東京大学には、おそらく蓮實重彦の発案にかかわるのではないかと憶測される「表象文化」という学科があるくらいだから、その設立時の松浦寿輝の文章を読んでみたが、たいしたことは書かれていない。
問いは表象とイマージュだけではない。表象と現象と仮象はどう違うのだろうな、それぞれ、「表のかたち」「現れるかたち」「仮のかたち」で、なかなかいい訳語だけどさ。
わたくしはどちらかと言うと、ニーチェ的に言い放ちたくなるのだけれど。表象も現象も、仮象だよ、と。
とはいえ、もうすこし突っ込んでみなくてはならない。
ネット上の簡易な「ハイデガー辞書」によれば、「表象 vorstellen」の前置詞 vorとは、「前に」という意味をもち、語幹 Stellenとは「(何かを)置く」とであり、したがって「表象 vorstellen」とは、「前方に持ち出す・前方に動かす」、「何かほかのものの前に何かを置く」という意味だとされている。同様なことは、比較的詳細な記述がある「The Cahiers pour l’Analyse and Contemporary French Thought」の「表象 La représentation」の項にも記されている。
もっとも、基本的な意味はこうであるとしても、「表象」といいう語はほかにも、主にカントやマルクスなどの用法を起源とした種々の意味合いで使われるている(らしい)。
哲学にはまったく疎いわたくしは、こうやって調べるなかで、奇妙な「発見」をしてしまった。英語では、独語の「仮象(Schein)」と「現象(Erscheinung)」どちらもappearanceとされるらしい(もっともときにはphenomenonとされるようだが)。
これもネット上の簡易辞書の記述ではあるが、英語原文のまま貼り付けることにする。
やっぱりカントが核らしいな。カント読みのみなさんには「常識」なんだろうがね。
というわけで(カントなど読む気は毛ほどもないわたくしは)柄谷行人に援助してもらうことにする。
いやあ柄谷らしい、すぐれて簡潔明瞭な記述だ。しかもラカンに結びつけているところがすばらしい。「物自体、現象、仮象」とは、「現実的なもの」・「象徴的なもの」・「想像的なもの」だと。
『トランスクリティーク』にも実は同じような記述がある、《仮象(想像的なもの)、形式(象徴的なもの)、物自体(リアルなもの)》と。柄谷行人にとって、現象とは形式(象徴的なもの)なのである。さらには、彼にとって、「共同体、国家、資本」もこのボロメオ三福対にかかわる。
柄谷行人に敬意を表して、わたくしがいくらか知っている限りでの、ラカンのボロメオ結びの読み方を掲げよう。
セミネール23の最後のほうに現れるラカンのボロメオ結びの図がこうである。
柄谷=カント語彙に変換すれば、
形式は、仮象を支配しようとする(覆う)。
仮象は、物自体を覆う。
物自体は、形式の一部を覆う。
ラカンが《象徴界 le symboliqueは穴 trouである》(S22)というとき、ここでの文脈では、「形式は穴である」というのと等価である。現代ラカン派では「表象は非全体pastout」(表象は非一貫的)という表現もなされる(蓮實の「表象の奈落」という表現も、「表象の非全体」とほぼ等価とわたくしはみる)。
(もっとも上のボロメオの図にあるように「真の穴 Vrai Trou」は、想像界(仮象)と現実界(物自体)の重なり合う箇所にある。そこにあるのは、ラカンマテームではS(Ⱥ)あるいは、JȺと記されたりするものであるが、それにはここでは記述があまりにも輻輳してしまうので触れえない。実は最も肝要な箇所でありうるが)。
で、表象とは象徴的形式なんだろうか。そしてイマージュはギリシア語源のイマーゴから来ているのだから、想像的仮象なんだろうか。
現在のラカン派では、シニフィアンは表象とほぼ等価とされる。
日本でも次のように言われているようだ。
ここでの話題からいくらかそれて附記的に記せば、たとえば、ラカンの核心テーゼ「女というものは存在しない」とは、《女はシニフィアンの水準では見出せない》ということであり、《存在するのは女達 les femmes、一人の女そしてもう一人の女そしてまたもう一人の女》(ミレール)という意味だが、こういうことが言われるのは、両性を示すのは、ファルス表象のプラス/マイナスのためである(参照:「ソーセージ/蝦蟇口」問題)。
「表象」とは一般的には象徴的シニフィアンにかかわるとはいえ、ラカンには想像的シニフィアンとしてのファルスのゲシュタルトもあることに注意しなければならない。
フロイトにも三種類の表象概念がある。「事物表象 Sachvorstellungen」、「語表象Wortvorstellungen」、「モノ表象 Dingvorstellungen」である。上でシニフィアン=表象とあったが、おそらく狭義には、シニフィアン=語表象(象徴的シニフィアン)だろう。事物表象(想像的シニフィアン)がイマーゴ・イマージュである。
ではモノ表象は、現実界的シニフィアンとなるのか? このあたりは、わたくしの知る限りでは、だれもそう言っていないが、たぶんそうだろう。
このソレールの記述に依拠すれば、おそらく「モノ表象 Dingvorstellungen」は、リアルなものとすることができるのではないだろうか。
もっとも現実界は表象不可能なものと一般的にされるわけで、「モノ表象」と「現実界」は、語義矛盾なのかもしれない。だが冒頭近くに示した「前方に持ち出す」が表象の意味であるならば、ラカンの現実界の定義のひとつ外立(ハイデガーのEx-sistenz[外に出ること])も「表象」とすることができる筈である。
