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2018年9月11日火曜日

享楽のさまよい

質問をもらっている。

まず前回しめした、ジャック=アラン・ミレール 2005セミネールの図( Jacques-Alain Miller Première séance du Cours 、mercredi 9 septembre 2005、PDF)を掲げる。




主体と言存在が対立されて示されているが、言存在とは次の内容である。

ラカンは “Joyce le Symptôme”(1975)で、フロイトの「無意識」という語を、「言存在 parlêtre」に置き換える remplacera le mot freudien de l'inconscient, le parlêtre。…

言存在 parlêtre の分析は、フロイトの意味における無意識の分析とは、もはや全く異なる。言語のように構造化されている無意識とさえ異なる。 ⋯analyser le parlêtre, ce n'est plus exactement la même chose que d'analyser l'inconscient au sens de Freud, ni même l'inconscient structuré comme un langage。(ジャック=アラン・ミレール、2014, L'inconscient et le corps parlant par JACQUES-ALAIN MILLER )
言存在 parlêtre」のサントームは、《身体の出来事 un événement de corps》(AE569)・享楽の出現である。さらに、問題となっている身体は、あなたの身体であるとは言っていない。あなたは《他の身体の症状 le symptôme d'un autre corps》、《一人の女 une femme》でありうる。(同ミレール 2014)

ミレールは上の図で「享楽」と「欲動」を右側の項に等置しているが、これは簡略化のためであり、実際上は、欲動とは享楽の漂流のことである。

私は…欲動Triebを、享楽の漂流 la dérive de la jouissance と翻訳する。(ラカン、S20、08 Mai 1973)

あるいは、《われわれの享楽のさまよい égarement de notre jouissance》(ラカン、Télévision 、Autres écrits, p.534)

したがって次のコレット・ソレールの「享楽欠如の存在」という表現が上の図の内容をより正確に示している。

parlêtre(言存在)用語が実際に示唆しているのは主体ではない。存在欠如 manque à êtreとしての主体 $ に対する享楽欠如 manqué à jouir の存在êtreである。(コレット・ソレール, l'inconscient réinventé ,2009)

享楽の不可能性については、次のラカンによる図(セミネール20)が明示している。




これは享楽が不可能だから剰余享楽が生じ、循環運動が生じることを示している。

(ラカン、セミネール19)


これは二カ月ほど前に「享楽欠如の享楽」で示したことだが、ミレール2005はそこでは掲げていない。いまあらためて上記のの内容をかつての投稿に付記しておく。つまりより詳しくは「享楽欠如の享楽」を見よ。