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2018年4月16日月曜日

人間の条件・欲望の条件

人が見るもの(人が眼差すもの)は、見られ得ないものである。Ce qu’on regarde, c’est ce qui ne peut pas se voir(ラカン、S11, 13 Mai 1964)

(René Magritte、Le Faux Miroir、 1935)

イマージュは、見られ得ないものにとってのスクリーン〈覆い)である。l'image fait écran à ce qui ne peut pas se voir(ミレール 『享楽の監獄 LES PRISONS DE LA JOUISSANCE』1994年)

《見られ得ないもの》とは何か。ーー女性のファルス le phallus féminin、母のファルス le phallus maternel である。

ラカンがイマジネール(想像的)な審級について語ったとき、彼は見られ得るイマージュについて語った。鳩は空虚に関心はない Le pigeon ne s'intéresse pas au vide。イマージュの場処に空虚があるなら、鳩はそこでは成長しない 。昆虫は繁殖しない 。

しかし、次の事実がある。すなわち、いったん象徴界が導入されたときでも、ラカンは想像界について話すことを止めない。彼はまだ想像界について頻繁に語っている。だが想像界の定義はまったく変貌したのである。ポスト象徴的想像界 L'imaginaire postsymbolique は、象徴界の審級が導入される以前の、前象徴的想像界 l'imaginaire présymbolique とはひどく異なる。

象徴界が導入された後、いかにして想像界の概念は移行したのか? 厳密に言おう。想像界の最も重要な部分は、見られ得ないものである ce qui ne peut pas se voir。とくに、例としてセミネールIV「対象関係」で展開された臨床実践の核を取り出すとすれば、女性のファルス le phallus féminin、母のファルス le phallus maternel がある。それが想像的ファルス le phallus imaginaire と呼ばれるのは、パラドクスである。というのは人はまさに想像的ファルスを見ることができないのだから。それはほとんど、想像力 imagination の問題であるかのようである。

ラカンの名高い鏡像段階 le stade du miroir における観察と理論化において、イマジネールな審級は本質的に知覚 perception と繋がっていた。ところが象徴界が導入されたとき、想像界と知覚とのあいだの分離がある。…これが意味するのは、想像界と象徴界の接合であり、したがって知覚からの分離という命題である。すなわち、イマージュは見られ得ないものをスクリーンする(隠蔽する)l'image fait écran à ce qui ne peut pas se voir。(ジャック=アラン・ミレール『享楽の監獄』1994年)

(荒木経惟)

我々は、見せかけを無を覆う機能と呼ぶ。Nous appelons semblant ce qui a fonction de voiler le rien(ミレール、Des semblants dans la relation entre les sexes、1997)

ラカンには、通常の幻想的囮(見せかけ semblant)としてのフェティッシュに対して、「黒いフェティッシュ」という表現がある。

享楽が純化される jouissance s'y pétrifie とき、黒いフェティッシュ fétiche noir になる。その時空において齎されるものは形式 forme 自体である。(ラカン「カントとサド」E773、Septembre 1962)

フェティッシュとは、ラカン語彙においては対象aとほぼ等価である。以下の文の「対象a」の箇所にフェティッシュを代入して読むことができる。

対象a の根源的両義性……対象a は一方で、幻想的囮/スクリーンを表し、他方で、この囮を混乱させるもの、すなわち囮の背後の空虚 void をあらわす。(Zizek, Can One Exit from The Capitalist Discourse Without Becoming a Saint? ,2016, pdf)

次の文でラカンが言っているのは、空虚の周りの循環運動としての原対象aーー実際は「対象」ではないーーである。

我々は、欲動が接近する対象について、あまりにもしばしば混同している。この対象は実際は、空洞・空虚の現前 la présence d'un creux, d'un vide 以外の何ものでもない。フロイトが教えてくれたように、この空虚はどんな対象によっても par n'importe quel objet 占められうる occupable。そして我々が唯一知っているこの審級は、喪われた対象a (l'objet perdu (a)) の形態をとる。対象a の起源は口唇欲動 pulsion orale ではない。…「永遠に喪われている対象 objet éternellement manquant」の周りを循環する contourner こと自体、それが対象a の起源である。(ラカン、S11, 13 Mai 1964)

 《「永遠に喪われている対象 objet éternellement manquant」の周りを循環する contourner こと自体》、これが形式 forme 自体としての「黒いフェティッシュ fétiche noir」のことと、わたくしは理解している(ラカン派内でも、わたくしの知る限り、この用語についての直接的解説はないが)。