次のミレールのサントームをめぐる《意味との関係性のなかで「外立ex-sistence」》という記述は、フロイトの『機知』論文の《(音声的)語表象 (akustische) Wortvorstellung 自体が、モノ表象 Dingvorstellungenとの関係性を与えられることによって、意味作用 Bedeutungの代替となっている》という記述とともに読める。
そしてサントーム(原抑圧(原症状)・母性固着)自体、《母の言葉(ララング)に起源がある Le sinthome est enraciné dans la langue maternelle。》(Geneviève Morel 2005 Sexe, genre et identité : du symptôme au sinthome)
ところでミレールは次のように言っている。
これは、この1994年時点でのミレールにとって、精神分析にとって重要なのは、想像界ではなく、象徴界(象徴的シニフィアン)であるという風におそらく読むべきだろう(現在ではミレールは現実界を強調しているが)。
ところで見せかけは仮象とドイツ語で訳されているのだ。
→ Dieser Schein ist der Signifikant an sich selbst
というわけで、このあたりから何のことやらわからなくなってくる。
いままでの記述から、現象は象徴的なもの、仮象は想像的なもの、表象は(基本的には)象徴界にかかわる「形式」だが、それプラスアルファ、想像界と現実界を含む概念としたいところだったが、そうではなく、つまり仮象は想像的なものではなく、象徴的なものなんだろうか。いやあワカラン・・・
ここで箭内匡の「映像について何を語るか -ジル・ドゥルーズ『シネマ』をめぐる考察」、PDF)から次の文も抜き出しておこう。
たぶん仮象は、想像的なものとして使われる場合もあるし、象徴的なもの(現象=現れるもの) ーーあるいは「象徴界+想像界」ーーとして使われる場合もあろうんだろうよ。だから上で引用した柄谷行人は、《大事なのは、「現象」と「仮象」が区別されなければならないということである》と言ってるんじゃないだろうかな、おまえらバカか。ちゃんとラカンのボロメオに依拠しろ、と。
もっとも柄谷行人にとっても肝腎なのは形式であり、語表象(象徴的シニフィアン)である。
わたしにとって今や「仮象」とは何であろうか! 何かある本質の対立物では決してない。 Was ist mir jetzt »Schein«! Wahrlich nicht der Gegensatz irgendeines Wesens(ニーチェ『悦ばしき知』1882年)
「仮象の scheinbare」世界が、唯一の世界である。「真の世界 wahre Welt」とは、たんに嘘 gelogenによって仮象の世界に付け加えられたにすぎない。(ニーチェ『偶像の黄昏』1888年)
とはいえ、もうすこし突っ込んでみなくてはならない。
ネット上の簡易な「ハイデガー辞書」によれば、「表象 vorstellen」の前置詞 vorとは、「前に」という意味をもち、語幹 Stellenとは「(何かを)置く」とであり、したがって「表象 vorstellen」とは、「前方に持ち出す・前方に動かす」、「何かほかのものの前に何かを置く」という意味だとされている。同様なことは、比較的詳細な記述がある「The Cahiers pour l’Analyse and Contemporary French Thought」の「表象 La représentation」の項にも記されている。
もっとも、基本的な意味はこうであるとしても、「表象」といいう語はほかにも、主にカントやマルクスなどの用法を起源とした種々の意味合いで使われるている(らしい)。
哲学にはまったく疎いわたくしは、こうやって調べるなかで、奇妙な「発見」をしてしまった。英語では、独語の「仮象(Schein)」と「現象(Erscheinung)」どちらもappearanceとされるらしい(もっともときにはphenomenonとされるようだが)。
これもネット上の簡易辞書の記述ではあるが、英語原文のまま貼り付けることにする。
German has two words for appearance: Schein , with the verb scheinen , and Erscheinung , with the verb erscheinen. (1) Scheinen has two distinct senses: (a) ‘to shine, glow’; (b) ‘to appear, seem’. Correspondingly, Schein means: (a) ‘shine, glow’; (b) ‘appearance, semblance, illusion’. (2) Erscheinen and Erscheinung also mean ‘to appear’ and ‘appearance or phenomenon’, but, unlike Schein and scheinen , both may be used of the appearance, i.e. publication, of a book, or of putting in an appearance, where there is no suggestion that things are other than they appear.
