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2018年9月19日水曜日

私のなかの女

荒木さんは私の中に潜んでいるその『女』に声をかけてくれた。私もそれを出すために荒木さんが必要だったんです。(石倭裕子ーー桐山秀樹『荒木経惟の「物語」』1998年)

いいな、こういうことを言う女って。





でも「私のなかの女」とは、石倭さんだけじゃなくて、
それなりの割合の女性たちがいうんじゃないだろうか。
そのいってる意味合いはたぶんそれぞれ違うにしても。

逆に「僕のなかの男」って男が言ったら滑稽だね、
そんなこと言うヤツは稀だろうし。

「僕のなかの女」と言うヤツはたぶんいっぱいいるよ

倒錯者 inverti たちは、女性に属していないというだけのことで、じつは自分のなかに、自分が使えない女性の胚珠 embryon をもっている。 (プルースト「ソドムとゴモラ」井上究一郎訳)

「私のなかの男」と女が言ったって悪くない、
「僕のなかの女」にとっては。

男女の関係が深くなると、自分の中の女性が目覚めてきます。女と向かい合うと、向こうが男で、こちらの前世は女として関係があったという感じが出てくるのです。それなくして、色気というのは生まれるものでしょうか。(古井由吉『人生の色気』)

これなしで人生おくる男たちが多いんだろうけどさ、
きみたちの不幸だよ

人間は二つの根源的な性対象、すなわち自己自身と世話をしてくれる女性の二つをもっている der Mensch habe zwei ursprüngliche Sexualobjekte: sich selbst und das pflegende Weib(フロイト『ナルシシズム入門』1914)

原母子関係では必ず、幼児は受け身で、母は支配者だ。

母としての女の支配 dominance de la femme en tant que mère…
命令する母・それと同時に幼児の依存を担う母。mère qui ordonne, et qui institue du même coup cette dépendance du petit homme.(ラカン、S17、11 Février 1970)
quoad matrem(母として)、すなわち《女というもの la femme》は、性関係において、母としてのみ機能する。(ラカン、S20、09 Janvier 1973)

フロイトの定義上では、原母とは実質上男で、すべての乳幼児は女だ。
母子関係とは、能動者/受動者なんだから。

受動的立場あるいは女性的立場 passive oder feminine Einstellung(フロイト『終りある分析と終りなき分析』1937)

で、受動的立場とは主体性の障害なのだから、
女というものは追い出されている。
日常的観察においてもそうさ

本源的に抑圧(追放)されているものは、常に女性的なものではないかと疑われる。(フロイト、Brief an Wilhelm Fließ, 25, mai, 1897)
「女というもの La Femme」 は、その本質において dans son essence、女 la femme にとっても抑圧(追放 refoulée)されている。男にとって女というものが抑圧(追放)されているのと同じように。(ラカン、S16, 12 Mars 1969)

でも退行して幼児化すれば、
人は自らのなかの女に出会う、
すくなくともその場合がある。

それが「女への推進力 pousse-à-la-femme」(AE466、1972)の意味だ。

人はみな退行すべきだね、
そうでないと「私のなかの女」に出会えないよ

何人〔じん〕であろうと、「デーモン」が熾烈に働いている時には、それに「創造的」という形容詞を冠しようとも「退行」すなわち「幼児化」が起こることは避けがたい。(中井久夫「執筆過程の生理学」初出1994年『家族の深淵』所収)

最近は上に引用した古井由吉の言っている意味とは異なった
「男への推進力」の女たちが跳梁跋扈しているけれど、
彼女たちはあれでシアワセなんだろうかね

女であること féminité と男であること virilité の社会文化的ステレオタイプが、劇的な変容の渦中です。男たちは促されています、感情 émotions を開き、愛することを。そして女性化する féminiser ことさえをも求められています。逆に、女たちは、ある種の《男への推進力 pousse-à-l'homme》に導かれています。法的平等の名の下に、女たちは「わたしたちも moi aussi」と言い続けるように駆り立てられています。…したがって両性の役割の大きな不安定性、愛の劇場における広範囲な「流動性 liquide」があり、それは過去の固定性と対照的です。現在、誰もが自分自身の「ライフスタイル」を発明し、己自身の享楽の様式、愛することの様式を身につけるように求められているのです。(ジャック=アラン・ミレール、2010、On aime celui qui répond à notre question : " Qui suis-je ? "