ここで言う「形式」とは現前/不在という構造ーードゥルーズの「純粋差異」ーーのことである。

《母のペニスの欠如は、ファルスの特性が現われる場所である ce manque du pénis de la mère où se révèle la nature du phallus》(Lacan,E.877)。われわれは、この指摘にあらゆる重要性を与えなければならない。それはまさにファルスの機能とその特性を識別するものである。

そしてここに、我々はフロイトの紛らわしい「ナイーヴな」フェティッシュ概念、すなわち主体が、女のペニスの欠如を見る前に見た最後の物としてのフェティッシュという考え方を更生(リハビリ)すべきである。フェティッシュが覆うものは、単純に女におけるペニスの欠如ではない(…)。そうではなく、この、現前/不在のまさに構造が、厳密に「構造主義者的」意味において、差異(ズレ)的であるという事実にある。(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012、私訳)

肝腎なのは、通常理解されている「対象化されたフェティッシュ」(足、靴等)ではなく、マルクス的フェティッシューー《中身なき形態 begriffslose Form》としてのフェティッシューーである。

利子生み資本では、自動的フェティッシュautomatische Fetisch、自己増殖する価値 selbst verwertende Wert、貨幣を生む貨幣 Geld heckendes Geld が完成されている。(マルクス『資本論』第三巻)
ここでは資本のフェティッシュな姿態 Fetischgestalt と資本フェティッシュ Kapitalfetisch の表象が完成している。我々が G─G′ で持つのは、資本の中身なき形態 begriffslose Form、生産諸関係の至高の倒錯 Verkehrungと物件化 Versachlichung、すなわち、利子生み姿態 zinstragende Gestalt・再生産過程に先立つ資本の単純な姿態 einfache Gestalt des Kapitals である。それは、貨幣または商品が再生産と独立して、それ自身の価値を増殖する力能ーー最もまばゆい形態での資本の神秘化 Kapitalmystifikation である。(同『資本論』第三巻)

別の言い方をすれば、形式・形態とは、《出現ー消滅》(ロラン・バルト)である。

身体の中で最もエロティックなのは衣服が口を開けている所ではないだろうか。倒錯(それがテクストの快楽のあり方である)においては、《性感帯》(ずい分耳ざわりな表現だ)はない。精神分析がいっているように、エロティックなのは間歇である。二つの衣服(パンタロンとセーター)、二つの縁(半ば開いた肌着、手袋と袖)の間にちららと見える肌の間歇。誘惑的なのはこのちらちら見えることそれ自体である。更にいいかえれば、出現ー消滅の演出 la mise en scène d'une apparition-disparition である。

それはストリップ・ショーや物語のサスペンスの快楽ではない。この二つは、いずれの場合も、裂け目もなく、縁もない、順序正しく暴露されるだけである。すべての興奮は、セックスを見たいという(高校生の夢)、あるいは、ストーリーの結末を知りたいという(ロマネスクな満足)希望に包含される。(ロラン・バルト『テクストの快楽』)



《服を着ること自体、見せることと隠すことの動きのなかにある。Le vêtement lui-même est dans ce mouvement de montrer et de cacher.》(ミレール 『享楽の監獄 LES PRISONS DE LA JOUISSANCE』1994年)

むかし、日本政府がサイパンの土民に着物をきるように命令したことがあった。裸体を禁止したのだ。ところが土民から抗議がでた。暑くて困るというような抗議じゃなくて、着物をきて以来、着物の裾がチラチラするたび劣情をシゲキされて困る、というのだ。

ストリップが同じことで、裸体の魅力というものは、裸体になると、却って失われる性質のものだということを心得る必要がある。(坂口安吾「安吾巷談 ストリップ罵倒」)

さて少し前に戻る。

フロイト・ラカン派で「スクリーン」という語が使われるとき、フロイトの隠蔽記憶を想起しなくてはならない。

フロイトの隠蔽記憶とは、フェティッシュに大きくかかわる。《隠蔽記憶 Uber Deckerinnerungen》とは、トラウマ的出来事を覆い隠す幻想的スクリーンとしての記憶であり、英訳では screen memory(仏訳 souvenir-écran)。

