽(剰余価値)であり、ゴダール用語でいえば「分身」である。

厳密にいえば、ラカン派において「分身」とは、

・分身とは、私 moi プラス対象aーー私のイメージに付け加えられた不可視の部分ーーと同じものである。(ムラデン・ドラー1991, Lacan and the Uncanny、PDF

・分身とは i′(a) + a、想像的他者プラス対象aである(ロレンゾ・チーサ2007、Subjectivity and Otherness)

である。ゴダールが批評家時代から注目し『(複数の)映画史』4Aでも引用している、最も影響を受けたイマージュ、かつまたそのモンタージュの手法のひとつとされる、ヒッチコックの『間違えられた男』の次の分身イマージュは、まさに「 私 moi プラス対象a」であるだろう。





なにはともあれ、ラカン派でいう「表象は非全体」、あるいは「表象には、主体にとっての何ものかが「染み」として書き込まれている」とは、対象aにかかわる思考のもとにある。

染みは、構造的に喪われている表象の代役(喪われているシニフィアンのシニフィアン)である。表象の全領野は染みに依拠している。染みという代用品は、構造的に喪われているにもかかわらず、この代役は他の諸表象と同じ水準にあり、絶えず閉じ・脱境界化し・全体化する表象の領野の不可能性にとっての代役である。表象は「すべてではない」。表象は非全体 pas-tout である。表象が非全体なのは、主体の刻印のためである。表象自体の領野のなかに、主体にとっての何かが代理されているのである。(ムラデン・ドラ―2016, Mladen Dolar, Anamorphosis, pdf
主体の眼差しは、常に-既に、知覚された対象自体にシミとして書き込まれている。シミ、すなわち「対象以上の対象のなか」(対象a)に。その盲点から対象自体が主体を眼差し返す。《確かに絵は、私の目のなかにある。だが私自身、この私もまた、絵のなかにある。le tableau, certes est dans mon oeil, mais moi je suis dans le tableau. 》 (ラカン、S11) (ジジェク、パララックス・ヴュ―、私訳)

※参照:眼差しとしてのプンクトゥム

おそらくゴダールが『(複数の)映画史』で多様な引用ーーときにはハードコアポルノの引用まであるーー、そしてその編集(モンタージュ)をした手法とは、ラカン派観点からみれば、「美しい」イマージュに「染み」、あるいは空無としての対象aを種々の形式で表そうとした試みとして捉えうるのではないか。


(複数の)映画史


ロラン・バルトは染みをめぐって思考した作家である。

一人の立派なハジ(聖地巡礼をすませた回教徒の尊称)。短い灰色のひげをよく手入れし、手も同様に手入れし、真っ白い上質のジェラバを優雅にまとって、白い牛乳を飲む。

しかし、どうだ。鳩の排泄物のように、汚れが、きたないかすかなしみがある。純白の頭巾に。une tache, un léger frottis de merde, comme un besoin de pigeon, sur la capuche immaculée.(ロラン・バルト『偶景』1969年テキスト、死後出版1982)


(複数の)映画史

作家はいつもシステムの盲点(システムの目に見えない染み la tache aveugle des systèmes )にあって、漂流 dérive している。それはジョーカー joker であり、マナ manaであり、ゼロ度 degré zéroであり、ブリッジのダミー le mort du bridge、つまり、意味に(競技に)必要ではあるが、固定した意味は失われているものである。(『テクストの快楽』1973年)
プンクトゥム punctum とは、刺し傷 piqûre、小さな穴 petit trou、小さなシミ petite tache、小さな裂け目 petite coupureのことでもありーーしかもまた、骰子の一振りcoup de dés のことでもある…。ある写真のプンクトゥムとは、その写真のうちにあって、私を突き刺すme point 偶然 hasard (それだけなく、私にあざをつけme meurtrit、私の胸をしめつけるme poigne)偶然なのである。(ロラン・バルト『明るい部屋』第10章)

ーー《バルトのストゥディウムとプンクトゥムは、ラカンのオートマン(シニフィアンのネットワーク)とテュケー(現実界との遭遇)への応答である。Les Studium et punctum de Barthes répondent à automaton et tuché》(ミレール2011, jacques-alain miller 2011,L'être et l'un)

