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2018年5月31日木曜日

ホモ・ヒステリクス

クンデラの『不滅』には、リルケの『マルテの手記』の長い引用がある。ベッティーナのゲーテへの愛をめぐる箇所である。

人々がすべて今もなおお前の愛を語らずにいるということが、どうしてあり得るのか? それ以後さらに忘れがたいことがなにか起ったのか? なにが人々の心を捕えているのか? お前自身が、お前こそが愛の価値を知っていたし、お前はお前の最も偉大な詩人にその愛を声高く語ったのだった、その愛を人間らしいものにしてもらうために。というのも、その愛はまだ基本要素だったからだ。ところが、詩人はお前に返事を書いて、お前の愛を世人に得心させないようにしてしまった。皆が彼のその返事を読んで、その返事のほうをより以上に信じるのだ、なぜなら自然の力よりも詩人のほうが彼らには理解しやすいから。しかし、ここにこそ詩人の偉大さの限界があったということを、たぶん彼らもいつの日か理解することになるだろう。この愛する女(diese Liebende)が彼に課されたのだが(auferlegt、これは宿題や試験が課されるように「課される」ことを意味する)、彼は失敗した(er hat sie nicht bestanden、これはまさにこういうことを意味する、すなわち彼はベッティーナという彼にとっての試験に合格しそこなったのだ)。彼はその愛をお返しする(erwidern)ことができなかったのは、どういうことを意味するのか? つまり、このような愛はお返しをされることを必要としていないし、愛そのもののなかに呼びかけの叫びと答えを含みもっているのだ。それ自体で願いを叶えられているのだ。とはいえ詩人はあらん限りの威儀を尽くして、この愛の前において謙虚になり、パトモス島のヨハネのように、跪いて、この愛の口授することを両手で書きとめるべきであったろうに。「天使の任務を執り行った」(die「das Amt der Engel verrichtete」)この声を前にして、他には選択はなかったし、この声は詩人を包み、永遠のほうへと詩人を伴いさるべく来たのである。それこそ天空を行く彼の熱情にみちた旅のための車だった。彼の死のために晦暗な神話(der dunkle Mythos)が用意されていたのはそこにおいてだったが、彼はそれを空虚なまま放っておいた。(リルケ『マルテの手記』)

クンデラ はこう引用して、さらにベッティーナ側に立つロマン・ロラン、ポール・エリュアールの見解に触れる(それはここでは割愛)。

クンデラ自身の見解は以下の通り。

「この愛する女が彼に課された」とリルケは書いているが、ひとはここでこう問うことができる。この受動の文法形式はどういう意味なのか? いいかえれば、この愛する女を、誰が彼に課したのか?

ベッティーナが1807年6月15日にゲーテに書いた手紙のなかでつぎのような言葉を読むと、同じ疑問がわれわれの心に浮かんでくる。「あたくしはこの感情に溺れることを恐るべきではないのです、だってそれをあたくしの心に植えこんだのはあたくしではありませんもの」

いったい誰がそれを植えこんだのか? ゲーテか? ベッティーナが言おうとしたのは、もちろんそういうことではなかった。彼女の心に愛を植えこんだのは、誰か彼女以上の者、ゲーテより以上の者だった。神ではないにしても、すくなくともリルケの語る天使たちのひとり。

この点まで達すれば、われわれはゲーテを擁護することができる。誰かが(神あるいは天使が)ベッティーナの心に感情を植えこんだのであれば、もちろん彼女はその感情に従うことになる。その感情は彼女の心のなかにあり、それは「彼女の」感情なのだから。しかしゲーテの心のなかには、誰も感情を植えこむ者はなかったらしい。ベッティーナは彼に「課された」のである。宿題のように命じられて。Auferlegt。となると、どうしてリルケはゲーテを非難することができるのか。意志に反して、いわばいきなり前触れもなく課された宿題にゲーテが逆らったことを。なぜ彼は跪いて、高いところから来る声の「口授する」ことを「両手で」書きとらねばならないのか? (⋯⋯)
リルケはベッティーナの愛についてこう言っている。「この愛はお返しをされることを必要としていないし、愛そのもののなかに呼びかけの叫びと答えを含みもっているのだ。それ自体で願いを叶えられているのだ」 天使たちの庭師によって人間の心のなかに植えこまれた愛は、ベッティーナの言ったように、どんな対象も、どんな反響も、どんな「Gegen-Liebe」(見返りの愛)も必要としない。愛される者(たとえば、ゲーテ)は愛の原因でもないし目的でもない。

ゲーテとの文通の時期、ベッティーナはアルニムにも恋文を出していた。そのなかのある一通に彼女はこう書いている。「真実の愛( die wahre Liebe)には不実はできません」 お返しされることを気にかけないこの愛(「die Liebe ohne GegenLiebe」)は、「(相手が)どんな変貌をしようと愛される者を探りだすのです」