最初のフェティッシュの発生 Auftreten des Fetischの記憶の背後に、埋没し忘却された性発達の一時期が存在している。フェティッシュは、隠蔽記憶 Deckerinnerung のように、この時期の記憶を代表象し、したがってフェティッシュとは、この記憶の残滓と沈殿物 Rest und Niederschlag である。(フロイト『性欲論三篇』1905年、1920年注)
欲望は…換喩 métonymieの軌道 railsに囚われている。欲望は永遠に何か別のものへに欲望に向かって拡がっていく éternellement tendus vers le désir d'autre chose。したがって、象徴示的連鎖宙吊り suspension de la chaîne signifiante のまさその点における「倒錯的」固着 fixation、そこにおいて隠蔽記憶(スクリーンメモリー le souvenir-écran)は不動化 immobilise され、フェティッシュの魅惑的映像 image fascinante du fétiche が凍りつく statufie。 (ラカン、E518)

《フェティッシュとは、欲望が自らを支えるための条件である。 il faut que le fétiche soit là, qu'il est la condition dont se soutient le désir. 》(Lacan, S10、16 janvier l963)

しかし言語自体が、我々の究極的かつ不可分なフェティッシュではないだろうか Mais justement le langage n'est-il pas notre ultime et inséparable fétiche? 。言語はまさにフェティシストの否認を基盤としている(「私はそれを知っている。だが同じものとして扱う」「記号は物ではない。が、同じものと扱う」等々)。そしてこれが、言語存在の本質 essence d'être parlant としての我々を定義する。その基礎的な地位のため、言語のフェティシズムは、たぶん分析しえない唯一のものである。(J. Kristeva, Pouvoirs de l’horreur, Essais sur l’abjection, 1980)

ーーたとえば「私」という一人称単数代名詞は、「この私」と同一ではない。だがわれわれはおおむね同じものとして扱っている。これがクリスティヴァのいう究極のフェティッシュである。

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さてここまでは前段であり、以下が本題である。

窓の枠組みの上に位置づけられた絵 un tableau qui vient se placer dans l'encadrement d'une fenêtre⋯この馬鹿げたテクニック Technique absurde⋯それは人が窓から見えるものを見ない ne pas voir ce qui se voit par la fenêtreようにすることである。(ラカン、S10、19 Décembre l962)

(René Magritte, La condition humaine, 1933)

部屋の内側から見える窓の前に、私は絵を置いた。その絵は、絵が覆っている風景の部分を正確に表象している。したがって絵のなかの樹木は、その背後、部屋の外側にある樹木を隠している。それは、見る者にとって、絵の内部にある部屋の内側であると同時に、現実の風景のなかの外側である。これが、我々が世界を見る仕方である。我々は己れの外側にある世界を見る。だが同時に、己れ自身のなかにある世界の表象を抱くに過ぎない。(ルネ・マグリット, “Life Lines”)

このマグリットの「人間の条件 La condition humaine」ーーラカンの《フェティッシュとは、欲望が自らを支えるための条件》」--が示しているものは、ラカンの対象aの考え方と相同的である。

現実の領域は対象a の除去の上になりたっているが、それにもかかわらず、対象a が現実の領域を枠どっている。 le champ de la réalité ne se soutient que de l'extraction de l'objet a qui lui donne son cadre(Lacan, E554, 1966)

以下、ジャック=アラン・ミレールの注釈。

〈現実界〉としての対象を密かに無視することが「ひとかけらの現実」としての現実の安定化の条件だ、とわれわれは理解している。だが、〈対象a〉があるべきところにないなら、〈対象a〉 はどうやって現実に枠をはめるのか。




〈対象a〉は、まさしく現実の領域から除去されることによって、現実に枠にはめるのである。 わたしがこの絵の表面から、絵から網がけになった長方形を取り除くなら、われわれが枠と呼ぶものを獲得する。すなわち穴にとっての枠でありながら、また残りの表面の枠である。こうした枠はどんな窓によっても作ることができる。

〈対象a〉というのはこのような表面の断片であり、それを現実から取り除くことが、現実に枠をはめることになるのである。主体とは、すなわち斜線を引かれた主体とは、…この穴のことである。存在としては、この除去されたかけらにほかならないのである。主体と〈対象a〉は等価である、とはそういうことなのである。(ミレール,(Jacques-Alain Miller,Montré à Prémontré, 1984)

《我々は、言語の使用の結果としての、剰余享楽(対象a)から生まれた存在である。nous sommes des êtres nés du plus de jouir, résultats de l'emploi du langage. 》(Lacan, S17, 21 Janvier 1970)

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ラカンのセミネールⅣ「対象関係」(30 Janvier 1957)には、次の図がある。これも同様のことを示している。


(ラカン、セミネールⅣ「対象関係」)


ふたたびミレールによる簡潔な注釈。

ここに、主体、一つの点、すなわちヴェールがある。他の側には無がある。Ici, le sujet, un point ; le voile ; et de l'autre côté, un autre point, le rien.