シミが現れるとともに、欲望の領野(シニフィアンのネットワークの領野)において、その背後に隠されたものの蘇りの可能性が準備される。Avec la tache apparaît, se prépare la possibilité de résurgence, dans le champ du désir, de ce qu'il y a derrière d'occulte(ラカン、S10、5 Juin l963)

(複数の)映画史


ーーシツレイ! エロばっかりで。とはいえゴダールの『(複数の)映画史』をエロ抜きで語っている「学者さん」ーーバルト曰くの「父性原理の権化である論文形式」でーーのたぐいこそ、真なる「倒錯者」だよ。

倒錯とは、「父に向かうヴァージョン version vers le père」以外の何ものでもない。要するに、父とは症状である le père est un symptôme …これを「père-version」と書こう。(ラカン、S23、18 Novembre 1975)

この「父の版 père-version」についてのコレット・ソレールの注釈は次の通り。

…結果として論理的に、最も標準的な異性愛の享楽は、父のヴァージョン père-version、すなわち倒錯的享楽 jouissance perverseの父の版と呼びうる。…エディプス的男性の標準的解決法、すなわちそれが父の版の倒錯である。(コレット・ソレール2009、Lacan, L'inconscient Réinventé)

いやあ、なんの話だったか? ーーもとに戻らねばならない。

⋯⋯⋯⋯

対象a の根源的両義性……対象a は一方で、幻想的囮/スクリーンを表し、他方で、この囮を混乱させるもの、すなわち囮の背後の空虚 void をあらわす。(ジジェク, Can One Exit from The Capitalist Discourse Without Becoming a Saint? ,2016)

もうひとつ、空虚・「最小の差異」としての対象aを理解する上で肝要なのは、「外密」概念である。

外密 Extimité は親密 intimité の反対ではない。それは最も親密なもの le plus intimeでさえある。外密は、最も親密でありながら、外部 l'extérieur にある。それは、異物 corps étranger のようなものである(ミレール、Miller Jacques-Alain, 1985-1986, Extimitéーー「ひとりの女とは何か?」)

そして《対象a とは外密である。l'objet(a) est extime》(ラカン、S16、26 Mars 1969)

ラカンが、象徴空間の内部と外部の重なり合い(外密 Extimité)によって、象徴空間の湾曲・歪曲を叙述するとき、彼はたんに、対象a の構造的場を叙述しているのではない。剰余享楽は、この構造自体、象徴空間のこの「内に向かう湾曲」以外の何ものでもない。(ジジェク、LESS THAN NOTHING, 2012)

これがドゥルーズ的な「起源の不在」のラカン派的捉え方である。

永遠回帰 L'éternel retourは、同じものや似ているものを環帰させることはなく、それ自身が純粋な差異 la pure différenceの世界から派生する。

・・・永遠回帰には、つぎのような意味しかない―――特定可能な起源の不在 l'absence d'origine assignable。それを言い換えるなら、起源は差異である l'origine comme étant la différence と特定すること。もちろんこの差異は、異なるもの(あるいは異なるものたち)をあるがままに環帰させるために、その異なるものを異なるものに関係させる差異である。

そのような意味で、永遠回帰はまさに、起源的で、純粋で、総合的で、即自的な差異 une différence originaire, pure, synthétique, en soi の帰結である(この差異はニーチェが『力の意志』と呼んでいたものである)。差異が即自であれば、永遠回帰における反復は、差異の対自である。(ドゥルーズ『差異と反復』1968)

くどくなるがもうひとつ付け加えておこう。

…対象a はカントの超越論的対象 transcendental object に近似している。なぜなら、対象a は「知られていないX」、仮象の彼方の対象の「ヌーメノンNoumenon」的核を表すから。それは《あなたのなかにあるあなた以上のもの quelque chose en toi plus que toi》である。

したがって対象a は、純粋視差対象 pure parallax objectとして定義される。…さらに厳密に言えば、対象a は、視差の裂目 parallax gapの「原因」である。

ここでのパラドクスは厳密なものである。まさにこの点にて、純粋差異が現れる。差異はもはや「二つの可能的に存在する対象 two positively existing objects」のあいだの差異ではない。そうではなく「「一」とそれ自体からの同じ対象を分割する divides one and the same object from itself」差異である。この差異「それ自体」は即座に測り知れない unfathomable 対象と一致する。

