2018年2月4日日曜日

固有名とは穴の名である

三界(象徴界・想像界・現実界)の基礎は、フレーゲが固有名 noms propres と呼ぶものである。 (ラカン、S24. 16 Novembre 1976)




ラカンが症状概念の刷新として導入したもの、それは時にサントーム∑と新しい記号で書かれもするが、サントームとは、シニフィアンと享楽の両方を一つの徴にて書こうとする試みである。Sinthome, c'est l'effort pour écrire, d'un seul trait, à la fois le signifant et la jouissance. (ミレール、Ce qui fait insigne、The later Lacan、2007所収)

ーー固有名とはサントームである。

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《ララングは固有名の核である 》(Bernard Nomine、Three of four things about the Father and the knot) 

ララング Lalangue は象徴界的 symbolique なものではなく、現実界的 réel なものである。 現実界的というのは、ララングはシニフィアンの連鎖外 hors chaîne のものであり、したがって意味外 hors-sens にあるためである(シニフィアンは、連鎖外にあるとき現実界的なものになる )。 (コレット ・ソレール2009、Lacan, l'inconscient réinventéーー「ララング定義集」)

ここで柄谷行人の固有名の定義を掲げてみよう。

固有名は、言語の一部であり、言語の内部にある。しかし、それは言語にとって外部的である…それは一つの差異体系(ラング)に吸収されないのである…言語における固有名の外部性は、言語がある閉じられた規則体系(共同体)に還元しえないこと、すなわち言語の「社会性」を意味する。(柄谷行人『探求Ⅱ』)

--前回、柄谷の九条超自我論をバカにしたところだが、柄谷行人は偉大である。現代ラカン派の最先端のララングの定義と柄谷の固有名の定義は相同的である。

ララング とは現代ラカン派臨床の核心概念(のひとつ)であり、《 「言葉の物質性 motérialité」と享楽との混淆 》(コレット・ソレール)である。

肉の身体 le corps de chair は生の最初期に、ララング Lalangue によって穴が開けられる troué 。我々は、セクシャリティが問題になる時はいつでも、この穴ウマ troumatism =トラウマ の谺を見出す。

サントームの身体 Le corps du sinthome、肉の身体…それは常に自閉症的享楽 jouissance autiste・非共有的享楽を意味する。(Pierre-Gilles Guéguen, 2016、Au-delà du narcissisme, le corps de chair est hors sens)


柄谷に戻る。彼のいう固有名=言語の「社会性」における「社会性」とは、「無根拠で非対称的な交換関係」のことである。

マルクスが、社会的関係が貨幣形態によって隠蔽されるというのは、社会的な、すなわち無根拠であり非対称的な交換関係が、対称的であり且つ合理的な根拠をもつかのようにみなされることを意味している。(柄谷行人『マルクス その可能性の中心』1978年)

「無根拠で非対称的な交換関係」とは、穴Ⱥ、すなわち《組合せ規則の場処自体の消滅》のことである。

穴は、…秩序の消滅・場の秩序の消滅 disparition de l'ordre, de l'ordre des places を意味する。穴は、組合せ規則の場処自体の消滅である Le trou comporte la disparition du lieu même de la combinatoire。これが、斜線を引かれた大他者 grand A barré (Ⱥ) の最も深い価値である。ここで、Ⱥ は大他者のなかの欠如を意味しない Grand A barré ne veut pas dire ici un manque dans l'Autre 。そうではなく、Ⱥ は大他者の場における穴 à la place de l'Autre un trou、組合せ規則の消滅 disparition de la combinatoire である。

穴との関係において、外立がある il y a ex-sistence。それは、剰余の正しい位置 position propre au reste であり、現実界の正しい位置 position propre au réel、すなわち意味の排除 exclusion du sens である。(ジャック=アラン・ミレール、後期ラカンの教えLe dernier enseignement de Lacan, LE LIEU ET LE LIEN , Jacques Alain Miller Vingtième séance du Cours, 6 juin 2001)