もし、ヴェールがないなら、我々は無があるのを見る。S'il n'y a pas de voile, on constate qu'il n'y a rien。

もし、主体と無とのあいだにヴェールがあるなら、すべてが可能である。 Si entre le sujet et le rien il y a un voile, tout est possible.

人はヴェールにて戯れ jouer avec le voile、事物を想像する imaginer des choses ことができる。…ヴェールは無から何ものかを創造する le voile crée quelque chose ex nihilo。ヴェールは神である Le voile est un Dieu。(ジャック=アラン・ミレール 、享楽の監獄LES PRISONS DE LA JOUISSANCE )

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《イマージュは対象aを隠蔽している。l'image se cachait le petit (a).》(ミレール 『享楽の監獄 LES PRISONS DE LA JOUISSANCE』1994年)

・確かに絵は、私の目のなかにある。だが私自身、この私もまた、絵のなかにある。le tableau, certes est dans mon oeil, mais moi je suis dans le tableau.

・そして私が絵の中の何ものか quelque chose dans le tableau なら、…それは染み tâche としてある。(ラカン、S11, 04 Mars 1964)
私は何よりもまず、次のように強調しなくてはならない。すなわち、眼差しは外部にある le regard est au dehors。私は見られている(私は眼差されている je suis regardé)。つまり私は絵である。これが、視野における、主体の場の核心に見出される機能である。視野のなかの最も深い水準において、私を決定づけるものは、眼差しが外部にあることである。…私は写真であり、私は写真に写されている je suis photo, photo-graphié。(ラカン、S11, 11 mars 1964)



主体の眼差しは、常に-既に、知覚された対象自体にシミとして書き込まれている。「対象以上の対象のなか」(=対象a)に。その盲点から対象自体が主体を眼差し返す。(ジジェク、パララックス・ヴュ―、2006)

以下、上に引用したラカンの《私は写真である・私は写真に写されている je suis photo, photo-graphié》(S11, 1964)をめぐるムラデン・ドラーの注釈(『歪像 anamorphosis』2016年)。

写真の動きが、視野の主体に住まっている。視野の領域において、あたかも人は写真に写されている、人が写真を写す主体として自らを分離する以前に。そして人が写真を写され、捕獲され、囚われる仕方が、写真のなかに、斑点・染み・歪みとしての徴を置き残す。これが眼差しの不透明なスクリーンである。

ここで問題になっている事は、表象概念ではない。表象 Vorstellungs とは常に主体にとっての表象である。すなわち彼の前に置かれたもの (vor-stellen 表-象)である。染みは、スクリーンの機能を有しており、眼差しの代役のようなものである。染みは、主体とその欲望の、対象化された外部の「代理」であり、究極的には、言語とシニフィアンの領野における、(フロイトの)悪評高い「表象代理 Vorstellungsrepräsentanz(欲動代理 Triebrepräsentanz)」と同じ機能をもっている。

染みは、構造的に喪われている表象の代役(喪われているシニフィアンのシニフィアン)である。表象の全領野は染みに準拠している。染みという代用物 ersatz は、構造的に喪われている。にもかかわらず、この染みは他の諸表象と同じ水準にあり、絶えず閉じ・脱境界化し・全体化する表象の領野の不可能性にとっての代役である。表象は「すべてではない」。表象は非全体 pastout である。表象が非全体なのは、主体の刻印のためである。表象自体の領野のなかに、主体にとっての何かが代理されているのである。

ここには短絡 short-circuit がある。したがってまた、ラカンの名高い聖典的公式《シニフィアンは他のシニフィアンに対して主体を代表象する Le signifiant, c'est ce qui représente le sujet pour un autre signifiant 》がある。すなわち、表象を、無限への徴示的連鎖と換喩に内在的にするのである。この公式の決定的要点は、主体は代表象された何ものかとして重要な役割をなすということであり、一般に考えられているように、主体の代わりに何かが代表象されることではないことである。