In eighteenth-century philosophy, Schein tended to be equated either with Täuschung (‘deception, illusion’) or with Erscheinung. But Kant drew a distinction between them: Erscheinung is a perceptible ‘phenomenon’, what we perceive an object to be in accordance with our forms of sensibility and understanding, in contrast to the ‘noumenon’, the supra-sensible reality or the object as it is in itself. (Unlike Fichte, who held phenomena to be products of the activity of the I*, Kant argued that an appearance implies something that appears and that is not itself an appearance.) Schein , by contrast, is an illusion resulting in a false judgment either about phenomena or about supra-sensible matters. (appearance, illusion and shining)
というわけで(カントなど読む気は毛ほどもないわたくしは)柄谷行人に援助してもらうことにする。
カントは、主観の形式によって構成されるものを「現象」と呼び、たえず主観を触発しつつありながら、主観によってはとらえられないものを「物自体」と呼んでいる。さらにつけ加えるべきなのは、「仮象」である。ここで注意すべきなのは、「現象」と「物自体」は、ドクサ(仮象)とエピステメー(真の認識)という旧来の区別とは異なるということである。たとえば、科学的認識がとらえるのは「現象」である。それは物自体ではないとしても仮象ではない。つまり、大事なのは、「現象」と「仮象」が区別されなければならないということである。カント以前の哲学者は、仮象が感覚にもとづくがゆえに生じる、ゆえに、感覚を越えた理性による認識が真であると考えてきた。カントが画期的なのは、仮象をもたらすのは感覚だけではない、ある種の仮象が理性そのものによって生み出されると考えたところにある。彼の仕事は、そのような理性を批判(吟味)することであった。しかし、それは、人がそのような仮象を容易に取り除けるということを意味するのではない。むしろ、その逆である。たとえば、自分(自己同一性)という考えは仮象である。とはいえ、もし自分というものがないとしたら、人は恐るべき心理状態に陥るだろう。カントはそのような仮象を超越論的仮象と呼んだ。
このように、物自体、現象、仮象という三つの概念は、一組の構造をなしている。つまり、そのどれかを捨てても根本的に意味が失われるのである。もちろん、われわれもこの古くさい「物自体」という言葉を廃棄してもよい。が、これらの構造だけは手放すわけにはいかない。たとえば、精神分析において、ラカンが定立した、「現実的なもの」・「象徴的なもの」・「想像的なもの」という区別は、明瞭にカント的である。このように、物自体、現象、仮象という三つの 概念が別の言葉でも言い換えられるということは、それらが超越論的に見出される一つの「構造」であること、カントの言葉でいえば、アーキテクトニック(建築術)であることを意味する。カント自身が、それを隠喩として語った。(柄谷行人「英語版への序文」、『隠喩としての建築』所収)
いやあ柄谷らしい、すぐれて簡潔明瞭な記述だ。しかもラカンに結びつけているところがすばらしい。「物自体、現象、仮象」とは、「現実的なもの」・「象徴的なもの」・「想像的なもの」だと。
『トランスクリティーク』にも実は同じような記述がある、《仮象(想像的なもの)、形式(象徴的なもの)、物自体(リアルなもの)》と。柄谷行人にとって、現象とは形式(象徴的なもの)なのである。さらには、彼にとって、「共同体、国家、資本」もこのボロメオ三福対にかかわる。
柄谷行人に敬意を表して、わたくしがいくらか知っている限りでの、ラカンのボロメオ結びの読み方を掲げよう。
セミネール23の最後のほうに現れるラカンのボロメオ結びの図がこうである。
形式は、仮象を支配しようとする(覆う)。
仮象は、物自体を覆う。
物自体は、形式の一部を覆う。
