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2018年8月30日木曜日

アタシはファルスだわ、あなたたちよりもずーっと

三者関係の理解に端的に現われているものは、その文脈性 contextuality である。三者関係においては、事態はつねに相対的であり、三角測量に似て、他の二者との関係において定まる。これが三者関係の文脈依存性である。

これに対して二者関係においては、一方が正しければ他方は誤っている。一方が善であれば他方は悪である。(中井久夫「外傷性記憶とその治療ーーひとつの方針」初出2003年『徴候・記憶・外傷』所収)

ここでラカン派ポール・バーハウの二者論理の説明を聞こう。

重要なことは、権力 power と権威 authority の相違を理解するように努めることである。ラカン派の観点からは、権力はつねに二者関係にかかわる。その意味は、私か他の者か、ということである(Lacan, 1936)。この建て前としては平等な関係は、苦汁にみちた競争に陥ってしまう。すなわち二人のうちの一人が、他の者に勝たなければいけない。他方、権威はつねに三角関係にかかわる。それは、第三者の介入を通しての私と他者との関係を意味する。(ポール・バーハウ., Social bond and authority, 1999)

※この考え方をめぐる詳細は、「二者関係先進国日本」に記述してある。


さらに同じPAUL VERHAEGHEの『new studies of old villains A Radical Reconsideration of the Oedipus Complex』(2009)より。

二項論理の場では、私か他者のどちらかの選択肢しかない。したがってエディプス的状況(三項関係)が象徴的に機能していない事実を示している。…

この二項論理は、日常の精神病理において、よく知られた数多くの変奏がある。(ポール・バーハウ『エディプスコンプレクスの根源的再考』2009) 

この記述の直後、次の文が現れる。まず英文のまま示す。

"I have/am the phallus more (or less) than that other" (competition).
"The other doesn't give me enough of the phallus" (revendication).
"Not I but that other has/is the phallus" (jealousy).
"I don't have/ I'm not the phallus and will never have/ be it" (depression).
"I have/ am the phallus" (narcissism).

簡潔化のために男女が入り混じって記されているが、邦訳すればこういうことである。

【競争】:ボクは連中よりももっとファルス(想像的ファルス)を持っているぞ
               アタシはほかの女たちよりもっとファルス(欲望の対象)だわ

【文句】: あの人は、アタシにじゅうぶんにファルスをくれないの…

【嫉妬】: ボクじゃないんだ、連中がファルスを持ってるんだ……
                 アタシじゃないの、ほかの人たちがファルスなの…

【鬱屈】:ボクはファルスを持っていないんだ。今後も決して持てない…
               アタシはファルスじゃないの。これからもダメね…

【ナルシシズム】: ボクはファルスを持ってるさ /アタシはファルスよ


ーー日本の言説空間はまちがいなくこの二者関係の論理に支配されている。現在は世界も日本化しているが。「現在」とは、すなわち1968年の《父の溶解霧散 évaporation du père》(ラカン)以降、さらにマルクスの父が完全崩壊した1989年以降の世界においてはいっそう。

今、市場原理主義がむきだしの素顔を見せ、「勝ち組」「負け組」という言葉が羞かしげもなく語られる時である。(中井久夫「アイデンティティと生きがい」『樹をみつめて』所収)

「勝ち組」「負け組」主義とは二者関係主義であり、市場原理主義とは現在の新自由主義のことである。

「帝国主義」時代のイデオロギーは、弱肉強食の社会ダーウィニズムであったが、「新自由主義」も同様である。事実、勝ち組・負け組、自己責任といった言葉が臆面もなく使われたのだから。(柄谷行人「長池講義」2009


さて、上のバーハウ2009の意訳文で、想像的ファルスを「欲望の対象」ともしたが、その意味は次のラカン文にある。

女性が自分を見せびらかし s'exhibe、自分を欲望の対象 objet du désir として示すという事実は、女性を潜在的かつ密かな仕方でファルス ϕαλλός [ phallos ] と同一のものにし、その主体としての存在を、欲望されるファルス ϕαλλός désiré、他者の欲望のシニフィアン signifiant du désir de l'autre として位置づける。こうした存在のあり方は女性を、女性の仮装
la mascarade féminineと呼ぶことのできるものの彼方 au-delà に位置づけるが、それは、結局のところ、女性が示すその女性性
féminité のすべてが、ファルスのシニフィアンに対する深い同一化に結びついているからである。この同一化は、女性性 féminité ともっとも密接に結びついている。(ラカン、S5、23 Avril 1958)

たとえば女学生たちのミニスカ競争とはこれ以外の何ものでもない、《アタシはほかの女たちよりもっとファルス(欲望の対象)だわ》




もっとも別に現在のミニスカ競争だけではない。かつての少女たちもちろんファルス競争をしていたのである。現在はそれが露骨になっているだけである。女性の仮装性、これが女たちの歴史である。




女の最大の技巧は仮装 Luege であり、女の最大の関心事は見せかけ Schein と美しさ Schoenheit である。(ニーチェ『善悪の彼岸』232番、1886年)
仮面: いかに探しても、中身はなく純粋な仮面 reine Masken であることが瞭然とする女たち Frauen がいる。このほとんど亡霊のような gespenstischen、したがって必然的に不満をもたらす女たちと交際する男は、哀れまれるべきであるが、まさに仮面であるからこそ、男の欲望 Verlangen des Mannes を最も強く刺激するのである。彼は彼女の魂を探し求める。そしていつまでも探し続ける。(ニーチェ『人間的な、あまりに人間的な』第1部405番、1878年)
男を女へと結びつける魅力について想像してみると、「擬装した人 travesti」として現れる方が好ましいのは広く認められている。仮面 masques の介入をとおしてこそ、男と女はもっとも激しく、もっとも燃え上がって la plus aiguë, la plus brûlante 出会うことができる。(ラカンS11、11 mars 1964)
人は女を深いとみなしているーーなぜか? 女の場合にはけっして浅瀬に乗りあげることはないからである。女はまだ浅くさえないのである。(ニーチェ『偶像の黄昏』 「箴言と矢」27番、1888年)