ここで問題になっている事はまた、ある種の「表象の彼岸」ではない。あるいはラカンが用いるカント用語における、現象 phenomena の領域の彼岸のヌーメノン(物自体)ではない。現れるもの appearance の領域として、超越論的水準の条件を付与する現象phenomena ではない。この積年の哲学的分割において問題になっているのは、むしろ《存在の亀裂・複パーティション une fracture, une bipartition de l'être 》(ラカン、S11)、見えるものの《分裂 une schize 》自体である。(ムラデン・ドラ― 2016, Mladen Dolar, Anamorphosis, pdf

わたくし自身は、哲学的ラカン派としてのジジェク組(ジジェク・ドラー・ジュパンチッチ)と、現在の臨床的ラカン派の主流の首領ミレールの考え方には微妙な差異があると感じているが、今はそれには触れない。

上のドラーの捉え方は、次のアレンカ・ジュパンチッチの表象論の変奏である。

……ラカンの公式、《シニフィアンは他のシニフィアンに対して主体を代表象する Le signifiant, c'est ce qui représente le sujet pour un autre signifiant 》。これは現代思想の偉大なブレイク スルーだった。…この概念化にとって、再現前(表象 representation)は、「現前の現前 presentation of presentation」、あるいは「ある状況の状態 the state of a situation」ではない。 そうではなく、むしろ「現前内部の現前 presentation within presentation」、あるいは「ある状況内部の状態 state within a situation 」である。

この考え方において、「表象」はそれ自体無限であり、構成的に非全体 pastoutである(あるいは非決定的である)。それはどんな対象も代表象しない。それ自身における絶え間ない「非関係 non-rapport」を妨げない。…ここでは表象そのものが、それ自身を覆う「彷徨える過剰 excès errant」である。すなわち表象は、「過剰なものへの無限の滞留」である。それは、代表象された対象、あるいは代表象されない対象から単純に湧きだす過剰ではない。そうではなく、この表象行為自体から生み出される過剰、あるいはそれ自身に内在的な「裂目」、「非一貫性」から生み出される過剰である。現実界は、表象の外部の何か、表象を超えた何かではない。そうではなく、表象のまさに裂目である。 (アレンカ・ジュパンチッチ Alenka Zupancic、The Fifth Condition、2004)
シンプルに言おう。主体 $ は、ネガティヴなマグニチュード、あるいはネガティヴな数 negative magnitude or negative number としての裂け目である。それが、ラカンによるシニフィアンの定義におけるまさに正確な意味である。シニフィアンとは、主体に代わって対象を代表象する何かではなく、他のシニフィアンに代わって主体を代表象するものである。すなわち主体とはシニフィアンの内的な裂け目なのである。そしてそれがその参照の動き referential movement を支えているのだ。他方、対象a は、この動きによってもたらされたポジティヴな残滓である。そしてそれがラカンが剰余享楽 plus-de-jouir と呼んだものである。剰余享楽のほかには享楽 jouissance はない。すなわち享楽はそれ自体として本質的にエントロピーとして現われる。 (ジュパンチッチ2006、Alenka Zupancic, When Surplus Enjoyment Meets Surplus Value)

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※付記

ラカンのシニフィアンの論理とは、マルクスの価値形態論がその根にある。

主体は、他のシニフィアンに対する一つのシニフィアンによって代表象されうるものである Un sujet c'est ce qui peut être représenté par un signifiant pour un autre signifiant。しかしこれは次の事実を探り当てる何ものかではないか。すなわち交換価値 valeur d'échange として、マルクスが解読したもの、つまり経済的現実において、問題の主体、交換価値の主体 le sujet de la valeur d'échange は何に対して代表象されるのか? ーー使用価値 valeur d'usage の主体である。

そしてこの裂け目のなかに既に生み出されたもの・落とされたものが、剰余価値 plus-value と呼ばれるものである。この喪失 perte は、我々のレヴェルにおける重要性の核心である。

主体は己自身と同一化しえず、もはやたしかに享楽しえない ne jouit plus 。何かが喪われているだ。それが剰余享楽 plus de jouir と呼ばれるものである。(ラカン、S16、13 Novembre 1968)