ラカンが《象徴界 le symboliqueは穴 trouである》(S22)というとき、ここでの文脈では、「形式は穴である」というのと等価である。現代ラカン派では「表象は非全体pastout」(表象は非一貫的)という表現もなされる(蓮實の「表象の奈落」という表現も、「表象の非全体」とほぼ等価とわたくしはみる)。
「表象」はそれ自体無限であり、構成的に非全体 pastoutである(あるいは非決定的である)。それはどんな対象も代表象しない。それ自身における絶え間ない「非関係 non-rapport」を妨げない。…ここでは表象そのものが、それ自身を覆う「彷徨える過剰 excès errant」である。すなわち表象は、「過剰なものへの無限の滞留」である。それは、代表象された対象、あるいは代表象されない対象から単純に湧きだす過剰ではない。そうではなく、この表象行為自体から生み出される過剰、あるいはそれ自身に内在的な「裂目」、「非一貫性」から生み出される過剰である。現実界は、表象の外部の何か、表象を超えた何かではない。そうではなく、表象のまさに裂目である。 (アレンカ・ジュパンチッチ Alenka Zupancic、The Fifth Condition、2004)
表象は「すべてではない」。表象は非全体 pastout である。表象が非全体なのは、主体の刻印のためである。表象自体の領野のなかに、主体にとっての何かが代理されているのだが、その主体の刻印のためである。(ムラデン・ドラ―2016, Mladen Dolar, Anamorphosis, pdf)
(もっとも上のボロメオの図にあるように「真の穴 Vrai Trou」は、想像界(仮象)と現実界(物自体)の重なり合う箇所にある。そこにあるのは、ラカンマテームではS(Ⱥ)あるいは、JȺと記されたりするものであるが、それにはここでは記述があまりにも輻輳してしまうので触れえない。実は最も肝要な箇所でありうるが)。
で、表象とは象徴的形式なんだろうか。そしてイマージュはギリシア語源のイマーゴから来ているのだから、想像的仮象なんだろうか。
現在のラカン派では、シニフィアンは表象とほぼ等価とされる。
独語の"Vorstellung"は、「表象 representation」とともに「観念 idea」を意味する。フロイトの時代におけるドイツアカデミック心理学の中心的要素は、実に"Vorstellung"だった。この語は一般に「観念」と訳される。したがって「表象」のコノテーションを失う。ラカン的観点からは、最も良い訳語はもちろん「シニフィアン」である。(ポール・バーハウ 1999, Paul Verhaeghe, Does the Woman exist?)
日本でも次のように言われているようだ。
フロイトにおける「表象」:ラカンにおけるシニフィアンの先駆的概念と言える。 ドイツ哲学で通常用いられる「心に思い描かれた対象」とは別の意味をもつ。 表象とは、対象の側から心的装置に到来するもので、表象はそこで、種々の連想の系列において相互に結び付けられる。 (松本卓也『人はみな妄想する』)
ここでの話題からいくらかそれて附記的に記せば、たとえば、ラカンの核心テーゼ「女というものは存在しない」とは、《女はシニフィアンの水準では見出せない》ということであり、《存在するのは女達 les femmes、一人の女そしてもう一人の女そしてまたもう一人の女》(ミレール)という意味だが、こういうことが言われるのは、両性を示すのは、ファルス表象のプラス/マイナスのためである(参照:「ソーセージ/蝦蟇口」問題)。
ファルスのゲシュタルトは、その徴がなされているか、徴がなされていないかとしての両性を差異化する機能を果たすシニフィアンを人間社会に提供する。(Safouan , Lacaniana: Les séminaires de Jacques Lacan, 1953–1963 , 2001)
「表象」とは一般的には象徴的シニフィアンにかかわるとはいえ、ラカンには想像的シニフィアンとしてのファルスのゲシュタルトもあることに注意しなければならない。
フロイトにも三種類の表象概念がある。「事物表象 Sachvorstellungen」、「語表象Wortvorstellungen」、「モノ表象 Dingvorstellungen」である。上でシニフィアン=表象とあったが、おそらく狭義には、シニフィアン=語表象(象徴的シニフィアン)だろう。事物表象(想像的シニフィアン)がイマーゴ・イマージュである。
フロイトの事物表象と語表象は、ラカンのイマーゴとシニフィアンである。(Identity through a Psychoanalytic Looking Glass Stijn Vanheule & Paul Verhaeghe、2009、pdf)
ではモノ表象は、現実界的シニフィアンとなるのか? このあたりは、わたくしの知る限りでは、だれもそう言っていないが、たぶんそうだろう。