諸対象の間の単なる差異とは対照的に、純粋差異はそれ自体、対象である。(ジジェク、パララックス・ヴュー2006、私訳)

ーーというわけで、名前を挙げるつもりはないが、ここでの記述は「表象文化論」系譜の児戯に類するゴダール論への遠回しの嘲罵デアル・・・、そしてそれにふんふん頷いている日本ドゥルーズ村の研究者など糞デアル・・・

蚊居肢散人は成島柳北主義者になることもあるのでご用心を。
今余ガ思フマヽヲ書キ綴リテ、
世ノ好古家ニ質サントス。
定メテ其ノ心ニ逆カフコトモ有ランナレド、 ソハ余ガ一家言トシテ宥シ給ヒネ。(「好古小言」濹上漁史)

すなわち、

諸氏ノ美シキ魂ノ汗ノ果物ニ敬意ヲ表スレド
諸氏ノ誠実ナ重ミノナカノ堅固ナ臀ヲ敬ヘド
余少シバカリ窓ヲ開ケタシ。
にいちぇト共ニ「空気ヲ! モツト空気ヲ!」ト叫ビタシ。
余新鮮ノ空気ニ触ルヽコトヨリ暫シ隔タリ、
鼻腔ヲ見栄坊ニテ鵞鳥ノ屁屎尿ノ穢臭ニ穿タレ
身骨ヲ美シキ魂ニテ猫カブリノ垢衣汗物ノ腐臭ニ埋メルガ如シ。

芸能ハ固ヨリ有用ナレド、
務メテ雅致ヲ失ハズ、
空シク倒錯ニノミ流レザルヲ可トス。
コケッコリー先生少シク注意シ給フ可シ。

平成三十年三月二十六日深更、蚊居肢子斎戒沐浴シ、
恭シクにいちぇノ文ヲ具ヘテ自ラ其ノ舌ヲ祭ル。


⋯⋯⋯⋯

※付記

ラカンは「哲学はがらくた」だと言っている。

あなた方は焦らないようにしたらよろしい。哲学のがらくたに肥やしを与えるものにはまだしばらくの間こと欠かないだろうから。

Méfiez -vous donc de votre précipitation: pour un temps encore, l'aliment ne manquera pas à la broutille philosophique.(ラカン「哲学科の学生への返答 Réponses à des étudiants en philosophie」 1966)
対象a …この対象は、哲学的思惟には欠如しており、そのために自らを位置づけえない。つまり、自らが無意味であることを隠している。Cet objet est celui qui manque à la considération philosophique pour se situer, c'est à dire pour savoir qu'elle n'est rien. (……)

それはフェティシュとマルクスが奇しくも精神分析に先取りして同じ言葉で呼んでいたものだ。ce que Marx appelait en une homonymie singulièrement anticipée de la psychanalyse, le fétiche(同上)

マルクスの「自動的フェティッシュ」を引用しておこう(参照:「自動的フェティッシュautomatische Fetisch」と「自動的主体 automatisches Subjekt 」

利子生み資本では、自動的フェティッシュautomatische Fetisch、自己増殖する価値 selbst verwertende Wert、貨幣を生む貨幣 Geld heckendes Geld が完成されている。(⋯⋯)

ここでは資本のフェティッシュな姿態 Fetischgestalt と資本フェティッシュ Kapitalfetisch の表象が完成している。我々が G─G′ で持つのは、資本の中身なき形態 begriffslose Form、生産諸関係の至高の倒錯 Verkehrungと物件化 Versachlichung、すなわち、利子生み姿態 zinstragende Gestalt・再生産過程に先立つ資本の単純な姿態 einfache Gestalt des Kapitals である。それは、貨幣または商品が再生産と独立して、それ自身の価値を増殖する力能ーー最もまばゆい形態での資本の神秘化 Kapitalmystifikation である。(マルクス『資本論』第三巻)

ラカンに大きく学んでいる「哲学者」バディウは、ラカン曰くの「哲学のがらくた」をこう言い直している、《ラカンの後、どんな哲学もない、もしラカンの「反哲学」の試練を経ないなら there can be no philosophy after Lacan unless it has undergone the trial of Lacanian ‘anti-philosophy》(pdf)