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2018年9月11日火曜日

嗜糞性臭快感のすすめ

(トリュフォー、あこがれ)

精神分析は、抑圧のために失われてしまった嗜糞性 koprophilenの臭快感 Riechlustが、フェティッシュの選択にたいしてもつ意味を指摘して、フェティシズムを理解するうえでの間隙を埋めた。

足や毛髪はひどく臭う対象であって、嗅覚が不快になり廃棄された後、フェティッシュへと高められる。

したがって足フェティシズムFußfetischismus に相当する倒錯において、性対象となるのは、汚れた悪臭をはなつ足 schmutzige und übelriechende Fuß だけである。(フロイト『性欲論三篇』1905年)

ボクはフロイトのようにケチなこと、いや極端なことは言わないけれど(悪臭だなんて!)、やっぱりすこしは臭くないといけません。清潔好きの女性のみなさんオキヲツケを!


ベルトルッチ、ラストタンゴインパリ


もっともかつてから知られているように高級化粧品、シャネルに代表される香水は、ウンコの臭いが混じっている(スカトールやインドール等の成分)のは、既にご存じでありましょう。安物の化粧品や安物のシャンプーのきわめて清潔なにおいがよくないのです。あれではオチンチンが萎えてしまいます。

かつての男女は各家のこえだめを漂わせていたからエロスが深かったとは、わが古井由吉の言葉です。

ーーと調べてみたら、そこまでは言っていないけど、ま、似たようなものです。

もう、糞尿の匂いを懐かしく思う人は、少なくなったでしょう。昔は、肥えつぼの匂いが家に満ちていたものです。男女が会えば、着るものにまとわりついてくるから、お互いに違った糞尿の匂いを嗅いでいました。(古井由吉『人生の色気』)

もしかりにあなたが、ラカン派の男女の愛の定義を受け入れるならば、ウンコ臭をいくらかまじえて男に逢わなければなりません。

すなわち、男の愛の《フェティッシュ形式 la forme fétichiste》 /女の愛の《被愛マニア形式 la forme érotomaniaque》(Lacan, E733

女性の愛の形式は、フェティッシュfétichiste 的というよりもいっそう被愛マニア的érotomaniaqueです。女たちは愛され関心をもたれたいのです。 (ジャック=アラン・ミレール、2010、On aime celui qui répond à notre question : " Qui suis-je ? ")

ほどよい臭さでよいのです、それが肝腎です。最近のみなさんは文明化されているでしょうからあまり臭過ぎるのは禁物です。


Bo Widerbergs、Lust Och Fagring Stor  


においを嗅ごうとする欲望のうちには、さまざまの傾向が混じり合っているが、そのうちには、下等なものへの昔からの憧れ、周りをとり巻く自然との、土と泥との、直接的合一への憧れが生き残っている。対象化することなしに魅せられる匂いを嗅ぐという働きは、あらゆる感性の特徴について、もっとも感覚的には、自分を失い他人と同化しようとする衝動について、証しするものである。だからこそ匂いを嗅ぐことは、知覚の対象と同時に作用であり ──両者は実際の行為のうちでは一つになる ──、他の感覚よりは多くを表現する。見ることにおいては、人は人である誰かにとどまっている。しかし嗅ぐことにおいて、人は消えてしまう。だから文明にとって嗅覚は恥辱であり、社会的に低い階層、少数民族と卑しい動物たちの特徴という意味を持つ。 (ホルクハイマー&アドルノ『啓蒙の弁証法』)


大切なのは、人は文明人であっても、無意識の欲望には成熟はないことです。そしてそもそも人はみな乳幼児期はみな糞尿まみれの原始人です。


塩田明彦、月光の囀り


さらにいえば母胎内のにおい、ああとりわけあの羊水の喪失!ーーこれらは究極の対象a(喪われた対象)です。




母胎内から乳幼児期にかけての糞尿まみれを人はバカにしてはなりません。くりかえせばあそこにこそ我々の存在の核、そして原初に喪われた対象(原対象a)があるのです。

ラカンによって幻想のなかに刻印される対象aは、まさに「父の名 Nom-du-Père」と「父性隠喩 métaphore paternelle」の支配から逃れる対象である。

…この対象は、いわゆるファルス期において、吸収されると想定された。これが言語形式のもと、「ファルスの意味作用 la signification du phallus」とラカンが呼んだものによって作られる「父性隠喩」である。

この意味は、いったん欲望が成熟したら、すべての享楽は「ファルス的意味作用 la signification phallique」をもつということである。言い換えれば、欲望は最終的に、「父の名」のシニフィアンのもとに置かれる。この理由で、「父の名」による分析の終結が、欲望の成熟を信じる分析家すべての念願だと言いうる。

そしてフロイトは既に見出している、成熟などないと。フロイトは、「父の名」はその名のもとにすべての享楽を吸収しえないことを発見した。フロイトによれば、まさに「残余 restes」があるのである。その残余が分析を終結させることを妨害する。残余に定期的に回帰してしまう強迫がある。

セミネール4において、ラカンは自らを方向づける。それは、その後の彼の教えにとって決定的な仕方にて。私はそれをネガの形で示そう。ラカンによって方向づけられた精神分析の実践にとって真の根本的な言明。それは、成熟はない il n'y pas de maturation 。無意識としての欲望のどんな成熟もない ni de maturité du désir comme inconscient である。(ミレール、大他者なき大他者 L'Autre sans Autre 、2013ーーラカンの対象aとフロイトの残存現象