モノDing とは、ラカンがヘーゲルに依拠して《シンボル le symbole はモノの殺害 meurtre de la chose》としたモノ das Ding である。
フロイトは「モノ表象 Dingvorstellungen」という語を次のように使用している。
ここで表現されている「モノ表象」とは、後期ラカンのララングと近似する(参照:ララング定義集)。
フロイトは「モノ表象 Dingvorstellungen」という語を次のように使用している。
これらの機知 Witze(言葉遊び Wortspielen)のひとつのグループにおいて、そのテクニックは、語の意味ではなく、語音 Wortklangへの心的態度の焦点化によって構成されている。(音声的)語表象 (akustische) Wortvorstellung 自体が、モノ表象 Dingvorstellungen との関係性を与えられることによって、意味作用 Bedeutung の代替となっているのである。(フロイト『機知』1905年)
ここで表現されている「モノ表象」とは、後期ラカンのララングと近似する(参照:ララング定義集)。
ラカンはララング を次のように説明する。すなわち、ララング lalangueは、“lallation 喃語”と同音的である。“Lallation”はラテン語の lallare から来ており、辞書が示しているのは、“la, la”と歌うことにより、幼児を寝かしつけることである。この語はまた幼児の「むにゃむにゃ語」をも示している。まだ話せないが、すでに音声を発することである。「Lallation 喃語」は、意味から分離された音声である。が、我々が知っているように、非意味であるにもかかわらず、幼児の満足状態からは分離されていない。(コレット・ソレール2009、Colette Soler、L'inconscient Réinventé )
現実界の症状、それは意味から切断されているが、言語からは切断されていない。現実界の症状は、「言葉の物質性 motérialité」と享楽との混淆であり、享楽される言葉あるいは言葉に移転された享楽にかかわる。(同上ソレール、L'inconscient Réinventé )
このソレールの記述に依拠すれば、おそらく「モノ表象 Dingvorstellungen」は、リアルなものとすることができるのではないだろうか。
もっとも現実界は表象不可能なものと一般的にされるわけで、「モノ表象」と「現実界」は、語義矛盾なのかもしれない。だが冒頭近くに示した「前方に持ち出す」が表象の意味であるならば、ラカンの現実界の定義のひとつ外立(ハイデガーのEx-sistenz[外に出ること])も「表象」とすることができる筈である。
次のミレールのサントームをめぐる《意味との関係性のなかで「外立ex-sistence」》という記述は、フロイトの『機知』論文の《(音声的)語表象 (akustische) Wortvorstellung 自体が、モノ表象 Dingvorstellungenとの関係性を与えられることによって、意味作用 Bedeutungの代替となっている》という記述とともに読める。
我々が……ラカンから得る最後の記述は、サントーム sinthome の Σ である。S(Ⱥ) を Σ として grand S de grand A barré comme sigma 記述することは、サントームに意味との関係性のなかで「外立ex-sistence」の地位を与えることである。現実界のなかに享楽を孤立化すること、すなわち、意味において外立的であることだ。(ミレール、「後期ラカンの教え Le dernier enseignement de Lacan, 6 juin 2001」 LE LIEU ET LE LIEN)
そしてサントーム(原抑圧(原症状)・母性固着)自体、《母の言葉(ララング)に起源がある Le sinthome est enraciné dans la langue maternelle。》(Geneviève Morel 2005 Sexe, genre et identité : du symptôme au sinthome)
ところでミレールは次のように言っている。
(われわれにとって)心的対象はもはやイマーゴではない。もはやイマーゴ-ゲシュタルトl'Imago-Gestalt ではなく、シニフィアン le signifiant である。(ジャック=アラン・ミレール 『享楽の監獄 LES PRISONS DE LA JOUISSANCE』1994年)
これは、この1994年時点でのミレールにとって、精神分析にとって重要なのは、想像界ではなく、象徴界(象徴的シニフィアン)であるという風におそらく読むべきだろう(現在ではミレールは現実界を強調しているが)。
