こうして見ると、20~40代の全体平均では日本のカップル状況は特殊ではないんだな、
ただし現在の日本においては、20代の非カップルが際立っている。
◆結婚・同棲・未婚の国際比較
上の図の20代の非カップル率をみれば歴然とするが、つまり日本(あるいは韓国)においての特殊は晩婚化なんだ。
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ボクの結婚した当時(1980年代前半)は、女は25歳を過ぎると売れ残りとされたんだけどさ。下の表にあるとおり、1985年時点での25~29歳の未婚率は30パーセント。
◆年齢階層別未婚率の推移
この傾向の端緒は、1970年がひとつの目処だろう。そして1989年における最後の父、「マルクスの父」の崩壊が決定的。
中井久夫)確かに1970年代を契機に何かが変わった。では、何が変わったのか。簡単に言ってしまうと、自罰的から他罰的、葛藤の内省から行動化、良心(あるいは超自我)から自己コントロール、responsibility(自己責任)からaccountability〔説明責任〕への重点の移行ではないか。(批評空間2001Ⅲ-1 「共同討議」トラウマと解離(斎藤環/中井久夫/浅田彰)
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ラカンは、学園紛争のおりに《父の蒸発 évaporation du père》 (「父についての覚書 Note sur le Père」1968年)と言っている。ラカンのいう主人の言説から資本の言説への移行が、このあたりにある(参照)。
危機 la crise は、主人の言説 discours du maître というわけではない。そうではなく、資本の言説 discours capitalisteである。それは、主人の言説の代替 substitut であり、今、開かれている ouverte。
私は、あなた方に言うつもりは全くない、資本の言説は醜悪だ le discours capitaliste ce soit moche と。反対に、狂気じみてクレーバーな follement astucieux 何かだ。そうではないだろうか?
カシコイ。だが、破滅 crevaison に結びついている。
結局、資本の言説とは、言説として最も賢いものだ。それにもかかわらず、破滅に結びついている。この言説は、支えがない intenable。支えがない何ものの中にある…私はあなた方に説明しよう…
資本家の言説はこれだ(黒板の上の図を指し示す)。ちょっとした転倒だ、そうシンプルにS1 と $ とのあいだの。 $…それは主体だ…。それはルーレットのように作用する ça marche comme sur des roulettes。こんなにスムースに動くものはない。だが事実はあまりにはやく動く。自分自身を消費する。とても巧みに、(ウロボロスのように)貪り食う ça se consomme, ça se consomme si bien que ça se consume。さあ、あなた方はその上に乗った…資本の言説の掌の上に…vous êtes embarqués… vous êtes embarqués…(ラカン、Conférence à l'université de Milan, le 12 mai 1972、私訳)
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話を元に戻せば、男ももちろん同じ傾向。
いやあ世界は、とくに日本の若者たちは変わったね、「資本の言説」の時代の若者たちは。
ラカンのいう資本の言説の時代とは、新自由主義の時代、市場原理主義の時代とほぼ等価。つまり主人の支えがないのだから、人間関係は二者関係的になる。
つまりは勝ち組/負け組の時代である。
・・・というわけで笑うことだよ、まず現在の「不幸な」社会構造をみつめて。
いやあ世界は、とくに日本の若者たちは変わったね、「資本の言説」の時代の若者たちは。
ラカンのいう資本の言説の時代とは、新自由主義の時代、市場原理主義の時代とほぼ等価。つまり主人の支えがないのだから、人間関係は二者関係的になる。
三者関係の理解に端的に現われているものは、その文脈性 contextuality である。三者関係においては、事態はつねに相対的であり、三角測量に似て、他の二者との関係において定まる。これが三者関係の文脈依存性である。
これに対して二者関係においては、一方が正しければ他方は誤っている。一方が善であれば他方は悪である。(中井久夫「外傷性記憶とその治療ーーひとつの方針」初出2003年『徴候・記憶・外傷』所収ーー「アタシはファルスだわ、あなたたちよりもずーっと」)
つまりは勝ち組/負け組の時代である。
今、市場原理主義がむきだしの素顔を見せ、「勝ち組」「負け組」という言葉が羞かしげもなく語られる時である。(中井久夫「アイデンティティと生きがい」『樹をみつめて』所収)
「帝国主義」時代のイデオロギーは、弱肉強食の社会ダーウィニズムであったが、「新自由主義」も同様である。事実、勝ち組・負け組、自己責任といった言葉が臆面もなく使われたのだから。(柄谷行人「長池講義」2009)
・・・というわけで笑うことだよ、まず現在の「不幸な」社会構造をみつめて。
聖人となればなるほど、ひとはよく笑う Plus on est de saints, plus on rit。これが私の原則であり、ひいては資本主義の言説からの脱却なのだが、-それが単に一握りの人たちだけにとってなら、進歩とはならない。(ラカン、テレビジョン、1973年ーー飲めば飲むほど渇く)