ゆえに固有名とは穴の名、穴のシニフィアンS(Ⱥ)である。

「原リアルの名 le nom du premier réel」、それは、 「母の欲望 Désir de la Mère」であり、シニフィアンの空無化 vidage 作用によって生み出された「原穴の名 le nom du premier trou 」である。(コレット・ソレール、C.Soler « Humanisation ? »2013-2014 セミネール)

母の欲望=原穴Ⱥの名とは、母の欲望=S(Ⱥ)ということであり、「母の欲望 Désir de la Mère」が「固有名 nom propre」にかかわる、という意味である。



(Jean-Marie Forget, Le Nom propre comme littoral,2008)


そして穴の名S(Ⱥ) とはサントームΣのことである。

我々が……ラカンから得る最後の記述は、サントーム sinthome の Σ である。S(Ⱥ) を Σ として grand S de grand A barré comme sigma 記述することは、サントームに意味との関係性のなかで「外立ex-sistence」の地位を与えることである。現実界のなかに享楽を孤立化すること、すなわち、意味において外立的であることだ。(ミレール、「後期ラカンの教え Le dernier enseignement de Lacan, 6 juin 2001」 LE LIEU ET LE LIEN pdf


そもそもわれわれ人間にとって、どの言語も最初は固有名である。

ラカンはララング を次のように説明する。すなわち、ララング lalangueは、“lallation 喃語”と同音的である。“Lallation”はラテン語の lallare から来ており、辞書が示しているのは、“la, la”と歌うことにより、幼児を寝かしつけることである。この語はまた幼児の「むにゃむにゃ語」をも示している。まだ話せないが、すでに音声を発することである。「Lallation 喃語」は、意味から分離された音声である。が、我々が知っているように、非意味であるにもかかわらず、幼児の満足状態からは分離されていない。(コレット・ソレール2009、Colette Soler、L'inconscient Réinventé )

中井久夫のララング論」から抜き出そう。

言語リズムの感覚はごく初期に始まり、母胎の中で母親の言語リズムを会得してから人間は生れてくる。喃語はそれが洗練されてゆく過程である。さらに「もの」としての発語を楽しむ時期がくる。精神分析は最初の自己生産物として糞便を強調するが、「もの」としての言葉はそれに先んじる貴重な生産物である。成人型の記述的言語はこの巣の中からゆるやかに生れてくるが、最初は「もの」としての挨拶や自己防衛の道具であり、意味の共通性はそこから徐々に分化する。もっとも、成人型の伝達中心の言語はそれ自体は詰まらない平凡なものである。(中井久夫「「詩の基底にあるもの」―――その生理心理的基底」初出1994年『家族の深淵』所収)

詩人とはララングの人、固有名の人でなくてはならない。


◆中井久夫「詩の基底にあるもの」より(『家族の深淵』所収)

―――その生理心理的基底




精神科医として、私は精神分裂病における言語危機、特に最初期の言語意識の危機に多少立ち会ってきた。それが詩を生み出す生理・心理的状態と同一であるというつもりはないが、多くの共通点がある。人間の脳がとりうる様態は多様ではあるが、ある幅の中に収まり、その幅は予想よりも狭いものであって、それが人間同士の相互理解を可能にしていると思われるが、中でも言語に関与し、言語を用いる意識は、比較的新しく登場しただけあって、自由度はそれほど大きいものではないと私は思う。

言語危機としての両者の共通点は、言語が単なる意味の担い手でなくなっているということである。語の意味ひとつを取り上げてみても、その辺縁的な意味、個人的記憶と結びついた意味、状況を離れては理解しにくい意味、語が喚起する表象の群れとさらにそれらが喚起する意味、ふだんは通用の意味の背後に収まり返っている、そういったものが雲のように語を取り囲む。

この変化が、語を単なる意味の運搬体でなくする要因であろう。語の物質的側面が尖鋭に意識される。音調が無視できない要素となる。発語における口腔あるいは喉頭の感覚あるいはその記憶あるいはその表象が喚起される。舌が口蓋に触れる感覚、呼気が歯の間から洩れる感覚など主に触覚的な感覚もあれば、舌や喉頭の発声筋の運動感覚もある。

