生物が、外部環境を識別するために発達させた感覚機能には、視覚、聴覚、味覚、嗅覚、触覚の 5つがあります。いわゆる「五感」です。そのなかであえて順位をつけると、生物学的に一番重要だと考えられる感覚は嗅覚です。その理由として、まず「こちらからコンタクトしなくてもその存在が確認できる」という点があげられます。たとえば視覚であれば、対象物が自分の視野に入ってはじめて認識することができます。味覚の場合は、対象物を口に入れる、というこちらからの積極的なコンタクトが必要になります。しかし嗅覚はどうでしょう。嗅覚は、相手が見えなくても、接触しなくても、そのにおい物質が空気中を拡散して伝われば、その存在を認知できるシステムになっています。
もうひとつ、嗅覚の重要説を裏付けるものとして、においの「レセプター(受容体)」について触れておきましょう。人間は、各対象に対応したレセプターを持ってはじめて、対象を感知することができます。たとえば味覚であれば、甘味、苦味、酸味などを感知するレセプターを 5つほど持っていて、その組み合わせによって味を判断しています。視覚も同様で、光の粒子を感知する数種類のレセプターで色を認識しています。そして嗅覚はというと、においのレセプターが発見されたのは、約 20年前のことです。発見したのは女性研究者、リンダ・バック博士。彼女の研究によってわかった人間のにおいレセプターの数は、少なくとも数百種類あります。人間の遺伝子が 2万数千種類であるのに対して、その全体の数パーセントを、においに関する遺伝子が占めていることになります。ここまでたくさんの数の遺伝子を用意している組織は、ほかにありません。人間にとってどれだけ嗅覚が大切か、お分かりいただけるでしょう。(福岡伸一「生物の進化と“ におい ”の関係」2010年)
さて慶應学医学部の神崎晶によるコスメトロジー研究報告 2015から「糞様の臭気」についてである。
一般に良い香りとされるバラ様の嗅気では、交感神経・副交感神経どちらかを特に優位に亢進させるのではなく、総合的な自律神経の活動を亢進させることが分かった。また、 一般に悪臭とされる糞様の臭気では副交感神経優位に良い嗅気よりも激しく自律神経の活動を亢進させることが分かった。(神崎晶「嗅覚 (芳香) 刺激量が与える自律神経機能の経時的変化」2015、PDF)
次に《菌臭は…一般にかなりの鎮静効果を持つのではないか》で始まり、《菌臭は、われわれが生まれてきた、母胎の入り口の香りにも通じる匂いではなかろうか》で終わる中井久夫の「きのこの匂いについて」の一連の文を掲げる。
カビや茸の匂いーーこれからまとめて菌臭と言おうーーは、家への馴染みを作る大きな要素だけでなく、一般にかなりの鎮静効果を持つのではないか。すべてのカビ・キノコの匂いではないが、奥床しいと感じる家や森には気持ちを落ち着ける菌臭がそこはかとなく漂っているのではないか。それが精神に鎮静的にはたらくとすればなぜだろう。
菌臭は、死ー分解の匂いである。それが、一種独特の気持ちを落ち着かせる、ひんやりとした、なつかしい、少し胸のひろがるような感情を喚起するのは、われわれの心の隅に、死と分解というものをやさしく受け入れる準備のようなものがあるからのように思う。自分のかえってゆく先のかそかな世界を予感させる匂いである。………
菌臭の持つ死ー分解への誘いは、腐葉土の中へふかぶかと沈みこんでゆくことへの誘いといえそうである。こういう死の観念のない世界がいくらでもある。ロメオとジュリエットの墓は、収納ケースのたくさんある地下室である。そこでは死体は乾いてミイラになるのであろうが、さらに砂漠の中での徹底的に乾燥した死となると、これは実にわれわれから遠い。旧約やイスラムの死とはそういうものだろうが、私などがあの苛烈な宗教に馴染めないとしたら、死にまつわる匂いのこの違いも一役買っているかもしれない。われわれの宗教は、逆に、菌臭のただよう世界にしか安住できないのかもしれない。神道が、すでに、森の奥の空き地に石を一つ置いたものを拝むところから始まっている。樹脂と腐葉土の匂いの世界を聖としたのである。