ーーいやあシツレイ、アタシは絶対コウジャナイワ、と思い込んでいる現代的女性のみなさん!  《万人はいくらか自分につごうのよい自己像に頼って生きているのであるHuman being cannot endure very much reality》 (T.S.Eliotーー中井久夫超訳)


・・・さて話を戻せば、原初の母子関係は二者関係的である。想像的ファルスを第三項として捉える「文字通り」ラカン読み派もいるが、あの類はこの際、無視しなければならない。

最初の母子関係において、子供は身体的未発達のため、必然的に最初の大他者に対して受動的対象となる。…そこでは二つの選択しかない。母の欲望に従うか、それとも従うのを拒絶して死ぬか、である。このような状況は、二者関係-想像的関係の典型であり、ラカンが鏡像理論にて描写した状況である。(ポール・バーハウ PAUL VERHAEGHE, New studies of old villains:『エディプスコンプレクスの根源的再考』2009)

恋愛関係も、母子関係ほどではないが、基本的には二者関係的である。

恋愛は拷問または外科手術にとても似ているということを私の覚書のなかに既に私は書いたと思う。(⋯⋯)

たとえ恋人ふたり同士が非常に夢中になって、相互に求め合う気持ちで一杯だとしても、ふたりのうちの一方が、いつも他方より冷静で夢中になり方が少ないであろう。この比較的醒めている男ないし女が、執刀医あるいは体刑執行人である。もう一方の相手が患者あるいは犠牲者である。(ボードレール、Fusées)

第三項が必要なのである。それが「騙されない者は彷徨う」の重要な意味である(「父の名 le Nom‐du‐Père」と「騙されない者は彷徨う les non‐dupes errent」(S21)は同じ発音)。

別の言い方をすれば、想像的ファルスの跳梁跋扈を飼い馴らすためには象徴的ファルスが必要なのである。

もっとも誤解のないようにこう付け加えておかねばならない。

人は父の名を迂回したほうがいい。父の名を使用するという条件のもとで。le Nom-du-Père on peut aussi bien s'en passer, on peut aussi bien s'en passer à condition de s'en servir.(Lacan, S23, 13 Avril 1976)

第三項を設置してかつての支配の論理を復活させようなどという意図は毛ほどもない。だが第三項の「使用」は必ず必要なのである。

とはいえーー愛の話に戻ればーー、彷徨うのが好きな人の存在を否定するつもりはない。

人は愛するとき、迷宮を彷徨う。愛は迷宮的である。愛の道のなかで、人は途方に暮れる。(ミレール、愛の迷宮 Les labyrinthes de l'amour'、1992、pdf)

むしろ迷宮を彷徨って地獄の底を一度は眺めてみることこそ、まずは肝要だとさえ言える。

迷宮の人間は、決して真理を求めず、ただおのれを導いてくれるアリアドネを求めるのみ。Ein labyrinthischer Mensch sucht niemals die Wahrheit, sondern immer nur seine Ariadne –(ニーチェ遺稿1882-1883)

そのとき恋愛関係を支えるものは何もないことを知る。それが「大他者は存在しない」の意味である。

大他者は存在しない。それを私はS(Ⱥ)と書く。l'Autre n'existe pas, ce que j'ai écrit comme ça : S(Ⱥ). (ラカン、S24, 08 Mars 1977)

別の言い方をすれば、《真理は女である。die wahrheit ein weib》 (ニーチェ『善悪の彼岸』1886年)である。

真理は乙女である。真理はすべての乙女のように本質的に迷えるものである。la vérité, fille en ceci …qu'elle ne serait par essence, comme toute autre fille, qu'une égarée.(ラカン, S9, 15 Novembre 1961)
真理は女である。真理は常に、女のように非全体(非一貫的)である。la vérité est femme déjà de n'être pas toute(ラカン,Télévision, 1973, AE540)

女への愛は必要不可欠である。そのときはじめて神はいない(大他者は存在しない)ことを知る。

生への信頼 Vertrauen zum Leben は消え失せた。生自身が一つの問題となったのである。ーーこのことで人は必然的に陰気な者、フクロウ属になってしまうなどとけっして信じないように! 生への愛 Liebe zum Leben はいまだ可能である。ーーただ異なった愛なのである・・・それは、われわれに疑いの念をおこさせる女への愛 Liebe zu einem Weibe にほかならない・・・(『ニーチェ対ワーグナー』エピローグ、1888年)
「大他者の(ひとつの)大他者はある il y ait un Autre de l'Autre」という人間のすべての必要(必然 nécessité)性。人はそれを一般的に〈神 Dieu〉と呼ぶ。だが、精神分析が明らかにしたのは、〈神〉とは単に《女 La femme》だということである。(ラカン、S23、16 Mars 1976)

誤解のないように付け加えておかねばならない、女への愛とは、究極的には、女にとっても女への愛であることを。

「女というもの La Femme」 は、その本質において dans son essence、女 la femme にとっても抑圧(追放)されている。男にとって女が抑圧(追放)されているのと同じように aussi refoulée pour la femme que pour l'homme。

なによりもまず、女の表象代理は喪われている le représentant de sa représentation est perdu。人はそれが何かわからない。それが「女というものLa Femme」である。(ラカン、S16, 12 Mars 1969ーーS(Ⱥ)と表象代理 Vorstellungsrepräsentanz(欲動代理 Triebrepräsentanz)