すべてが見せかけsemblantではない。或る現実界 un réel がある。社会的つながり lien social の現実界は、性的非関係である。無意識の現実界は、話す身体 le corps parlant(欲動の身体)である。象徴秩序が、現実界を統制し、現実界に象徴的法を課す知として考えられていた限り、臨床は、神経症と精神病とにあいだの対立によって支配されていた。象徴秩序は今、見せかけのシステムと認知されている。象徴秩序は現実界を統治するのではなく、むしろ現実界に従属していると。それは、「性関係はない」という現実界へ応答するシステムである。(ミレー 2014、L'INCONSCIENT ET LE CORPS PARLANT)
ところで見せかけは仮象とドイツ語で訳されているのだ。
見せかけ、それはシニフィアン自体のことである! Ce semblant, c'est le signifiant en lui-même !》 (Lacan,S18, 13 Janvier 1971)
というわけで、このあたりから何のことやらわからなくなってくる。
いままでの記述から、現象は象徴的なもの、仮象は想像的なもの、表象は(基本的には)象徴界にかかわる「形式」だが、それプラスアルファ、想像界と現実界を含む概念としたいところだったが、そうではなく、つまり仮象は想像的なものではなく、象徴的なものなんだろうか。いやあワカラン・・・
ここで箭内匡の「映像について何を語るか -ジル・ドゥルーズ『シネマ』をめぐる考察」、PDF)から次の文も抜き出しておこう。
…カントが、プラトン以来の「本質」(essence)と「仮象」(apparence)の対立と訣別し(つまりこの世界の背後に、この世界を根拠付けるよ うな「真の世界」を前提することを廃止して)、ただ「現れるもの」(ce qui apparait)のみを、その「現れるものの条件」(conditions de ce qui apparait)ととともに思考したこと。
※箭内匡氏註:「現れるもの」に相当するカントの原語はErscheinung であり、これは通常は phénomèneと仏訳される言葉だが、ドゥルーズはドイツ語のニュアンスを生かす形で ce qui apparaît あるいはapparitionという言葉を使っていると思われる。
たぶん仮象は、想像的なものとして使われる場合もあるし、象徴的なもの(現象=現れるもの) ーーあるいは「象徴界+想像界」ーーとして使われる場合もあろうんだろうよ。だから上で引用した柄谷行人は、《大事なのは、「現象」と「仮象」が区別されなければならないということである》と言ってるんじゃないだろうかな、おまえらバカか。ちゃんとラカンのボロメオに依拠しろ、と。
もっとも柄谷行人にとっても肝腎なのは形式であり、語表象(象徴的シニフィアン)である。
カントは、経験論者が出発する感覚データはすでに感性の形式によって構成されたものであると述べた。(柄谷行人『トランスクリティーク』)
彼(カント)が感性の形式や悟性のカテゴリーによって現象が構成されるといったのは、言語によって構成されるというのと同じことである。実際、それらは新カント派のカッシラーによって「象徴形式」といいかえられている。(同上)
⋯⋯⋯⋯
※付記
さて分からないことはほうっておいて、基本的な記述を付加的にしておく。
ラカンの核心テーゼ《女というものは存在しない》を、シニフィアン=表象に依拠して言い換えるならば、「女の表象は存在しない」ということになる。一般にはこちらのほうが分かりやすく、巷間のナイーヴな誤解も少ない筈である。
「女というものは存在しない La femme n’existe pas」とは、女というものの場処 le lieu de la femme が存在しないことを意味するのではなく、この場処が本源的に空虚のまま lieu demeure essentiellement vide だということを意味する。場処が空虚だといっても、人が何ものかと出会う rencontrer quelque chose ことを妨げはしない。(ジャック=アラン・ミレール、1992, Des semblants dans la relation entre les sexes)
⋯⋯⋯⋯
フロイト・ラカンの「表象」をめぐる思考はこれだけでは全くない。最も肝腎なのはフロイトの「表象代表 Vorstellungsrepräsentanz」をめぐるラカンの捉え方だが、これはひどく難解であり一筋縄の記述ではすまない。ここでは以下に、基本文献を列挙するだけにしておく。
ラカン的な意味での「代表 Repräsentanz(représentant)」は、論理的に「表象 vorstellung(représentation)」 に先立っている。(ロレンゾ・チーサ2014、Lorenzo Chiesa, Wounds of Testimony and Martyrs of the Unconscious)