京都の街々、家々を思うと、いかにも底深い腐葉土の上に建てられているという感じがある。いたるところに過去のものがカビ類に洗われて骨格だけをとどめながら埋もれているのは周知のとおりである。菌臭のただようひんやりした露地は、それが地表にたまたま現れたもので、いずれまた地下に沈みこんでゆく運命である。
とりわけ、寺院というものは、京都であれ熊野であれ信州であれ、特別に腐葉土の深いところに建てられているように感じる。平安以後、日本の仏教は山岳仏教になったというが、寺は菌臭の深いところを求めて次第に山にはいったのではないか。それ以前に建ったナラの寺だけは、なぜか、菌臭が不足しているように思う。からりと明るい。ギリシャ神殿の面影があっても可笑しくない。唐招提寺など、裏の森にはいって初めて鎮静的なものが私を包みこむように感じる。それまでは何か外国にいる感じがする。寺の雰囲気を抹香臭いというが、あれは単に線香の匂いではあるまい。線香の匂いも寺の持つ鎮静的な菌臭の一部である。話は逆で、寺の匂いと馴染むものが線香の匂いとして採用されたのではないか。
菌臭は、単一の匂いではないと思う。カビや茸の種類は多いし、変な物質を作りだすことにかけては第一の生物だから、実にいろいろな物質が混じりあっているのだろう。私は、今までにとおってきたさまざまの、それぞれ独特のなつかしい匂いの中にほとんどすべて何らかの菌臭の混じるのを感じる。幼い日の母の郷里の古い離れ座敷の匂いに、小さな神社に、森の中の池に。日陰ばかりではない。草いきれにむせる夏の休墾地に、登山の途中に谷から上がってくる風に。あるいは夜の川べりに、湖の静かな渚に。
実際、背の下にふかぶかと腐葉土の積み重なるのを感じながら、かすかに漂う菌臭をかぎつつ往生するのをよしとし、大病院の無菌室で死を迎えるのを一種の拷問のように感じるのは、人類の歴史で野ざらしが死の原型であるからかもしれない。野ざらしの死を迎える時、まさに腐葉土はふかぶかと背の下にあっただろうし、菌臭のただよってきたこともまず間違いない。
もっとも、それは過去の歴史の記憶だけだろうか。菌臭は、われわれが生まれてきた、母胎の入り口の香りにも通じる匂いではなかろうか。ここで、「エロス」と「タナトス」とは匂いの世界では観念の世界よりもはるかに相互の距離が近いことに思い当たる。恋人たちに森が似合うのも、これがあってのことかもしれない。公園に森があって彼らのために備えているのも、そのためかもしれない。(中井久夫「きのこの匂いについて」1986年『家族の深淵』所収)
こうしてわたくしが前回テキトウに記したことは科学者と精神科医によっても裏付けられた。みなさん、ウンコとオメコのにおいをバカにしてはけっしてなりません!
絶対への接吻 滝口修造
彼女の彎曲部はレヴィアタンである。 彼女の胴は、相違の原野で、水銀の墓標が妊娠する焔の手紙、それは雲のあいだのように陰毛のあいだにある白昼ひとつの白昼の水準器である。 彼女の暴風。 彼女の伝説。 彼女の営養。 彼女の靴下。 彼女の確証。 彼女の卵巣。 彼女の視覚。 彼女の意味。 彼女の犬歯。 無数の実例の出現は空から落下する無垢の飾窓のなかで偶然の遊戯をして遊ぶ。 コーンドビーフの虹色の火花。 チーズの鏡の公有権。 婦人帽の死。 パンのなかの希臘神殿の群れ。 …すべては氾濫していた。 すべては歌っていた。 無上の歓喜は未踏地の茶殻の上で夜光虫のように光っていた………
いや絶対への接吻ではなく穴への接吻です!