ラカンの最も基本的なシニフィアンの論理の図は次の通り。


S1 が「他の諸シニフィアン autres signifiants」によって既に構成されている領野のなかに介入するその瞬間に、「主体が現れる surgit ceci : $」。これを「分割された主体 le sujet comme divisé」と呼ぶ。このとき同時に何かが出現する。「喪失として定義される何か quelque chose de défini comme une perte」が。これが「対象a [l'objet(a) ]」である。(ラカン、S17、26 Novembre 1969)

これをマルクスの価値形態論の考え方の最も基本(単純な価値形態)で記せば次の通り。



・商品は、他の商品の使用価値においてのみ、その価値を表示しうる。(ジジェク『為すところを知らざればなり For They Know Not What They Do』1991)
商品Aの価値は商品Bの使用価値によって表示される。(柄谷行人『トランスクリティーク』2001)
商品自身には価値は内在せず、他の商品…と交換されるほかに価値を与えられない…。(柄谷行人『探求Ⅰ』1986年)


価値=主体$=無が、剰余価値をつけ加える運動は、価値自身の運動であり、自己増殖運動である。

価値が剰余価値 Mehrwert をつけ加える運動は、価値自身の運動であり、価値の増殖であり、したがって自己増殖 Selbstverwertung である。(マルクス『資本論』)

《フロイトの「快の獲得 Lustgewinn」、それはシンプルに、私の「剰余享楽 plus-de jouir」のことである。》(Lacan, S21, 20 Novembre 1973)

Lustgewinn(快の獲得)は、フロイトの最初の概念的遭遇、--後に快原理の彼方、反復強迫に位置されるものとの遭遇である。そして、精神分析に M–C–Mʹ(貨幣– 商品–貨幣'[貨幣+剰余価値])と同等のものを導入した。(Samo Tomšič,The Capitalist Unconscious, 2015)
剰余享楽とは、フロイトの「快の獲得 Lustgewinn」と等価である。この快の獲得は、享楽の構造的欠如を補填する。…

資本家の言説の鍵を見出すことを意味するのは、剰余享楽の必然性(必要性)は、《塞ぐべき穴 trou à combler》(Lacan,Radiophonie,1970)としての享楽の地位に基礎づけられていることを認めることである。

マルクスはこの穴を剰余価値にて塞ぐ。この理由でラカンは、剰余価値 Mehrwert は、マルクス的快 Marxlust ・マルクスの剰余享楽 plus-de-jouir だと言う。剰余価値は欲望の原因である。資本主義経済は、剰余価値をその原理、すなわち拡張的生産の原理とする。

さてもし、資本主義的生産--M-C-M' (貨幣-商品-貨幣+貨幣)--が消費が増加していくことを意味するなら、生産が実際に、享楽を生む消費に到ったなら、この生産は突然中止されるだろう。その時、消費は休止され、生産は縮減し、この循環は終結する。これが事実でないのは、この経済は、マルクスが予測していなかった反転を通して、享楽欠如 manque-à-jouir を生産するからである。

消費すればするほど、享楽と消費とのあいだの裂目は拡大する。従って、剰余享楽の配分に伴う闘争がある。それは、《単なる被搾取者たちを、原則的搾取の上でライバルとして振舞うように誘い込む。彼らの享楽欠如の渇望への明らかな参画を覆い隠すために。induit seulement les exploités à rivaliser sur l'exploitation de principe, pour en abriter leur participation patente à la soif du manque-à-jouir. 》(LACAN, Radiophonie)

新古典主義経済の理論家の一人、パレートは絶妙な表現を作り出した、議論の余地のない観察の下に、グラスの水の「オフェリミテ ophelimite) 」ーー水を飲む者は、最初のグラスの水よりも三杯目の水に、より少ない快を覚えるーーという語を。ここからパレートは、ひとつの法則を演繹する。水の価値は、その消費に比例して減少すると。しかしながら反対の法則が、資本主義経済を支配している。渇きなく飲むことの彼岸、この法則は次のように言いうる、《飲めば飲むほど渇く》と。(capitalist exemption,Pierre Bruno,2010)

ーー《享楽欠如 manque-à-jouir》とあるが、人の生は(極論を言えば)享楽欠如の享楽の生である。

欲望に関しては、それは定義上、不満足であり、享楽欠如 manque à jouir です。欲望の原因は、フロイトが「原初に喪失した対象 l’objet originairement perdu」と呼んだもの、ラカンが「欠如しているものとしての対象a l’objet a, en tant qu’il manque」と呼んだものです。(コレット・ソレール、2013、Interview de Colette Soler pour le journal « Estado de minas »