世界が表象 représentation(vótellung)になる前に、その代表représentant(Repräsentanz)ーー私が意味するのは表象代表 le représentant de la représentationであるーーが現れる。Avant que le monde devienne représentation, son représentant, j'entends le représentant de la représentation - émerge. (ラカン, S13, 27 Avril 1966)
フロイト概念の核心、Vorstellungs-Reprasentanze(表象-代表)は、不可能な・排除された表象の象徴的代表(あるいはむしろ代役 stand-in for)である。(ジジェク『幻想の感染』1997)
ふたたび思い起こそう、フロイト概念「表象代表 Vorstellungs‐Repräsentanz」のラカンの厳密な読解を。表象代表は単に(フロイトがおそらくそう意図したようには)、生物学的本能 biological instinct の心的代表 psychic representative という、心の表象あるいは観念 mental representation or idea ではない。そうではなく(はるかに精妙に)、喪われている表象の代表(代役、仮置場)representative (stand‐in, place‐holder) of a missing representation である。
この意味で、すべての名は「表象代表 Vorstellungs‐Repräsentanz」である。すなわち、名付けられた対象における、表象を逃れる相の徴示的代表である。(ジジェク、LESS THAN NOTHIHNG,2012)
ーージジェク文に「表象の仮置場」とあるが、これはラカンの定義に則る、《「表象代表Vorstellungsrepräsentanz」とは、…「表象の仮置場 tenant-lieu de la représentationである。》(ラカン、S11、12 Février 1964)
ジジェクの注釈をそのまま受けとるなら、表象代表とはーーラカン自身はセミネール11の段階では、S2と言っているが(《表象代表は、(S1と)対 couple のシニフィアンS2(le signifiant S2)である。Vorstellungsrepräsentanz qui est le signifiant S2 du couple.》《表象代表は二項シニフィアンである。Le Vorstellungsrepräsentanz, c'est ce signifiant binaire》ーー、実際はS1が導入される以前のS2、つまり「固有名」としてのララング(現実界的シニフィアンS(Ⱥ))でありうる(参照:固有名とは穴の名である)。
三界(象徴界・想像界・現実界)の基礎は、フレーゲが固有名 noms propres と呼ぶものである。 (ラカン、S24. 16 Novembre 1976)
固有名は、言語の一部であり、言語の内部にある。しかし、それは言語にとって外部的である…それは一つの差異体系(ラング)に吸収されないのである…言語における固有名の外部性は、言語がある閉じられた規則体系(共同体)に還元しえないこと、すなわち言語の「社会性」を意味する。(柄谷行人『探求Ⅱ』)
「固有名」とは、マルクスにおける、相対的価値形態S1(要素なき場)が導入される以前の、等価形態S2というのと「論理的には」等価であるようにわたくしには思える(マルクスの剰余価値とは「場なき要素」であり、上に「表象の非全体」をめぐって引用したジュパンチッチの表現なら「彷徨える過剰 excès errant」ーーバディウ起源の表現ーーである)。
価値形態論は次のように展開されている。先ず、「単純な価値形態」において、商品Aの価値は商品Bの使用価値によって表示される。そのとき、商品Aは相対的価値形態、商品Bは等価形態におかれている。マルクスは単純な価値形態を次のような例で示している。
(相対的価値形態) (等価形態)
二〇エレのリンネル = 一着の上衣
この等式が示すのは、二〇エレのリンネルは、自らに価値があるということができず、一着の上衣と等値されたあとで、はじめてその自然形態によって価値を示されるほかない、ということである。一方、一着の上衣は、いつでも前者と交換できる位置にいる。等価形態が、一枚の上衣にあたかもそれ自身のなかに交換価値(直接的交換可能性)が内在しているかのように見えさせるのだ。《商品が等価形態にあるということは、その商品が他の商品と直接に交換されうるという形態にあるということなのである》(『資本論』第一巻第一篇第一章第三節)。(柄谷行人『トランスクリティーク』)