これらは、全体として医学が共通感覚と呼ぶ、星雲のような感覚に統合され、またそこから発散する。音やその組み合わせに結びついた色彩感覚もその中から出てくる。

さらにこのような状態は、意味による連想ばかりでなく、音による連想はもとより、口腔感覚による連想、色彩感覚による連想すら喚起する。その結果、通用の散文的意味だけではまったく理解できない語の連なりが生じうる。精神分裂病患者の発語は、このような観点を併せれば理解の度合いが大きく進むものであって、外国の教科書に「支離滅裂」の例として掲載されているものさえ、相当程度に翻訳が可能であった。しばしば、注釈を多量に必要とするけれども。

このような言語の例外状態は、語の「徴候」的あるいは「余韻」的な面を意識の前面に出し、ついに語は自らの徴候性あるいは余韻性によってほとんど覆われるに至る。実際には、意味の連想的喚起も、表象の連想的喚起も、感覚の連想的喚起も、空間的・同時的ではなく、現在に遅れあるいは先立つものとして現れる。それらの連想が語より遅れて出現することはもとより少なくないが、それだけとするのは余りに言語を図式化したものである。連想はしばしば言語に先行する。

当然、発語というものは、同時には一つの語しかできない。文字言語でも同じである。それは、感覚から意味が一体となった、さだかならぬ雲のようなものから競争に勝ち抜いて、明確な言語意識の座を当面獲得したものである。




詩作者と、精神分裂病患者の、特に最初期との言語意識は、以上の点で共通すると私は考える。

私がかつて「詩とは言語の徴候的側面を主にした使用であり、散文とはその図式的側面を主にした使用である」と述べた(『現代ギリシャ詩選』みすず書房、一九八五年、序文)のは、この意味においてである。この場合、「徴候」の中に非図式的、非道具的なもの、たとえば「余韻」を含めていた。その後、私はこの辺りの事情を多少洗練させようとしたが、私の哲学的思考の射程がどうしても伸びないために徹底させられずに終わっている(「世界における索引と徴候」『ヘルメス』 26号、岩波書店、1990年、「世界における索引と徴候 ――再考」同27 号、1990年)。「索引」とは「余韻」を含んでいるが、それだけではない。

その基底には、意識の過剰覚醒が共通点としてある。同時に、それは古型の言語意識への回帰がある。どうして同時にそうなのであろうか。過剰覚醒は、通用言語の持つ覆いを取り除いて、その基盤を露出すると私は考える。

言語リズムの感覚はごく初期に始まり、母胎の中で母親の言語リズムを会得してから人間は生れてくる。喃語はそれが洗練されてゆく過程である。さらに「もの」としての発語を楽しむ時期がくる。精神分析は最初の自己生産物として糞便を強調するが、「もの」としての言葉はそれに先んじる貴重な生産物である。成人型の記述的言語はこの巣の中からゆるやかに生れてくるが、最初は「もの」としての挨拶や自己防衛の道具であり、意味の共通性はそこから徐々に分化する。もっとも、成人型の伝達中心の言語はそれ自体は詰まらない平凡なものである。言語の「発見論的」 heuristicな使用が改めて起こる。これは通常十五歳から十八歳ぐらいに発現する。「妄想を生み出す能力」の発生と同時である。

ーー以下、略(続きは「話す身体と分裂病的享楽」の末尾を見よ)

中井久夫のいう《「もの」としての言葉》、これこそコレット・ソレールのいう《 「言葉の物質性 motérialité」と享楽との混淆》である。

現実界の症状、それは意味から切断されているが、言語からは切断されていない。現実界の症状は、「言葉の物質性 motérialité」と享楽との混淆であり、享楽される言葉あるいは言葉に移転された享楽にかかわる。(ソレール、L'inconscient Réinventé 、2009)

中井久夫は偉大である。柄谷行人は偉大である。ひとは日本ラカン派のネゴトなど読んでおらずにこの二人を読めばよいのである!