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2018年9月19日水曜日

水脈との出会い

・多様性を受けいれて、様々な性的指向も認めよということになると、同性婚の容認だけにとどまらず、例えば兄弟婚を認めろ、親子婚を認めろ、それどころかペット婚や、機械と結婚させろという声も出てくるかもしれません。

・「常識」や「普通であること」を見失っていく社会は「秩序」がなくなり、いずれ崩壊していくことにもなりかねません。私は日本をそうした社会にしたくありません(杉田水脈「「LGBT」支援の度が過ぎる」)

杉田水脈さんが話題となっているので、30分程度だけネット上を探ってみた。つまりわたくしは、ここでたいしたことをいうつもりは毛ほどもない。
とはいえ(わたくしの素朴な頭では)、上に掲げた二文は実に「反時代的」でスバラシイのではなかろうかと感じてしまう。

・反時代的な様式で行動すること、すなわち時代に逆らって行動することによって、時代に働きかけること、それこそが来たるべきある時代を尊重することであると期待しつつ。

・世論と共に考えるような人は、自分で目隠しをし、自分で耳に栓をしているのである。(ニーチェ『反時代的考察』)

杉田さんの主張が「反時代的」だとするのは、次のジジェク文にまずは依拠している。

現在の状況のもとでとくに大切なことは、支配的イデオロギーと支配しているかに見えるイデオロギーとを混同しないように注意することだ。…例えば、セックスで真のヘゲモニーを掌握している考え方は家父長制的な抑圧などではなく自由な乱交であり、また芸術で言えば、悪名高い「センセーショナル」展覧会と銘打ったスタイルでなされる挑発が規範に他ならなず、それは体制に完全に併合されてしまっている芸術の典型事例である。 (ジジェク『迫り来る革命 レーニンを繰り返す』)

「支配的イデオロギー/支配しているかに見えるイデオロギー」の区分で言えば、水脈さんの言っていることは、反「支配的イデオロギー」であるだろう。現在はけっして家父長制が支配的イデオロギーではない。家父長制とは一見いまだ「支配しているかに見えるイデオロギー」に過ぎない。
たとえば現在の支配的イデオロギーは「自由な乱交」だとあるが、ネット上をすこしだけ垣間見るだけで、わたくしはジジェクに頷きたくなる。
あるいはラカン派臨床家バーハウの次の文はどうか?

セクシャリティとエロティシズムの問題において、現在ーー少なくとも西側先進諸国のあいだではーーほとんど何でも可能だ。これは、この20年間のあいだに倒錯のカテゴリーに含まれる症状の縮小をみればきわめて明白だ。現代の倒錯とは、結局のところ相手の同意(インフォームドコンセント)の逸脱に尽きる。この意味は、幼児性愛と性的暴力が主である、それだけが残存する倒錯形式のみではないにしろ。実際、25年前の神経症社会に比較して、現代の西洋の言説はとても許容的で、かつて禁止されたことはほとんど常識的行為となっている。避妊は信頼でき安い。最初の性行為の年齢は下がり続けている。セックスショップは裏通りから表通りへと移動した。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe, Sexuality in the Formation of the Subject、2005)

ーーこらんの通り、現在は事実上、ナンデモありの時代であるという認識がわたくしにはある。そしてナンデモありをほうっておくと、ヒト族は絶滅してしまう、というのが「真の」精神分析学の洞察である。それは杉田さんの《「常識」や「普通であること」を見失っていく社会は「秩序」がなくなり、いずれ崩壊していくことにもなりかねません》とよく共鳴する。

「セクシャリティ」における象徴的法は、(本能の壊れた・多形倒錯的な)ヒト族の生存にとって欠かせない、とラカンは信じている。象徴的性別化の終焉は、人間を単なる動物的性交に制限するのではなく、種の絶滅へ導く。…ラカン注釈者たちがほとんど満場一致で見落としいるのは、象徴界は(再生産的reproductive)人間の性関係の発生可能性の構造的条件を構しているという事実である。(ロレンゾ・チーサ Lorenzo Chiesa, Subjectivity and Otherness, 2007)

