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2018年7月23日月曜日

あんた、あたしのオシッコするとこみてよ

人格

前橋での朔太郎忌で対談することになって、萩原朔太郎について考えているうちに、〈詩人格〉と〈俗人格〉という言葉を思いついた。一人の人間の人格が、分裂しているわけではなくて混ざり合っているイメージ。朔太郎は詩人格99%、俗人格1%の男だったと思う。

俗人と言っても軽蔑して言っているわけではない。普通の生活者のことを、詩人と対照的に俗人と言っているだけ。今どきの詩人はほとんどが教師とかフリーライターとかの正業で生活している。中には詩人格5%、俗人格95%の人だっているかもしれない。

自分のことを言うと、詩を書き始めたころは現実の暮らしをどうするかが大変だったから、詩人格が低かった。今は暮らしに余裕があるし、詩を書くのが楽しくなってきてるから、詩人格と俗人格が半々くらいかなあと言ったら、対談相手の三浦雅士さんが何故かゲラゲラ笑い出した。 (俊)

なんだかいい話だ。現在は詩人だけじゃなく、作家も芸術家も「俗人格比率」が高くなってしまって、ボクはときにバカにすることがあるけど、すこし慎まないとな。でもやっぱり一方では「時代錯誤的」に考えないといけない、という主義は変わらないな。

時代錯誤的に考えるとは、ニーチェの「反時代的考察 unzeitgemässe Betrachtung」のことだ。これは「流行遅れの考察」でもあり「非アクチュアルな考察」でもある。

能動的に思考すること、それは、「非アクチュアルな仕方で inactuel、したがって時代に抗して、またまさにそのことによって時代に対して、来るべき時代(私はそれを願っているが)のために活動することである」。(ドゥルーズ『ニーチェと哲学』)

目隠しと耳栓はやめないとな、いくら俗人の世紀だって。

世論と共に考えるような人は、自分で目隠しをし、自分で耳に栓をしているのである。(ニーチェ『反時代的考察』)

とはいえ、1968年と1989年の二段階攻撃が大きいね。すっかり市場原理・功利主義の時代になってしまった。

そして1995年前後からの携帯電話とインターネットの普及の影響も大きい。これで若い世代の「人格」が変わっちまった。たとえば携帯で、恋愛の仕方が変わったのだろうし、ネットのエロ画像・エロ動画の氾濫で「男女関係」の価値下落もある。

精神分析は変貌している。…

電子ネットワークによるポルノグラフィの世界的蔓延は、精神分析において、疑いもなく厳然とした影響を生み出している。今世紀の始まりにおけるポルノグラフィの遍在は、何を表しているのか? どう言ったらいいのだろう? そう、それは「性関係はない」以外の何ものでもない。これが我々の世紀に谺していることだ。そしてある意味で、ひっきりなしの、絶え間なく続くあのスペクタクルの聖歌隊によって、詠唱されていることだ。というのは、性関係の不在のみが、この熱狂に帰されうるから。我々は既に、この熱狂の帰結を、より若い世代の性的振る舞いのスタイルなかに辿りつつある。すなわち、幻滅・残忍・陳腐。ポルノグラフィにおける性交の怒濤は、意味のゼロ度に到っている。…(ジャック=アラン・ミレール 、L'INCONSCIENT ET LE CORPS PARLANT、2014)

ところで谷川俊太郎は、1931年生れ、今年87才か。

ボクの母は1932-1982。グレン・グールドと一緒。二人ともまだ生きててもおかしくないんだ。

谷川以外にも、

中井久夫 1934
大江健三郎 1935
蓮實重彦 1936
古井由吉 1937

それぞれ母の言葉、母の時代の言葉を読むことがある作家だ。蓮實は直接的には『反=日本語論』だけだけど。

1968年

〈ぽえむ・ぱろうる〉の蔵出しで現代詩手帖の1968年7月号を買った。〈詩に何ができるか〉というぼくも出席した公開討論会の記録が特集されている。まだ詩人たちの元気がよかった時代。たとえば富岡多恵子の詩の口調は‥…

「とりあえず/なにをするべきかと思ってみるに/まあゆっくりオシッコでもして/それから靴下をベッドの下からひっぱり出す/あんた/あたしのオシッコするとこみてよ/ぼんやりしないで/ついでにあたしの足を洗ってよ」と200行ほど続く。

討論会でのぼくの発言にはすぐにヤジが飛んだ。今じゃ何か質問はありませんかと言っても、なかなか聴衆から手が挙がらない。簡単に比較することは出来ないが、時代の空気はあきらかに変わってきている、のは当たり前か、もう半世紀近い昔の話だもんね。でもぼくには古い現代詩手帖が、かえって今の号より新鮮に思える。 (俊)

富岡多恵子も1935年生れだ。


きみの肩が
骨をむきだしにしてうたいだし
さかりのついた猫が
ここかしこに
きみと声をあわせて啼いて
あたいを狂気じみておどかすんだ

ーー富岡多恵子「草でつくられた狗」


最後に1919年生れの吉岡実の〈私の好きなもの〉を掲げる。

ラッキョウ、ブリジット・バルドー、湯とうふ、映画、黄色、せんべい、土方巽の舞踏、たらこ、書物、のり、唐十郎のテント芝居、詩仙洞、広隆寺のみろく、煙草、渋谷宮益坂はトップのコーヒー。ハンス・ベルメールの人形、西洋アンズ、多恵子、かずこたちの詩。銀座風月堂の椅子に腰かけて外を見ているとき。墨跡をみるのがたのしい。耕衣の書。京都から飛んでくる雲龍、墨染の里のあたりの夕まぐれ。イノダのカフェオーレや三條大橋の上からみる東山三十六峰銀なかし。シャクナゲ、たんぽぽ、ケン玉をしている夜。巣鴨のとげぬき地蔵の境内、せんこうの香。ちちははの墓・享保八年の消えかかった文字。ぱちんこの鉄の玉の感触。桐の花、妙義の山、鯉のあらい、二十才の春、桃の葉の泛いている湯。××澄子、スミレ、お金、新しい絵画・彫刻、わが家の猫たち、ほおずき市、おとりさまの熊手、みそおでん、お好み焼。神保町揚子江の上海焼きそば。本の街、ふぐ料理、ある人の指。つもる雪(吉岡実〈私の好きなもの〉一九六八年七月三一日)

白石かずこは、1931年生れ。

日常のことばで書いてほしいね、とくに女性詩人たちにはそう願うな、


この許せないもの

正直いって
おれは あれが好きじゃない
全く うそだといってもいい
おれ はあれとかかわりたくない
そのような あれが
あんなに 正装して ぼくの玄関へ
ノートへ 土足で はいってくる
〈失礼な〉
といいたいのに
おれ の椅子にすでにすわって
おれ のパイプで
おれ の言葉を吸いはじめているではないか

その上
おれ の女をもうくどきはじめている
また  彼女は だらしなく
パンティなどをぬぐ
すると おれなどは汚れて
くずかごに捨てられる

正直いって おれはあれが好きじゃない
ようやく
くずかごから這いでる と あれは
退散したようだ
が 彼女は
彼女ときたら
おれ のパイプにとまったあれの言葉と
おれ の言葉に交互にキスしながら
ゆっくり
なにか なんでもないといった風に
ふかしてしまっているのだ

――白石かずこ『もうこれ以上おそくやってきてはいけない』所収