ベッティーナの心に愛が植えこまれたのは、よしんば天使の庭師によってではなく、ゲーテあるいはアルニムによってであったとしても、ゲーテあるいはアルニムにたいする愛は彼女のなかで開花していただろう。類まれな、非互換的な愛、それを植えつけた者、つまり愛される者と運命的に結びつけられた愛、だから変貌など知らない愛として、このような愛を「関係」と定義することができよう。

それにひきかえ、ベッティーナが「wahre Liebe」(真実の愛)と呼ぶのは愛=関係ではなく、「愛=感情」である。ある天上の手によってある人間の魂のなかに点火される焔。愛する者が、その光に導かれて「(相手が)どんな変貌をしようと愛される者を探りだす」松明(たいまつ)。そういう愛(愛=感情)は不実というものを知らない。なぜならばたとえ対象が変わろうとも、愛そのものは、同じ天上の手によって点火される同じ焔でありつづけるのだから。
われわれは考察をここまで進めたところで、分厚い往復書簡のなかで、なぜベッティーナはゲーテにほとんど質問しないのか、たぶん理解しはじめるだろう。(⋯⋯)ベッティーナはゲーテと議論などしない。芸術についてさえ。(⋯⋯)

この厖大な往復書簡のなかに、われわれはそういうものはなにも見つけられないだろう。この往復書簡はゲーテについて大したことを教えてくれない。それもただもっぱら、ベッティーナは、ひとが思っているよりもずっとゲーテに関心をもってなかったからなのだ。彼女の愛の原因と方向はゲーテではなく、愛であった。(クンデラ『不滅』第四部「ホモ・センチメンタリス」)

《ベッティーナは、ひとが思っているよりもずっとゲーテに関心をもってなかったからなのだ。彼女の愛の原因と方向はゲーテではなく、愛であった》とあるが、この見解は、実にラカン派的である。

いやラカン派的というより、ジジェク的と言っておこう、《女ははるかにパートナーに依存することが少ない。というのは、彼女の究極的なパートナーは、他の人間、彼女の欲望の対象(男)ではなく、裂け目自体、パートナーからの距離自体なのだから。その裂け目自体に、女性の享楽の場所がある。》

男は自分の幻想の枠組みにぴったり合う女を直ちに欲望する。他方、女は自分の欲望をはるかに徹底して一人の男のなかに疎外する。彼女の欲望は、男に欲望される対象になることだ。すなわち、男の幻想の枠組みにぴったり合致することであり、この理由で、女は自身を、他者の眼を通して見ようとする。「他者は彼女/私のなかになにを見ているのかしら?」という問いに絶えまなく思い悩まされている。

しかしながらそれと同時に、女ははるかにパートナーに依存することが少ない。というのは、彼女の究極的なパートナーは、他の人間、彼女の欲望の対象(男)ではなく、裂け目自体、パートナーからの距離自体なのだから。その裂け目自体に、女性の享楽の場所がある。⋯⋯

女性の究極的パートナーは、ファルスの彼岸にある女性の享楽 jouissance féminine の場処としての、孤独自体である。 ( ジジェク、LESS THAN NOTHING、2012)

さきほど引用したクンデラ『不滅』の第四部には、「ホモ・センチメンタリス」という小題がついているが、「ホモ・センチメンタリス」とは何か。

ホモ・センチメンタリスは、さまざまな感情を感じる人格としてではなく(なぜなら、われわれは誰しもさまざまな感情を感じる能力があるのだから)、それを価値に仕立てた人格として定義されなければならない。感情が価値とみなされるようになると、誰もが皆それをつよく感じたいと思うことになる。そしてわれわれは誰しも自分の価値を誇らしく思うものであるからして、感情をひけらかそうとする誘惑は大きい。(⋯⋯)

感情というものは、そもそも、われわれのなかに知らず知らずに、そしてしばしば意に逆らって湧きあがってくる。われわれがそれを感じようと欲すると(ドン・キホーテがドゥルシネアを愛そうと決めたように、われわれがそれを感じようと決めると)、感情はもはや感情でなくなり、感情を模倣する紛いもの、感情の誇示になってしまう。ふつう一般にヒステリーと呼ばれるものになってしまう。だからしてホモ・センチメンタリスは(いいかえれば、感情を価値に仕立てた人間は)、じっさいにホモ・ヒステリクスと同一なのである。(クンデラ『不滅』)

最後に、クンデラはベッティーナのゲーテへの手紙(1807年6月15日)を引用していたことを思い出しておこう、「あたくしはこの感情に溺れることを恐るべきではないのです、だってそれをあたくしの心に植えこんだのはあたくしではありませんもの」