ーーああ、若き世代のラカン派リーダーとされるロレンゾの文には、「生産」という水脈語彙さえ出現する。

人間は「主人」が必要である。というのは、我々は自らの自由に直接的にはアクセスしえないから。このアクセスを獲得するために、我々は外部から抑えられなくてはならない。なぜなら我々の「自然な状態」は、「自力で行動できないヘドニズム inert hedonism」のひとつであり、バディウが呼ぶところの《人間という動物 l’animal humain》であるから。

ここでの底に横たわるパラドクスは、我々は「主人なき自由な個人」として生活すればするほど、実質的には、既存の枠組に囚われて、いっそう不自由になることである。我々は「主人」によって、自由のなかに押し込まれ/動かされなければならない。(ジジェク、Can One Exit from The Capitalist Discourse Without Becoming a Saint? 2016)
ま、もちろんヒト族はもっと減って20世紀の初頭ぐらいの人口になったらよい、象徴的法など御免蒙るという立場があってもよろしい。


地球から見れば、ヒトは病原菌であろう。しかし、この新参者はますます病原菌らしくなってゆくところが他と違う。お金でも物でも爆発的に増やす傾向がますます強まる。(中井久夫「ヒトの歴史と格差社会」2006.6初出『日時計の影』所収)



この傾向に歯止めをかけるためには「ペット婚」や「機械婚」のほうが望ましいという側面はあるのである。

主人のすすめをするジジェク自身、こうも言っている。

地球にとってもっともよいのは、三分の二の人間が死ぬような仕組みをゆっくりとつくることではないだろうか。 (ジジェク『ジジェク、革命を語る』2013)


というわけだが、杉田水脈さんは名前が実にいいのである。わたくしの EVERNOTE の引き出しを検索してみたら、実に美しいニーチェの文に遭遇した、《全体を、また個々の芽を養うための樹液が無数の水脈を通って流れめぐらねばならない》。この文は長い間失念していたので、水脈さんとの出会いはこれだけでも貴重であった。

君たちがその老衰した近眼の眼で地球の人口過剰として恐れている現象は、もっと希望に満ちた者たちにとっては、まさに偉大な使命を彼に託する所以のものである。すなわち、人類は将来一本の樹となって全地上にその影を投げ、全て相共に実を結ぶべき幾十億の花をつけなければならない、そして地球自体はこの樹の養分となるべく準備されねばならない、という使命である。

いまはまだ小さなその萌芽は樹液と力を増しゆかねばならない、全体を、また個々の芽を養うための樹液が無数の水脈を通って流れめぐらねばならない、――このような、またこれに類した使命から、現在の個々の人間が有用であるか無用であるかについての尺度がとってこられねばならない。この使命は言いようもなく遠大であり、放胆である。我らはみな、この樹が時至らざるに朽ち果てぬよう、力を合わせよう! 

歴史学的な頭脳を持つ人ならば、ちょうど我らの誰もが蟻の本質をその巧みに築かれた蟻塚と共に思い浮かべるのと同じようにして、人間の本質や行動を時代全体の視点から眼前に彷彿せしめることができるだろう。もしも表面的にに判断するならば、人類の全本質についても蟻の本質についてと同様「本能」の問題を取り上げることができよう。だが、いっそう厳密に検討するならば、我々は、歴史上の全民族、前世紀が、人間の或る偉大な全体のために、そして最後には人類全体の偉大な果樹のために裨益することを可能にする新しい手段を発見し、またそれを十分に試験すべく努力していることに気付くのだ。そして、この試験の過程に際して各個人、各民族、各時代がどんな禍をこうむったにしても、この禍を通じて常に個々人は賢くなってきたのであり、またこの賢さは個人からゆっくりと溢れ出て、各民族全体、各時代全体の講ずる方策へと広がりつつあるのである。

蟻もやはり間違ったり、やりそこなったりする。人類もその手段の愚かさのために時至らずして腐朽し、枯死することも十分あり得る。蟻にとっても人類にとっても、彼らを確実に導く本能など存在しないのだ。我らはむしろ、あの偉大な使命をまともに直視なければならない、地球を、最も偉大な、そして最も喜ばしい豊饒性を宿す植物のために準備するという使命を、――理性に課する理性の使命を!(ニーチェ『人間的、あまりに人間的』「漂泊者とその影」)

→「家父長制は現在の支配的イデオロギーではない